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[巻頭論考]福州琉球館の構造と改修: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

[巻頭論考]福州琉球館の構造と改修

Author(s)

深澤, 秋人

Citation

琉球王国評定所文書, 16: 5-77

Issue Date

2000-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/19224

Rights

浦添市立図書館

(2)

福州琉球館の構造と改修

深 津 秋 人 はじめに 近世琉球においては、琉球王国と中国・薩摩のあいだに通交関係が成立し、対外使節が派遣されていた 。 中国には 冊封・朝 貢関係のもと渡唐使節が派遣され、明清時代にまたがる 二 七

O

年を通じて渡唐使節の窓口となった福州は、 ( l ) 朝貢ル l 卜の起点であり渡唐使節の拠点となった 。 そこに北京の会同館とともに中国側の公的施設として設置されて いたのが福州琉球館(以下、琉球館とする) である 。 そもそも琉球館は、明代に朝貢国の使節を滞在させるために造営された中国側の公的施設であり、正式名称は柔遠 駅という 。 しかし、琉球側の﹁専用施設﹂としての様相を呈していたごとは周知のとおりである 。 現在、琉球館の跡 考 地は福州市中心地の 南部、六 一 中路と国貨路が交わる地点のほど近くに位置する 。 往事の施設は現存せず、 スイッチ 論 工場となっている 。 数年前には工場に隣接するかたちで、沖縄と福州の交流の歴史を展示する﹁琉球館﹂が福州市に 目 員 よ って建設されている 。 巻 一 方、薩摩へは﹁従属的朝貢関係﹂のもと上国使者が派遣された 。 名称や位置に変遷はあるものの、ここでも公的 五

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ノ 、 ( 3 ) な滞在施設として、鶴丸城下に鹿児島琉球館が設置されていた 。 二 つの琉球館はそれぞれの使節の滞在施設であると 同時に、琉球王国の役人が組織的に諸々の公務をこなす場でもあった 。 このことから首里王府の出先機関としての性 格を有していたものとも考えられよう 。 本稿では、近世琉球において清朝に派遣された渡唐使節像を再検討する 一 つの視点として、渡唐使節が使用した硫 球館像を再構築することを試みてみたい 。 な お 、 タイトルでは﹁改修﹂の語句を使用したが、本文では再建・新設に ついても扱っていることをお断りしておく 。 第一章 琉球館をめぐる研究史と問題設定 一 、 研究史と周辺の研究動向 ( 4 ) 琉球館に関する研究は戦前から存在する 。 この時期には 一 部の施設が残存していた琉球館跡を研究者が実際に訪れ、 研究成果を残している 。 ま ず 、 ( 5 ) 一 九 三 三 年に東思納寛惇氏が琉球館跡を訪れている 。 氏は多くの写真を撮影しており、当時の館内には正門 掛額(﹁柔連駅﹂)、正門(黒漆屋根門)、扇額(﹁海不揚破﹂)、木造 二 階建の割棟長屋、倉庫(中 二 階 に 天 妃 堂 あ り ) 、 土地柄、位牌堂(崇報桐) などが存在したことを確認できる 。 現在では失われた遺構を知る上で貴重な資料である 。 門内は 一 町四方ほどの面積があ ったようである 。 氏はほかにも ( 6 ) ( 7 ) 時南台の蒼前山に多数存在した琉球人墓を訪れるとともに、太吉洋行の儀間正忠氏が保管していた

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た過去帳 一 冊を筆写している 。 二

OO

枚程からなる帳簿であり、氏名・没年・墓所の位置が明記されていた 。 墓 所が 存在する四九

O

名と墓所不明の八八名、合計五七八名が掲載されていたが原本・写本ともに現存しない 。 一 九 三 六 年には米倉 二 郎氏が琉球館跡を訪れている 。 氏は十軒長屋(東思納氏では割棟長 屋 か?)を臥 房 、 製茶 工 場(東思納氏では倉庫か?)を琉球館正庁に比定している 。 また、琉球桐 堂(祭 報桐)の 写真 も撮影している 。 ( 9 ) さ ら に 、 翌 年の 一 九 三 七年には小葉田 淳 氏が琉球館跡を訪れている 。 氏 は ﹃ 歴代宝案 ﹂ の琉球館関係史料を紹介する とともに、後掲する ﹃ 福建市船舶提挙司志 ﹂ の記述や同 書 に収録された ﹁ 貢 廠図 ﹂ ( 図 ー と し て 後 掲 ) から明代の琉球 館の規模、進 貢 廠と琉球館の関係についても論じている 。 氏は当時の面積を約 一 七

OO

坪としている 。 これらの 一 連の研究は、当時の現存遺構から明清時代の歴史 景 観を復元する手法をとるか、中国側史料に依拠した 論述が中心とな っ ている点に特徴がある 。 史料的制約の ・ ある当時にあ っ ては最新の成果といえよう 。 それ以降は個別の ( 凶 ) 指摘はあるものの、戦前の水準を超える専論が出現しない状況が長いあいだにわた っ て続くことになる 。 ( ) そのようななかで、近年、梅木哲人氏は琉球側の史料を用い、明清交替後の琉球館の施設に関する詳細な研究を発 表した 。 しかしながら、そこでも康照年間( 一 六六 二

i

一 七 二 二 )を中心とした論述にとどまり、清代における琉球 館の全体像はいまだに未解明の状態といえる 。 一 方、近年の近世琉球史研究は活況を呈している 。 その背景には 一 九 八

0

年代前半の ﹁ 家譜資料 ﹂ をはじめとして、 考 ﹃ 琉球王国評定所文書 ﹄ ﹁ 歴代宝案 ﹂ 校訂本・訳注本などの相次ぐ刊行がある 。 と の こ

0

年間で基本史料が増大したこ 論 とによって、研究は面目を 一 新したとい っ ても決して過 言 ではない 。 頭 このことは琉球 ・ 中国関係史の分野でも例外ではない 。 右の史料群のほかにも、中国第 一 歴史桔案館が所蔵する中琉 ( ロ ) ( 臼 ) 関係史の基本史料を編集した ﹃ 清代中琉関係柏案選編 ﹂ の刊行、国際シンポジウムの開催などによ っ て研究テ l マ は 巻 ー七

