• 検索結果がありません。

銀 而

辿え 建 文

かを なに

ら准

t

郡て るよ

清代における福州琉球館の改修年表

巻 頭 論 考

※典拠史料は表ーであげたものと同一である︒

15痩5 

年12  年12 

2 2

3

把 官

門妃天 殿 :t~

図 凶 官 図 両 頭 門 右ー 門官 四 塘 軒 庁 堵傍四門・ 屋

の 欄

公・ ~llJ 公 頭 天 事干儀 堵

号 室

I 門后噛・g ‑門

天・

土 左 門儀 ‑ 妃官官

通事右十 通事

・ 両傍

公 欄 公

主 題

館 .

4

公・

・署西傍

{

R~

骨l~

I

の の の の の の の の の

J

資同 公銀 摘資

t

資日

t

資同

公 公

銀 銀 銀 コ 銀

新柳建立 官 争の難/老化 銭七道 官が道 老化

に が 案 礼 正

格外来回老化 余を長雨 竣 効 ↓ 銀 月

lが

日/布政人よ』るこ ヵt 後巡回 百二2年2 2年2  工 果 進 を 9 の答 庫銀によ / /的船貢使日

施 恩 に 銀公↓/ 前 当 症側の道 枚の ルの い 夜 かる

! 台 自 到 ら倒

」建摘司‑ 2年2 

再 建 / 

者 再天 ょ当を使 給す壊/ 

な 前 にに 後= る が

岸 止

↓の よよ の に 露 摘資て る波

位牌風 つる 格外 の 造 わ

/ 主 E i 

の の

再 建て を

の銀子案営 た の

t

修 殿に

特 菜 め

た なよ る 鶴山四 ↓  ;Ol 

己制年

造破どる 1よ百銀案d=五 物 門 延寅 御 が 官なをし る

進 主 副 使

長 崩

目 I る 目 懇/し みを L

し 料 象{

し督訪 修理

て 銀 てかつ

'l l

4こへ物望/

芙 ら 皇

が 余 で

政司 天妃 若官

7

文 工

給 銀 は

/

進?の呈文 通事

L

百日た‑程

. 」 一

^ ‑

たし で 細 の が し

/ア修

進 る 1= 百

通 木) ^'  銀 再建てし貫船到着前曹訟による

半 が ま切

犯門 で昔

事 ↓ ンも

.石 戦 国 の↓ 両

役人による﹁揖資﹂も波唐役人個人の資本である︒御物銀以外にも渡唐役人の個人資本が費用にあてられている点は

注目すべきであろう︒改修費用は必ずしも御物銀のなかに予算化されていなかった点に注意しておきたい︒

改修された施設と費用の関係は次のようになる︒頭門︑儀門︑大堂︑培︑視館公署(把門館公署)︑土通事公館は中

国側の存公銀と﹁摘資﹂によって改修されている︒これらは駅としての施設︑および中国側スタッフの施設である乙

とに気づく︒これとともに︑基本的に七回にわたる大規模な改修はすべて中国側の費用によるものであったことを確

認しておきたい︒一方︑土地洞︑崇報桐(位牌殿)︑儀門に設置された石碑などは琉球側の﹁摘資﹂や勧進銀によって

改修・設置されている︒﹁専用施設﹂化と直接関連する問題と考える︒

これらの施設と改修費用の関係には一定の原則が存在したのであろう︒改修する施設に対して費用の出所は固定し

ていたものと思われる︒なお︑琉球側の負担によって施設が造営される場合に限り︑その経緯などを﹃歴代宝案﹂

中国側の史料に見いだすことができない︒このことは︑中国側が黙認していたというよりも︑両国間レベルで議論す

る問題でなかったと考えるのが順当であろう︒福建レベルでは了承済みの事項であったのだろう︒

これに対して特徴的なのは︑渡唐役人の滞在施設として使用された房舎(十欄)と小四欄である︒琉球側の費用で

は御物銀と勧進銀︑中国側の費用でも存公銀と﹁摘資﹂が適用されている︒同様に天妃宮の場合も琉球側の

﹁摘

積﹂

中国側では存公銀および﹁摘資﹂が適用されている︒琉球側の三つの祭杷施設のなかでも天妃宮は土地桐・崇報桐と

区別されていたようである︒ζの差異は設置された経緯︑施設の性格︑あるいは改修を必要とするにいたった要因の 違いによるものなのであろうか︒表

3

を見る限りでは︑少なくとも時期的な差異によるものではないようである︒

特に房舎と小四欄は波唐役人の﹁住居所﹂であり︑最も日常的に使用される施設であるという点でほかの施設とは

性格を異にしている︒なかでも小四欄は琉球側の資金によって新設された﹁専用施設﹂であった︒この施設を改修す

る費用が琉球・中国のいずれかに固定されていないのは大変興味深い︒換言すれば﹁専用施設﹂の改修費用を中国側 が負担するとともあったのである︒一方︑十欄についても兵火︑自然災害︑老朽化によって改修される場合は中国側︑

火災によって改修される場合は琉球側の費用によって負担される慣習が存在したように見える︒しかしながら︑その 場合︑嘉慶九年と道光二五年のケlスはあてはまらないことになる︒そこでは双方のあいだに何らかの交渉が存在し たことを想定させられる︒それでは房舎が改修されるまでに交渉は存在したのだろうか︒存在したとすればどのよう な内容の交渉が行われたのであろうか︒ 嘉慶九年には琉球館が全焼する空前の大惨事が発生したことを述べた︒この時の再建については︑ほかの六回の大 規模改修と比べて比較的関連史料が多く残存している︒

