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木棺 墓 SX6428に つ いて

ドキュメント内 A 第Ⅵ章 (ページ 48-53)

A SX6428の 概要

東一方大路西側清SD6400の西方約 8m、 奈良時代の井戸SE6432の東南方約

5mで

平安時代 の木棺墓

1基

を検 出 した。主軸 はほぼ南北であるが、わずかに北 で西 に振れ る。墓坑 の掘形 は、

長 さ202 cm、 北端幅65 cm、 南端幅

58 cmで

、深 さ19 cmが残 る。棺材 は遺存 していなかったが、

その痕跡か ら、長 さ175 cm、 北端幅56 cm、 南端幅49 cmと推定で きる。木棺 の北端 と中央 の下 には、主軸 と直交 して木材 の痕跡が あ り、角材 をわた して桟 としていた と考 えられ る。副葬品 には、土師器杯、黒色土器甕、須恵器平瓶、水晶玉、漆器椀、方形漆皮箱各1、 承和 昌宝(承

2年 :835年初鋳

)2枚

があ り、木棺墓 の年代 は

9世

紀前半 と考 えられ る。

B  木棺墓の集成 と SX6428の 分析

SX6428と時期的 に前後 す る畿 内中枢部である奈良・京都 。大阪地域 の

8世

紀 か ら10世紀初頭 の木棺墓 は、別表13の通 りで、現在 の ところ30例を数 える。

Fig.55に各木棺墓の墓坑・木棺 の規模 を示 したが、 これをみる と、墓坑 の大小 は椰 な どの施 設の有無 とも関係す る可能性がある。特 に、幅100 cm以下の墓坑 には榔 を伴 わない。木棺 につ いては、小型の ものを除 けば、この時期 の ものは、墓坑の大小 にかかわ らず、長 さ170〜200 cm、

40〜60 cmの範囲 にまとまる。おそ らく、当時の木棺 は、規模 に多少のば らつ きはあるものの、

成人 を伸展 して葬 るのに必要な大 き

 

偏 洋400m)

猪 人

被 成

さで製作 したのであろう。

SX6428の墓坑 は、土 師 の里

9号

墓、長 岡京六条大路 な ど特 に小型 の 例 を除 けば、比較的小型 の もので、

上記の幅100 cm以下 の ものである。

SX6428で

は椰 は検 出 していないが、

墓坑 の規模か らも、椰 を設 けていな かった ことは確実であろう。 また、

木棺の規模 は他の木棺が集 中す る範 囲 に入 り、SX6428の被 葬者 も成 人 であった と考 えることがで きよう。

SX6428で

は副葬 品 は北端 に集 中 している。 このように墓坑・ 棺 の長 軸端部 に遺物が集中す る例 は、他 で もしばしばみ られ る。こうした場合、

現在の ところ、歯や骨、身 につけて いた装飾品の位置で検証 された事例 206

100 (幅

:cm) 200

Fig 55 木 棺 墓 の規 模 SX6428壱きtt

 

△み  D

SX6428'ト

墓 坑 木 相

榔 。木炭床 あ り [・木炭床 な し

はないが、副葬品が集中す る端部 のほうに埋葬頭位 を求 めている。本例 の場合 も、副葬品の集 中 と棺幅が南 よ り北 の方が広 い ことか ら、北側 に頭位 を求 める ことがで きる。

副葬品の うち、平瓶、漆皮箱 は棺底 にほぼ接 して出土 した ことか ら、棺 内に副葬 した とみる ことがで きる。一方、甕、漆器椀 は棺底 か ら遊離 して出上 してお り、棺外 に置いていた可能性 が高い。 また、杯 と漆器椀 は重ねていた と考 えられ る。つ まり、北枕 に安置 された遺体 の枕元 に平瓶、漆皮箱 を納 め、棺蓋上 に甕 と重ねた杯、漆器椀 を置いていた と推定で きる。棺内の も のは水滴 と考 えられ る平瓶や方形漆皮箱 な ど属人器的な色彩 の強 い ものであるのに対 し、棺蓋 上 に置いた と考 え られ るもの は、椀、杯、甕な ど供膳 に用いた もので ある。棺 内に納 めた もの