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A 細分 化 され、個別具体的な議論に推移している 。 このような状況下で琉球館をめぐる史料も次第に蓄積されつつある 。 二 、問題設定 と乙で本稿における問題の所在を明らかにしておきたい 。 右記のように琉球館をめぐる研究動向には近年変化があ る・ものの、基本的には戦前の研究水準を完全にクリアしているとはいいがたいのが現状であるように思う 。 その原因 の 一 つには琉球側の史料が充分に活用されていない点があると考える 。 そこで本稿では、琉球側の近世史料を用いるごとによ っ て清代における諸施設の変遷を追 っ てみたい 。 前半では戦 前の遺構から往事の歴史空間を復元するのではなく、文献史料から各施設の様相を明らかにすることを試みる 。 筆 者 はこれまでに、清朝に派遣された渡唐使節の従人層に設置された勤 学 人の具体像、 ﹁ 京 ﹂ ﹁摘回 ﹂ グループの帰国後 も福州に滞在した存留通 事 の 具 体像、渡唐使節内部で機能していた ﹁ 行政﹂機構、福州における渡唐使節の儀礼、 王 ( ) 府が発給した中国側に対する証明 書 である符文・執照の性 質 、渡唐使節の編成などを検証してきた 。 近世琉球の渡唐 役人が滞在した琉球館の空間構造を明らかにすることは、渡唐使節の機構、儀礼などの機能の問題とも連関しよう 。 琉球館をめぐる諸問題を琉球側の問題として扱 っ てみたい 。 琉球館は第 一 義 的には中国側の公的施設であるが、 首 里 王 府の出先機関という側面も有していた 。 こ の 二 面性は施 設 が改修される際に顕在化すると考える 。 後半では、通常時の維持 管 理、改修が行われる際に存在したであろう費用 の 負 担をめぐる原則、改修をめぐる中国側との交渉における争点、 交 渉の前段階として行われた琉球側の方針決 定 に いたるまでの経緯などに 言 及してみたい 。

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第 章 琉 球 館 を め ぐ る 基 本 的 な 問 題 一 、琉球館の所在と性格 渡唐船は中国大陸沿岸部に到着すると、五虎門を通過して閏江を遡上する 。 渡唐使節は間安鎮および閏海関での ( 江川 ) ﹁会験﹂を経て福州に上陸した 。 当時の福州は城郭都市であった 。 清代の古地図によると、福建省城の城内には総督 ・ ( M m ) 巡撫 ・ 布政司・福州府・閏県 ・ 侯官県などの主要街門が設置されていた 。 乾隆年間に編纂された ﹃ 福州府志 ﹂ 巻 一 八公署 一 には、﹁柔遠駅在水部門外 。 明日懐遠以為琉球諸番国使臣館寓之所、 国朝因之﹂と見える 。 琉球館は福州城に設置された 一 一 の城門のうち、東南部分の水部門の城外に位置していたこと がわかる 。 また、明代に柔遠駅が設置された当初は、琉球のほかにも﹁諸番国使臣﹂を﹁館寓﹂するための施設とし て位置づけられ、明清交替後には﹁国朝(清朝こもこれに準じていることが知られる 。 改めて琉球館が中国側の公的 施設であったことがわかる 。 渡唐船の多くは間江の中洲である南台の 北側に 着岸したが、南台の対岸に位置する﹁新港﹂から琉球館の近辺まで は開削された水路が通じていた 。 図

2

としてあげた 一 九世紀の作成とされる﹁波間航路図﹂(沖縄県立博物館蔵) 考 には垣に固まれた琉球館が見える 。 敷地内の中心線上には門、中心施設と思われる建物が位置し、両者は通路でつな 論 頭 がれ、その左右には方形の建物が存在する 。 また、中心施設の後方にはやや小型の建物が左右に設置されており、通 路の左右と小型の建物の近辺には樹木も見える 。 なお、図上では万寿橋がかかる水路も確認でき、五般の舟が浮かん 巻 で い る 。 九

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図1 貢廠図

(

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福建市舶提挙司志j所 収)

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それでは、琉球側は琉球館をどのように認識していたのであろうか 。 ﹁ 道 光 二 十 七 ( 一 八四七)年 接 貢 船 仕 出 日 記 ﹂ ( ﹁ 琉球王国評定所文書 ﹂ 第 三 巻 ) の冒頭には次のように見える 。 一 福州琉館屋之儀、大切成勅書・御拝領物・表文・貢物其外御当国御用物等格護有之事候付、第 一 盗賊之防 ・ 館 中取締 等 能々可入念事 。 この条項は評定所から渡唐使節に﹁御差図﹂として通達された文書の 一 節であり、琉球側の公式見解がうかがえる 。 琉球館は中国 皇帝 の 勅 書なら びに頒賞品、琉球国王の表文および朝 貢品 、さらには ﹁ 御 当国 御用物﹂を保管する施設 として認識されていたのである 。 後掲する ﹁ 歴代宝案 ﹄ 二 八九

O

九号文 書 などにも ﹁ 明 蒙天恩 於福省水関外設建 柔遠駅奉置勅書併貢物市使貢臣有棲止之﹂と見える 。 琉球館は﹁天恩﹂によって福省水関外に﹁設建﹂され、勅書や 朝貢品を﹁奉置﹂するとともに渡唐使節が ﹁ 棲止﹂するための施設であることがわかる 。 右にあげた史料の後半では、 それゆえに﹁盗賊之防﹂﹁館中取締﹂を徹底せよとある 。 中国側の対応はさておき、琉球側でも防犯体制が整備されて いたことをうかがうことができる 。 中国側の公的施設として設置された琉球館は、勅書や頒賞品などを保管する施設であると同時に渡唐使節の滞在施 考 設であった 。 しかしながら 一 方では多様な表情を見せる歴史空間でもあった 。 渡唐使節のブレーンである土通事 論 (河口通事)と頻繁に接触がもたれる政治的な場であり、唐船が帰国するまでの 一 定期間は、指定された中国商人が出 頭 入りし、﹁開館貿易﹂が展開される貿易センターとしての役割も果たしていた 。 いわば公館と商館の機能を兼ね備えた 巻 施設として機能していたといえよう 。 また、乾隆年間以降、琉球団内の島瞬間を航行中に中国大陸へ漂着する琉球人 十