まず

﹃球陽﹄巻二

O

尚 瀬 王 即 位 元 (

一八

O

四)年条には次

のように見える︒

元年甲子正月初九夜柔連騨楼既自庁堂失火防而不能遂焼楼屋及所有天后神土地神併先人神主此時接貢船水梢蒲戸

仲村渠亦致焼死随請伯旧起蓋業蒙海防官批焼館非自外延焼因使臣等不慎之所致則難難准其願然琉球係天朝憐岨之

国是以准其所請本年十月仰旧告成

当年の正月九日の夜に庁堂から失火して楼屋︑天后宮︑土地神︑先人神主(位牌殿)に延焼したことがわかる︒乙 こでは火元は庁堂とあるものの︑﹁歴代宝案﹂

一 一

│一

O

二│一

O

号文書(校訂本第八冊)には︑﹁因天后楼上燭花遺火 延焼館駅﹂と見える︒おそらくは庁堂の後方に位置する天后楼上に灯された燭花の﹁遺火﹂が庁堂に延焼したのだろ ぅ︒ほかにも逃げ遅れたのであろうか︑接貢船の水梢である蒲戸仲村渠が焼死したことが知られる︒ここでは庁堂の

ほかには渡唐使節の滞在施設と祭杷施設のみが見える点に注意しておきたい︒

その後︑前例によって﹁起蓋(再建この申請をすることになる︒一旦は海防官によって﹁焼館非自外延焼因使臣等

不慎之所致則雌難准其願﹂という見解(批)が示されたものの︑最終的には﹁准其所請﹂という決着を見る︒つまり

海防官の見解が当初のものから変化しているととがわかる︒注意しておきたいのは︑当初︑﹁焼館﹂は外部からの延焼

ではなく︑渡唐役人の不注意によるものにほかならないため申請は受理できないとの見解を示していることである︒

再建・改修を必要とするにいたった要因とその後の対応のあいだに一定の原則が存在したことを想定する乙とが可能

となろう︒しかし︑ことでは原則にしたがった方針が覆されていることになる︒その理由を即座に琉球が﹁天朝憐岨

之国﹂であるととに求めるのは慎重であるべきであろう︒当年の一

O

月には再建工事は完了したようである︒

﹃球陽﹂の記述からは延焼した施設は確認できるものの︑再建された施設は不明である︒これに対して︑前出の

﹃歴代宝案

﹄一 一│ 一

O

二│一

O

号文書には次のように見える︒

(前略)於嘉慶九年冬各位憲台格外施恩摘資遣官将官庁・天后宮・両傍廟楼・西傍四軒・頭門・儀門・視館公署伺

旧起蓋至其囲堵亦復築起(後略)

とこから官庁・天后宮・両傍廟楼・西傍四軒・頭門・儀門・視館公署・囲塙が再建されたことがわかる︒

さら

には

再建の費用は﹁各位態台﹂による﹁摘資﹂によって負担されていたことが知られる

︒ ﹃ 球陽﹂では土地桐と位牌殿が延

焼したことが見えるもののここでは見えない︒再建されなかったというよりも﹁摘資﹂による再建対象とならなかっ

たことが考えられる

︒ ﹃

球陽﹄では見えない頭門︑儀門︑視館公署︑囲堵も再建されていることから︑被害は琉球館の

すべての施設におよぶものであったと思われる︒

一 O

の施設が焼失するという︑まさしく未曾有の大惨事であった︒ さて︑再建が決定するまでには中国側の方針に変化があ

ったことを述べた︒

はたして︑当該時期に接貢存留通事を

()務めた鄭育駿の譜に収録された﹁褒書﹂によると︑琉球館再建にいたるまでには交渉が存在し︑その経緯を詳細に知る

ことができる︒

在閏之時国柔遠駅失火焼吊備情

呈請改造余不准所請自用礼銀再三

懇請

蒙准仙旧改造

因此回国之後朝廷頒賜褒奨其褒書記左

口上覚

恐多御座候得共申上候

私事存留役被仰付在唐之時︑館屋中悉ク及焼失有合之人数末々迄

語同断之仕合ニ逢至 極悶入居候処︑造営方之儀︑差急キ不申候而不叶事ニ而報喪大夫始役者衆中出会阿口通事共相招何様可致哉申談

候処︑康照年間之時十欄致焼失候節︑御物銀を以作営方被仰付置候例ニ準シ此節之儀茂弥其通願立可然哉与相決︑

造営願之呈相調諸街門江願上候処︑吉悪之儀者後立市被仰聞由ニ而被召置候内︑接貢船之人数茂被致帰帆都市私

壱人之取計二罷成候得共大任之事︑昼夜共尽工面諸街門之様子静密ニ相伺段々相働候得共願通ニ者御取揚無御座︑

半方者被成下筈半方者琉球手銀を以相調候様被

波候付︑館中有物之儀不残及焼失極々困窮居候訳を以亦々願出

候処︑進貢船相待有銀之節造営可致旨被仰付︑此上者何共可申上様了簡絶果必至与驚入︑此涯

一御奉公与尽粉骨

夜白相考謂段々相含再

願之趣申上︑若御取揚無御座候ハパ帰国茂無甲斐身命を茂不惜呈文相調総督撫院街門江 E 嘆訟仕候処︑宮人衆ニ茂御取請宜敷模様相見得終ニ願通被仰付難有奉存候

然者表文弁貢物又者公私之荷物格護

所井弐百人飴之住居所も無之努以差支候付︑銀子四貫五百目自分雑費を以精々相働候故進貢船来着無之内︑普請

関連したドキュメント