と棺外 に置 いた ものの間で、意味 を異 にしていたのであろう。

SX6428で

は、銭貨、漆器椀、方形漆皮箱、水晶製小玉な ども副葬 されていたが、これ らは8

世紀後半か ら

9世

糸己中葉 にか けての木棺墓 にしばしばみ られ るもので ある。 こうした遺物が偶 然選択 されて副葬 された とは考 えがたい。各木棺墓 に、 これ らを副葬 す ることに対 して、共通 した意味があった可能性がある。 また、石帯、冠 な ど、被葬者 の階層 を想定 させ るような副葬 品はない。 しか し、漆器や水晶玉な どの当時 にあっては高価 と考 え られ るものを副葬 している ことか ら、

SX6428の

被葬者 は、こうした高価 な ものを購入 あるいは使 用で きるほ ど経済的 に富 裕 な階層であった とみることがで きよう。十六坪の遺構変遷 によれ ば、

SX6428の

属す る

V期

で は、 この地 は依然、宅地 として機能 してお り、南西部の両廂付建物SB6595を 中心 に7棟以上 の 建物がある。SX6428と こうした建物群 を明確 に分離する塀 な どは検 出 していない。したがって、

建物か らやや離れ るとはいえ、 これ らと同一宅地内に設 けてい ることがわか る とともに、被葬 者 とその家族 は十六坪 の住人 と関わ りがあった可能性が強 く、宅地 内 に何 らかの意図 をもって SX6428を構築 した と考 えることがで きる。 また、建物規模 も

SX6428の

被葬者 もしくはその家 族 は経済的 に裕福 な階層 とい う先 の想定 とも矛盾 しない もの といえよ う。

C  畿内中枢部 にお ける古代木棺墓

次に、集成 した木棺墓 を分析す ることによ り、 この時期 の木棺墓 について考察 を加 えてみた い。まず、神 の有無、副葬品の差 を基準 にす ると、別表13の木棺墓 は

Tab.31の

ように分類 で き る。 ここでい う官人的副葬品 とは、被葬者が官人であることを推定 しうる石帯、冠 を指す。

8世

紀か ら

9世

紀 にか けての木棺墓 は、従来か ら律令官人 の墓 と指摘 されて きた1)と ころで あるが、今回の分類 では、官人的副葬品 をもつ

B類

C類

G類

のほか、

D類

のなかで、奈良 時代 の墳墓 として は珍 しい再椰 をもつ高安城30号墓、官人 の墓 とされ る ものにしばしば伴 う墓 誌・ 買地券 とされ る鉄板が出上 した高安城10号墓、 また当時貴族 しか使 用で きなかった と考 え られている金属製食器が副葬 されていた沓掛墓 も官人墓の可能性が高 い とみなせ よう。 したが って、官人墓 と考 えることがで きるのは、B・ C・

G類

D類

の一部 となるが、 これ らの多 くの ものが、榔 をもつ ことは注 目で きる。 しか し、同時に木棺墓 には官人 的 な副葬品 をもたず、被 葬者が官人 とは把握 しかね るものが多数存在す ることがわかる。 そ して、 これ らの多 くは、

E

類 に代表 され るように、椰 を もたず、構造的にも官人墓 とは差異があ る ことが判明す る。

次いで、副葬品 をみる と、漆器、鏡、土器、玉 な ど、様々 な ものの副葬が

8世

紀末 に始 まり、

官人的な副葬品 は

9世

紀後半 に入 ると激減するな どの変遷 をた どる。 また、椰 について も副葬

ヨ罠准二  Jヒ

副葬 品配置 に見 る違 い

被葬者 は経 済的 に裕福

木 棺 墓 の 分

  

木 棺 墓 の 変

  

Tab 31 

木棺墓 の分類

 