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十 が急増する 。 漂着民はそれぞれの漂着地から福 州へ護送され琉球館で保護される システムになっていた 。 琉球館は漂 着民の収容施設としての性格も有するようになるのである 。 さらには、首里王府の出先機関である琉球館では渡唐使 節による文書行政が存在し、圏内と同様の儀礼も挙行されていた 。 このように、琉球館はまさに琉球側の﹁専用施設﹂のごとき様相を呈するようなるが、清代を通じて中国側の公的 施設であることに何ら変化はなく、敷地内には琉球館を管理する中国側宮人が詰める施設も存在した 。 中国側の公的 施設でありながら﹁専用施設﹂化が進んだことは、後述する諸施設の新設や改修をめぐる問題と直接関係することに なる 。 二 、琉球館の変遷 ( 一 ) 明 代 ・ 清 初 の 様 相 明代の琉球館に関連する史料として 一 五五五年頃に高岐が編集した ﹃ 福建市舶提挙司志 ﹂ がある 。 そのなかの ﹁ 柔遠駅﹂の項には次のように見える 。 前庁 三 間 両辺臥房共六間 後庁五聞 両辺夷梢臥房共 二 十七間 二 門 三 間 両辺夷梢臥房共六間 守把千戸房 両辺共十間 軍士房 二 間 大門 一 間 す な わ ち 、 ﹁ 福建市舶提挙司志 ﹂ が成立した時期の琉球館は 一 三 の施設で構成されていたことがわかる 。 中心施設と

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思われる前庁・後庁の左右には、両辺臥房(ともに六間) とともに施設のなかでもとりわけ規模の大きな両辺夷梢臥 房(ともに 二 七間)が設置されていた 。 前者は渡唐役人の滞在スペース、後者は﹁夷梢﹂の滞在スペースであろうか 。 二 門と大門のあいだには規模の小さな両辺夷梢臥房(ともに六間) とともに、中国側の宮人や兵員の施設であろう守 把千 戸房両辺(ともに 一

O

間 ) と 軍 士 房 ( 二 間)が位置したようである 。 一 三 の施設のうち九までを臥房と房が占め て い た 。 とりわけ﹁夷梢臥房﹂の占める割合が高いように見える 。 しかし、渡唐役人がそれぞれの施設をどのように 使用していたのかは具体的に明らかでない 。 琉球館も明清交替の動乱と無関係ではなかった 。 琉球と清朝の通交が開始されて聞もない康照五年( 一 六六六)年 の段階では、戦火を受け荒廃していたようである 。 清初の琉球館の状態を詳細に知ることのできる史料として、 ﹃ 歴代 宝案 ﹂ 一 一 四 一

O

号文書(校訂本第 一 冊)がある 。 琉球国中山王臣尚質謹 奏為敬陳雑処情景官懇 聖明垂断以安遠人以彰浩蕩事 。 臣琉球国万里効誠 三 年両貢使臣相継員伴雑踏原荷 天恩於福州水関外説柔遠館駅 一 所中有頭門 ・ 儀門 ・ 大堂 ・ 月台 ・ 左右両傍房舎 三 十 二 問皆備整完固使 貢臣有棲 止 考 之地方物無湿壊之虞又於附駅瞭地週囲棚橋日夜巡濯使居民貢使無相混雑嫌隙不生和好永田規制甚弘体岨至悉 論 也 。 査戊子兵火本駅大堂・頭門・儀門頭為瞭土、両傍舎僅存 一 十六間居止浅窄屋宇荒涼毎至風雨之タ員伴滴 頭 漏不堪方物傍僅恐湿但係小事前此不敢言也 。 近間関外 一 帯靖藩住兵本駅儀門内外槽供臣員出入者今皆兵丁房 巻 屋藩臣封彊依繁兵難散処従来多不相安況入貢員伴以万里最疎遠之人言語不通噌好不同今与藩前兵丁同門共住 十

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十 四 万 一 居処日久不相和協 此 時臣員負不謹之罪而 天朝即難示寛大之恩居止雌係小事和好建聞大体前此不敢言今 此 不敢不言也 。

E

臣恭敬 天朝無微不慎入貢陪臣麻酔不嘱其謙謹小心以照忠順今臣身在万里照管不及兵棋界雑処誠恐臣員疎思不諾礼体梢滋謬 一 戻 負臣恭敬之心為 此 蚤夜不安粛恭具 奏伏乞 鑑臣愚誠 側垂乾断或量移善 地 男行起蓋或清出旧基復新規制侍臣入賞員伴得安棲止以免罪一戻 覆幡鴻恩与天地等失臣不勝戦傑待 命之至為此具本専差正議大夫鄭思善等斎赴謹上 奏 聞伏候 勅 旨 自為字起至旨字止五百 二 字紙 一 張 康照五年 二 月初九日 琉球団中山王臣尚質謹上奏 再対正之 乙の文書は康問五年 二 月九日付けで作成された琉球国王尚質の上奏文である 。 ( 四 ) 年に兵火を受ける以前には、館内に頭門 ・ 儀門 ・ 大堂・月台 ・ 左右両傍房合 三 十 二 聞が存在し、その周囲には楠(垣) 六年前の戊子(順治五 ・ 一 六四八) が築かれていたことが知られる 。 ﹃ 福建市舶提挙司志 ﹄ では見えないものとして月台がある 。 正庁・後庁からなってい

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た中心施設も大堂と見え、 三 対存在した両傍房舎もここでは 一 対のみである 。 一 五五五年から約 一OO 年のあいだに 建物の配置に差異が生じていたことがわかる 。 なお、ことでは中国側の施設が見えないものの、存在しなかったとす ることには慎重であるべきであろう 。 これらの施設は戊子の兵火によ っ て甚大な被 害 を被ることになる 。 大堂 ・ 頭門 ・ 儀門は破壊され、房舎も 三 十 二 問 のうち十六聞がようやく残存するという荒廃した状態であった 。 渡唐役人は風雨をしのぐこともままならず、﹁方物﹂ の格謹にも支障が生じていた 。 加えて館内には靖藩の 兵が駐 屯し、儀門の内外の施設は兵丁の房 屋となり、渡唐使節 と﹁雑処﹂する状態であった 。 琉球団王は﹁方物﹂ の格誰がままならないこと、靖藩の兵とのあいだにトラブルが発 生することを懸念し、琉球館を移転するか、現在地に再建すると同時に﹁新規制﹂することによって、渡唐使節に対 する待遇の改善を要望している 。 琉球館は上奏文による懇願が行われた 二 年後に再建される 。 ﹃ 聖祖実録 ﹂ 巻 二 五康照七 ( 一 六 六 八)年 二 月乙亥条に は次のように見える 。 命福建督撫重建柔遠館駅以駐琉球国使 考 琉球館の再建は、琉球国王の上奏を受けた皇帝が福建督撫に命ずるという手続きを踏むことによって実現した点に 論 注意しておきたい 。 し か し な が ら 、 ﹃ 聖祖実録 ﹂ では﹁移善地凶行起蓋﹂されたのか、あるいは﹁清出旧基復新﹂され ( 初 ) たのかが明らかでない 。 また再建された施設名も見えない 。 こ れ に 対 し て 、 ﹁ 歴代宝案 ﹂ 二 │ 八 九 │ O 九 号文書(校訂

E

員 巻 本第七冊) では次のように見える 。 十 五

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十六 (前略)康照五年先祖尚質粛備奏文叩請起蓋荷蒙天思准於旧基建官庁併両傍廟楼 ・ 頭門 ・ 儀門 ・ 視館公署、新築囲 塘得以奉置勅書併貢物

E

使臣無暴露之憂(後略) ﹁ 旧基 ﹂と見えることから、移転のかたちはとらずに 旧来の土地に ﹁ 重 建 ﹂ さ れたことが知られる 。 また、官庁・ 両傍廟楼・頭門・儀門 ・ 視館公署が再建され、囲堵も新たに造営されたことがわかる 。 一 六四八年に被災してからす で に 二

O

年を経過していた 。 それでは、康照七年の再建以降、琉球館はどのような変遷をたどったのであろうか 。 実は再建から六年後の同 一 三 ( 一 六 七 四 ) 年 に 、 秋継茂の乱による 二 回目の兵火を受け、またしても諸施設は破壊されることになる 。 康照年間前半における琉球館の変濯をよく伝える﹁河口柔速駅記﹂には、康問 二 二 年の被害の様子が次のように見 え る 。 ﹁河口柔遠駅記﹂は程順 則によ って記され、﹁重建天 妃楼記 ﹂ ﹁ 柔 遠 駅 土 地桐記 ﹂﹁柔遠駅駅崇報嗣記﹂とともに ﹃ 指南広義 ﹄ に収録されている 。 自錆藩調間後、前面侵為両鎮営房、 地遂促、及甲寅 之変、折段幾尽、僅存官庁 一 所 ﹁甲寅( 一 六七四年)之変﹂による兵火によ っ て、館内の施設はわずかに ﹁ 官庁 一 所﹂が残存するのみとなったこ とがわかる 。 ことに見える﹁官庁﹂とは大堂であろう 。 しかし、乙の時は 一

O

数年にわた っ て再建がなされないまま 放置されることはなく数年後には再建される 。 同史料には次のように見える 。

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歳丁巳我国遣官遠授、適開奉命大将軍和碩康親王、統禁旅、入仙霞、民皆按堵、越明年奉実知旧、時諸当事以館 駅傾把、恐裂貢典、兼倒使臣露宿、特委郡(都カ)司馬蘇公、重新起藁、大門儀門、併両辺廟核各十 一 門、儀門 外、視館公署 一 座、庁後天妃桐堂 三 小間 丁 巳 ( 一 六七七)年の翌年には停止されていた﹁奉貢﹂も再開されたものの、戊子の兵火の時と問機に﹁貢典﹂の格 謹もままならず、渡唐使節は﹁露宿﹂を余儀なくされていた 。 そこで、郡(都カ)司馬蘇公が派遣され、大門・儀門・ 両辺閥楼各十 一 門、儀門の外には視館公署 一 座、﹁庁後﹂には天妃嗣堂 三 小聞が再建されたことが知られる 。 再建され た施設のなかに大堂が見えない乙とからも残存した﹁官庁﹂とは大堂を指していることがわかる 。 また、天妃桐堂が 再建されたのに対して、後掲する﹁旧制﹂では存在した土地嗣が見えないことに気づく 。 あるいは中国側による再建 の対象から外れていた可能性もあろう 。 なお、前出の ﹁ 歴代宝案 ﹂ 二 │ 八 九

O

九号文書には次のように見える 。 (前略)時存留在駅通事呈懇起叢於康照十八年藩司盟両院以館駅傾把恐副総勅書併貢物兼欄使臣露宿重新起蓋(後略) 乙こには﹁河口柔遠駅記﹂では得られない 三 つの情報が存在する 。 まず、存留在駅通事が 呈 文 で ﹁ 起 蓋 ﹂ を懇願し 考 ていることがわかる 。 康照五年には琉球国王の上奏文によって再建を要望していたものが、今回は福州に滞在する存 論 留在駅通事が作成した呈文による懇願に変化しているのである 。 次に﹁河口柔遠駅記﹂では必ずしも明記されていな E員 い再建の時期が、被災から五年後の康照 一 八 ( 一 六 七 九)年であ ったことがわかる 。 さらに注目すべきは、存留在駅通 巻 事から﹁呈懇﹂された布政司と両院は、琉球館が﹁傾把﹂して勅書や貢物が﹁襲﹂することや、渡唐役人が﹁露宿﹂ 十 七