土器 の副葬 官人 的副葬 品

A類

能 峠1号墳 、長野 、安祥寺下寺 下 層

B類

平吉 、 岡本 山1

C類

木津西 山、西野 山、伽 山、土 師 の里1

D類

高安城10、 高安城30、 沓掛 、 岡本 山2

E類

平城 京 SX6428、 飛火野 、池上 、西 山I号墓 、西 山

H号

墓 、 石光 山11号 、石光 山12号 、丹切第2床面 、丹 切 第3床面 、 能 峠3号墳 、柚屋、土師の里9、 大坂城二 の丸 墓1

F類

G類

笹 尾

H類

長 岡京六 条大路、箸尾

品同様、

8世

紀末以降、椰 を伴わない ものが増加 してい くといった変遷 をみることができる。

こうした状況をもとにすれば、木棺墓の変遷 には以下の 3つ の段階があることが判明する。

①奈良時代後半の段階 :木棺墓の出現期である。当初 はC・

D類

が中心であった。

8世

紀末から

9世

紀中頃 までの段階 :木棺墓が増加するとともに、多様化す る時期である。

従来あったC・

D類

に加 え、榔のない

E類

など、多 くの類型のものが出現する。また、鏡や玉な どの奢修品をもつものも多 く、土器の副葬が始 まるのもこの時期か らである。

③ 9世紀後半以降の段階

:主

流 となる類型が E類 になる時期。椰や官人的副葬品をもつ類型 は数が激減したり、あるいはかつてなかったような多量の上器を副葬する B類 がみられるなど の現象がみられる。

この変遷 については、副葬 品な どか ら以下の ような背景があると想定で きるであ ろう。

①段階で出現 した ものが、いずれ も律令官人 の墓 とみなせ るものであることか ら、木棺墓 は 律令官人層の墓 として出現 した と考 えることがで きよう。 また、 この段階の木棺墓 は、いずれ も榔 をもつ構造であることか ら、当初 は、榔 と木棺 は一体の ものであった と想定 で きる。火葬 墓 にあって も、8世紀か ら9世紀 に、蔵骨器 を納 める外容器 をもつ ものや木炭で蔵骨器 を覆 う例 が多数知 られているが、 これな ども蔵骨器 は木棺、外容器 。木炭 は椰 に対応 させ ることがで き、

木棺墓 は本来、椰 を伴 うものであった とい う想定 を傍証 しよう。 また、時代 は下 るが、承和9 (842)年の嵯峨上皇遺詔 にある「重以棺椰、続以松炭」(F続日本後紀』同年7月丁未条)とい う語句 も、 これが漢文修飾であつて も、その一端 をあ らわ した もの とみることがで きる とともに、当 時、遺骸 は棺・椰で丁重 に葬 るもの と考 えられていた こともうかが うことがで きる。 また、後 にしばしば副葬 され る土器 は、当初 は目1葬され ることがなかった ようである。

②段階に入 って も官人墓 とみ られ るC・

D類

は存続 している。先 にあげた嵯峨上皇遺詔 のよう に官人層では、棺 と椰 は一体 とみなす考 えは綿々 と継続 していた とみ ることがで きよう。 その 一方で、A・

E類

な どが出現 し、木棺墓 は多様化 してい く。これ らは官人的な副葬品 をもたない 点や榔 を設 けないな ど、従来の木棺墓 とは異なる面 をもってお り、従来か らの木棺墓受容層で あつた官人 の意識 の変化 とともに、官人層 とは別 の階層の人々が、新た に木棺墓 を受容 し始 め た ことを示 している可能性が高い。 また、奢修 品の副葬が 目立つ ことは、木棺墓受容層が経済 的 に富裕 な階層であつた ことを示 してい よう。 さらに、棺外 に上器 を副葬す るようになった こ

とは、 この時期か ら埋葬時 に土器 な どの埋納 を行 なうような儀礼や習俗 が広 まった とみること 208

木棺墓 変遷 の

 

 

ドキュメント内 A 第Ⅵ章 (ページ 48-53)

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