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十 八 するごとを問題視し、その結果として﹁重新起蓋﹂されていることである 。 もちろんその経緯が報告された可能性は あるが 、 福建から北京に再建をめぐって上申がなされた形跡はない 。 この時の再建は、琉球国王の上奏 ← 皇帝の許可 ← 福建督撫への指示という前回のようなル ー トではなく、福建レベルで処理されていることがわかる 。 郡(都カ)司馬 蘇公も両院によって派遣されたのであろう 。 清代において琉球館を改修する際の申請方法は、この時期に成立した可 ( 辺 ) 能性がある 。

(

)清代の全体状況

康 問 山 年 間 前 半 に 二 回の再建がなされたあとは、老朽 化 や災害による再建 ・ 改修はあるものの、基本的に康照年間の 施設は通交が停止する 一 九世紀後半まで存続することになる 。 そこで、清代における琉球館の諸施設の変遷をまとめ たのが表ーである 。 琉球館内には 一 一 の施設が存在したことがわかる 。 これらは性質上四つに分類することができる 。 まず、駅の属性 としての施設である頭門・儀門 ・ 大堂・堵がある 。 ﹁ 福建市舶提挙司志 ﹄ でも確認することができ、明代以来の系譜に 連なるものである 。 次に渡唐使節の滞在スペースである房舎(十糊) と小四欄がある 。 さらに琉球側の祭杷施設であ る天妃宮 ・ 土地桐・崇報桐(位牌殿)がある 。 そして中国側宮人や土通事グループの詰所である視館公署(把門館公 署)と土通事公館も館内に設置されていた 。 このうち、次の 三 つの施設は康照 一 八年に行われた 二 回目の再建以降に 新設されている 。 康照 三

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(

一 六九 一 )年の崇報洞、翌 三 二 ( 一 六九 二 )年の小四欄、道光 二 三 ( 一 八四 三 )年の土 通事公館である 。 一 一 におよぶ施設は中国側の施設と琉球側の施設が混在していることがわかる 。 さらにいえば、明代・清初と比較

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表 清代における福州琉球館諸施設一 覧 表 館公土通事 Et主里E 主 踊司祭報 土 天 妃 宮 房 崎 大 儀 頭

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石 典 凡 拠 例 。 新設 O 既 存 ム 改 修 ・ 再建・移転 ・ 戦火による損壊 A 洪水・台風による損壊 圃 火事による燐失 ﹃ 歴 代 宝 案 ﹄﹃ 清実録 ﹂ ﹁ 河 口 柔 遼 駅 記 ﹂ ﹁ 柔遼駅土地杷記 ﹂ ﹁ 柔 遼 叡 崇 報 洞 記 ﹂ ﹁ 球陽 ﹄ ﹃ 呈 菓文集 ﹂﹃ 久米系家諮 ﹄﹁ 卯秋走接貢船帰帆 改 日 記 ﹂ ﹁ 道光 二 十四年進貢船仕出日記 ﹂ ﹁ 勅 使 御 迎 大 夫 真 栄 里 親 方 ( 鄭 乗 衡 ) 日 記 ﹂ ﹁ 福州琉球通商史蹟調査記 ﹂ 十 九

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すると琉球 側 の施設が増加しているようである 。 琉球館の﹁専用施設﹂ 化 とも関連しよう 。 との点に留意しながら各 施設の様相を概観してみたい 。 そこでは建築物としての施設の変遷のみを追うのではなく、渡唐使節の機構と機能や 中国側の動向にも触れることになろう 。 なお、各施設には琉球 ・ 中国双方の呼称がある 。 以下では文脈によって何れ かを使用することにする 。 頭門(大門 ) 儀門 ( ニ 門 ) ﹁河口柔遠駅記﹂の官頭では、﹁旧制四囲瑚堵、門臨大街、設照堵木柵、官庁在両弁中問、両廟楼屋各十 三 門、天妃 土地、各有綱、規模弘倣﹂と見え、琉球館の﹁旧制﹂をうかがうことができる 。 こ乙で﹁門臨大街﹂とあることから、 第 一 門である頭門は直接﹁大街﹂に面していたものと思われる 。 史料上では頭門は大門、儀門は 二 門とも見える 。 ﹃ 球陽 ﹂ 巻 二 二 尚泰王 二 七 ( 一 八七四)年条によると、 二 門に石碑が﹁設建﹂されたことが見える 。 本年柔遠騨 二 門設建石碑 柔遠騨 二 門昔設建石碑今壷石尚在然顛末不記公案前年申年海防官将華人等来到駅館行事以善勿滋弊資之処細記 木板親懸 二 門以行告示此時貢使等相議鏑刻斯文於石碑的建旧蛋則華人等鑑之畏之不敢致碍且子駅館亦甚得検束 之便乃輿布政司竪海防官等処掌案互加商議立碑記文其文記左 欽加知府衡永春直隷州正堂署福 州 南盛海防分府随帯加五級紀録十次翁 為出示厳禁事照得太保舗設立柔遠鰐原為 優待遠人以示 朝廷懐柔之至意凡有琉球官伴到省安挿館騨不准閑雑人等檀進騒擾久経示禁在案嗣因該駅年久失修本分府菓奉

(18)

大憲簿款興修現巳修造完竣誠恐附近居民閑雑人等撞進騒擾除諭筋士通事地保随時稽査外合行出示厳禁為此示仰 附近居民及閑雑人等知悉爾等母得摺進館騨騒擾及窺伺倫窃縦令婦女幼抜将糞草積物地棄館内並厳禁在駅間地飲賭 博踏踏門牒塘壁小抜賜越欧銭暗嘩砂擾等事自 一 万之後如敢故違 一 経査察或被指菓立即差 季 赴 府従重究弁罰令賠修例土通事地保失於査管 一 併重究各宜凍道母違特示 同治十 一 年十月初 一 日給 発柔遠駅木牌満襲 実 貼母致風雨損壊同治十 二 年十 二 月貢使(耳目官向徳裕正議大夫王兼才)朝京都通事禁大鼎 新 存 留 楊 廷 鼎 │日 存 留 周 兆 麟

1二 損 摘 カ 建 儀門に﹁設建﹂された石碑は、欽加知府街永春直隷州正堂署福州南肇海防分府随帯加五級紀録十次の翁が同治 一 一 ( 一 八七 二 )年 一

O

月 一 日付けで琉球館に給発した﹁木版(牌)﹂をもとに設置されたことがわかる 。 ﹁満柴実貼母致風 雨損壊﹂とあることから、当初は﹁木版(牌こを儀門に ﹁ 実 貼﹂していたようである 。 内容は、海防官の名において、 ﹁附近居民及閑雑人等﹂に以下のことを﹁示仰﹂して﹁知悉﹂せしめるためのものであった 。 館内に侵入して騒擾し、 ﹁窺伺倫窃﹂することや、婦女幼按が﹁糞草織物﹂を館内に馳棄することを禁止する 。 あまつさえ、館内で﹁衆飲賭博﹂ すること、門贈埼壁を﹁暗躍﹂し、小按が﹁賜越朕銭﹂して﹁喧嘩砂擾﹂することなどを厳禁している 。 考 頭 また、乙の時点ではじめて民間人が館内で騒擾することを禁止したわけではない 。 ﹁不准閑雑人等檀進騒擾久経示禁 ( 幻 ) 在案﹂と見えるように、以前から禁止されていたことが知られる 。 同治 一 一 年の段階で新たに﹁木版(牌こが給発さ ( 斜 ) れたのは、同治年間に行われた琉球館の大改修に伴うものであった 。 中国側は改修された琉球館に﹁附近居民及閑雑 ( お ) ( 町 四 ) 人等﹂がみだりに侵入して騒擾することをよしとせず、土通事と地保に随時侵入をチェ ッ クさせるほか、乙の﹁木版 論 巻

(19)

(牌こを給発したのである 。 琉球館に﹁木版(牌こが到来し、実際に 二 門に﹁実貼﹂されると、波唐役人は布政司や海防庁の掌案と協議し、そ の効果を 一 層高めるために本文を石碑に仕立てることにした 。 か つ て 二 門には別の石碑が設置されており、﹁台石﹂は 残存していたようである 。 今回の石碑もその﹁ 旧ム巳に同治 一 二 年 一 二 月付けで設建された 。 なお碑文の末尾から、 造営の費用は耳目官向徳裕、正議大夫王兼才、朝京都通事察大鼎、新存留楊廷鼎、旧存留周兆麟ら五名の波唐役人に よって﹁摘資﹂されたことがわかる 。 また、嘉慶三( 一 七九八)年の進貢副使である曽模の譜からは、渡唐使節が琉球館で大行太上皇帝(乾隆帝)の﹁遺 詔﹂を迎接する際の次第をうかがう乙とができる 。 岡 田 ( 一 七九九)年四月七日に、すでに福州に到着していた﹁遺 詔﹂が渡唐使節に頒賜されるととになる 。 まず、存留通事が布政司街門に派遣され、﹁迫詔﹂を受領し琉球館に﹁捧到﹂ す る 。 ﹁遺詔﹂が到着すると、正副使が渡唐役人を従えて﹁駅門外﹂で﹁脆迎﹂を行っている 。 この場合の﹁駅門﹂と は﹁大街﹂に面していた琉球館の第 一 門である頭門であろう 。 大 堂 ( 官庁・庁堂) 頭門 ・ 儀門を通過すると、正面に位置するのは琉球館の中心施設である大堂であった 。 ﹁河口柔遠駅記﹂に見える ﹁旧制﹂によると、大堂の両 側には井 戸があったようである 。 史料上では官庁・庁堂とも見える 。 後述するように、中 国官人の施設は視館公著が儀門の外 側に位 置する 。 それでは大堂はどのように使用されていたのであろうか 。 筆者は波唐使節の内部で収発された文書を検討することによって、波唐使節の﹁行政﹂機構について論じたことが { お ) あ る 。 そこでは、渡唐使節の中枢部を指す用語として﹁大宿﹂﹁公司﹂が存在した 。 おそらくは正副使をはじめとする

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上級役人で構成されていたものと思われる 。 管見の限りでは、渡唐役人が実際に公務を行っていた場所を明示した史 料を見いだすことはできない 。 あるいは、上級役人の欄が ﹁ 大 宿 ﹂ ﹁ 公 司 ﹂ の施設として機能していたことも考えら れるが、琉球館のなかでも大 堂が渡唐 使節の宮衝に見 立てら れていたものと想定している 。 筆者は渡唐使節を首里王 府下における﹁常設﹂ の機関としてとらえている 。 その中枢部である ﹁ 大宿﹂﹁公司﹂は、福州においては大堂を施設 として機能していたのではないだろうか 。 また、正副使不在時に上級役人のあいだで協議が行われる場合などにも大 堂が使 用された可能性もあろう 。 一 方、同治四( 一 八 六五)年に接 封大夫として派遣された鄭乗衡の公務日記である ﹁ 勅使御迎大夫 真栄里親方 日記 ﹂ では、琉球館で展開された儀礼の様相を知ることができる 。 これらをまとめたのが表

2

である 。 とのうち大堂を儀礼の場としたものが五回ある 。 同治四年 一 一 月四日には ﹁子之方弁琉球江之朝拝﹂ を行う冬至儀 礼が展開された 。 ここでは大堂の内部で儀礼が行われたとするよりも、大堂から儀門に広がる大堂の前面空間と考え たほうが順当であろう 。 以下の四つの例も同様に考えている 。 まず、五ツ前からの儀礼には按封大夫をはじめとする 上級役人、五主、従之者、﹁船方﹂グループが参加している 。 いわば渡唐使節による儀礼である 。 続いて九ツ時分から は河口事グループによる儀礼が行われた 。 冬至儀礼は波唐使節によるものと河口通事グループによる 二 部構成で展開 されていたのである 。 考 冬至儀礼から四日後の 一 一 月七日には、接封大夫から﹁下供﹂におよぶ渡唐役人が福州の諸街門へ参宮する際の集 毛色 凶欄 合場所となっている 。 たんなる集合場所というよりも、﹁冊封恭迎大牌﹂ ﹁ 正議大夫小牌﹂﹁中山王府小牌﹂を掲げ城内 自 民 巻 へ向かう行列の態様は、すでに大堂前に集合した時点から整えられ、実質的な儀礼の場として機能していたものと考 え る 。 参官には接封大夫、才府、大通事、官舎、存留通事、儀者、小姓、下供および五主、佐事、水主が参加している 。

(21)

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(22)

同年 一 二 月 二 三 日には中国側から ﹁ 根銀﹂を支給されたことに対する ﹁ 美拝﹂を行 っ ている 。 こ の 時 、 ﹁ 大 堂 子之方 ﹂ に装飾した台が設置されている 。 色衣冠を 着 用した接封大 夫 と古存留の 二 名が 参 加している 。 翌 同治五 ( 一 八六 六 )年正月元日には ﹁ 子 之方弁琉球江之朝拝﹂が行われている 。 上級役人、五 主 、佐 事 、従人な どが 参 加している 。 また、正月 一 五日にも ﹁ 琉球江之朝拝 ﹂ が行われている 。 ﹁ 子之方 江 之勤方 ﹂ がないことを除き、 ﹁ 都市之勤方元日 一 同断﹂に進行された 。二 つの儀礼への 参 加対象者は冬 至 儀礼と同様であ っ たと考える 。 また、前出の曽模の譜によると、 ﹁ 駅門外 ﹂ で ﹁ 遺詔 ﹂ を脆迎した渡唐役人は再び大 堂 で ﹁ 三 脆九叩頭礼 ﹂ を行 っ て い る 。 おそらく大 堂 内に安置された ﹁ 遺詔﹂に対して ﹁ 三 脆九叩頭礼﹂が行われたのであろう 。 つまり、大 堂 の前面は渡唐役人の大部分が動員される大規模な儀礼の場とな っ ていたのである 。 琉球館で行われた ヱ 諸 会 儀

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図 2 に見える通路がこれにあたるの 申 たろうか 。 堵 (塘垣・指一塙・堵壁・園堵・土堵・土煩一 ) ﹁ 河口柔遠駅記﹂の ﹁ 旧制﹂には、﹁四囲瑚培、門臨大街、設照堵木柵(以下略こと見える 。 ﹁ 四囲﹂に石垣が築か 考 れていたほかにも、それに沿うように﹁木柵﹂が設置されていたのだろうか 。 表ーによると、堵は康閉 山 ・乾隆年間に 三4 同問 それぞれ 二 回ずつ洪水や台風のため倒壊している 。 康照年間の被災および改修に関しては、前出の ﹁ 河 口 柔 遠 駅 記 ﹂ 、 E頁 ﹃ 歴代宝案 ﹂二 八九 O 九号文書、次にあげる ﹃ 呈菓文集 ﹂ の関連史料があり、乾隆年間については、 ﹃ 歴代 宝 案 ﹂ 巻 一 一

l

一 二 二 [ O 六号文書(校訂本第五冊)、同 二 │ 五四 │ O 七号文 書 (台湾本第六冊)がある 。 五

(23)

一」

( 辺 ) 渡唐役人が福 州 において作成した文書の前例集である ﹃ 呈菓文集 ﹄ に は 、 一

O

号文書として ﹁ 館堵被水沖倒求修理 呈﹂が収録されている 。 施設の改修時に琉球 側 から提出された呈文の全文が残る唯 一 の例である 。 具呈琉球国存留通事察用弼為 口 修館駅以柔遠人事切敵国納款 天朝荷蒙 皇恩浩蕩設立館駅以為頓貯方物安歎貢使本月口五 日 間 口 遭洪水漂浸堵垣倒壊 荷蒙 大老爺駕臨親験量有丈数在案但館駅逼近営地橋垣内外如 一 弼不安席誠恐疎虞獲罪 口口 況今冬文値進貢之年 口貢 船 一 至無慮頓貯方物不己口叩 大老爺憐異域使臣恩賜詳憲速即召修理感激不朽失切呈 康照五十九年九月口日具呈存留通事察用弼 この呈文は康照五九( 一 七 二

O

)

年に琉球館が洪水にあ っ て ﹁ 漂 浸 ﹂ し、橋垣が倒壊した際に提出されたものであ ( お ) る 。 当 年の九月 口 日付けで存留通事である察用弼が作成している 。 ここでは大老爺がすでに琉球館に赴き、被災状況 を調査していることがわかる 。 その上で琉球館が ﹁ 営 地﹂に近いことや、まもなく進 貢 船が到 着 しても方物を ﹁ 貯 ﹂ するスペースが確保できないことを述べ、早急に修理を開始してほしい旨を﹁切 呈 ﹂ している 。 橋垣の倒壊に限らず、 琉球館の施設が破損した際にはこのような改修を求める 呈文 が提出されたのであろう 。 ま た 、 ﹁ 球陽 ﹄ 巻 二 二 尚泰王 二 九 ( 一 八 七 六 ) 年条に次のように見える 。 本年福建省有洪水之災

(24)

此年福建省大雨続降洪水氾濫所有柔遠駅水及 三 四尺之深内外土垣為水所破不計其数 乙の史料から、福建省では大雨が続いたために洪水が発生し、琉球館も浸水するところとなり、水深が 三 ・ 四 尺 に 達する箇所もあったことがわかる 。 注目すべきは﹁内外土垣﹂が多数の筒所で決壊している点であろう 。 ﹁ 内 外 土 垣 ﹂ と見えることから、琉球館の外周ばかりでなく、敷地内にも空間を区分するものとして土庖が造営されていたようで あ る 。 後述する視館公署、道光年聞からは土通事公館も設置されている大門から儀門までの空間と、儀門の内側に存 在する大堂などの主要施設へと続く空間を区画していたのであろうか 。 房 舎 ( 楼屋・廟楼・榛屋・左右十 欄) 房舎は館内の施設のなかでも最大の規模を有する建物であり、大堂の正面左右に設置されていた 。 史 料 上 で は 楼 屋 、 廟楼、楼屋、左右十欄などとも見える 。 渡唐役人の滞在施設として利用されたようである 。 欄(問)と見えるように、 ( 鈎 ) ひとつひとつが区切られたスペースであったと思われる 。 おそらくは﹁主従﹂グループを基本単位として被数、あるい はひとつの欄(間)に収容されていたのであろう 。 また、渡唐使節が琉球館に到着するたびに﹁部屋割り﹂が行われ たとするよりも、渡唐役人の序列によってある程度使用する欄が固定されていたと考えるのが順当ではないだろうか 。 量必 後述するように、房舎は清代を通じて改修が繰り返されるが、その規模については康照年間前半で変化が見られる 。 論 E員 康 問 問 七 ( 一 六六六)年の再建以降、①康照 一 三 ( 一 六七四)年以前・両欄各 一 三 間 ← ② 康照 一 八 後 ・ 両辺各 一 一 間 ← ③康照 三 一 ( 一 六七九)年以 ( 一 六九 二 )年以後 ・ 各 一

O

欄という変遷をたどっている 。 前掲の上奏文によって、 巻 順治年間の規模が 三 十 二 間(各十六間) であることがわかるが、康照 三 一 年にいたって 二

O

欄(左右十欄)に固定さ 七

(25)

八 れ る 。 一 間 と 一 欄自体のスケールが同一であるのかどうかは不明であるが、同 一 であるとすれば、五

O

年ほどのあい だ に 三 分 の 二 の規模に縮小されたことになる 。 と も あ れ 、 康 岡 市 一 - 二 年以降は 二

O

欄のスペースが維持されることにな る 表 2 にもあるように、﹁真栄里親方日記﹂同治四年一 一 月四日条では琉球館で冬 至儀 礼が実施された際の記事が見え る 一 同日九ツ時分、阿口通事 ・ 同筆者 ・ 長班役謝相工罷出、於大堂例通琉球江向御拝相勤、﹁済而﹂為祝儀私欄江 罷出候付、色衣冠ニ市相逢、茶菓子致馳走候事 。 附、存留欄ニ而右唐人共江御物調を以十 二 碗之料理馳走有之候段、承候也 。 五ツ時分頃開始されたと思われる渡唐役人による冬至儀 礼が終了すると 、九ツ時分から河口通事 ・ 河口通事筆者・ ( お ) ( お ) 長班役などが琉球の方角に向かって﹁御拝﹂を行っていることがわかる 。 附 で は 、 ﹁存留欄﹂において﹁御物調﹂に よる﹁十 二 碗之料理﹂が河口通事以下の﹁唐人共﹂ ~ ﹁馳走﹂されたことが知られる 。 後述するように、接封大夫 の欄は小四欄の﹁表弐欄﹂にあてがわれたのに対して、﹁存留欄﹂は房舎に存在したと思われる 。 この場合は屋内に 河口通事グループを招き入れて﹁馳走﹂したのであろう 。 このことは存留通事から接封大夫へ事後報告されている 。 さらには、戚豊年間に存留通事を経験した察大鼎の漢詩集である ﹃ 間山遊草 ﹄ からも房舎の様相をうかがうことが で き る 。 察大鼎の欄は﹁東楼﹂に位置しており、波唐役人のあいだでもしばしば交歓が持たれたようである 。 漢詩か らはその様子の 一 端が知られる 。 ﹁表弟楊秀才有恒客楼即景﹂と題する 一 首からは、﹁表弟﹂である楊秀才の欄が﹁恒

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客楼﹂に位置することがわかる 。 ﹁恒客楼﹂とは察大鼎の欄のある﹁東楼﹂ではなく﹁西楼﹂であったと思われる 。 楊 ( 幻 ) 秀才は福州での滞在期間が数年にわたっていた勤学人である可能性があり、その問、複数の渡唐役人の従人としてそ れぞれの﹁主従﹂グループに編成されていたものと考えられる 。 欄も所属した ﹁ 主従﹂グループのものを使用した可 能性があろう 。 それとともに 、 ここでは ﹁恒客楼﹂と見えることから、必ずしも所属していた ﹁ 主従﹂グループの欄 を使用していたのではなく、勤学人には欄が別個にあてがわれていた可能性も考えられよう 。 なお、後掲する﹁真栄里親方日記﹂同治四年 一 一 月 一 四日条に収録された 一 七項目からなる覚には、欄に関連する 条項が含まれている 。 一 館 屋 立 入 之 商 人 、

E

欄々手叶唐人共、 二 更之加鞍打限各宿元江差帰、欄々行櫨可相消事(第六条項) 一 館中欄々用事外、狼ニ致出入間敷事(第 一 四条項) まず、第六条項では各欄に行燐が備え付けられていたこととともに、 それぞれの欄に﹁手叶唐人﹂が存在したこと が知られる 。 ﹁主従﹂グループの世話をする中国人の雑用人といったところであろうか 。 ﹁宿元﹂は館外にあったよう で、﹁館屋立入之商人﹂とともに こ 更には退出したととがわかる 。 第 一 四条項では用件がある場合を除き、 む や み 言些4 に欄を行き来しないようにとある 。 これは直前の第 一 三 条項に節度をわきまえない酒宴を厳禁するとあることに関連 論 しよう 。 第 一 四条項の狙いは、欄を行き来することによってかような﹁酒宴﹂が誘発されることを未然に防止すると

E

員 巻 ころにあったのだろう 。 換言すれば、﹁主従﹂グループ聞の交流は頻繁に行われていたともいえよう 。 九

(27)

小四欄 (楼屋小田欄・西傍四軒・新四欄) 小四欄は楼屋小四棚、西傍四軒、新四欄とも称され、大堂の西側に位置した 。 欄が聞と見える場合もある 。 ﹁ 河 口 柔遠駅記﹂の壬申( 一 ハ 九 二 )年には次のように見える 。 続因進貢両船、人多屋少、白蓋楼屋小四間於庁西之側 前述したように、康照年間には順治年間の房舎の規模が縮小されるものの、清朝は康照 二 八 ( お ) 役人の定員枠を 三

OO

名に拡大する 。 ﹁人多屋少﹂とあるように、渡唐役人の滞在施設が手狭になったことから 小凹欄 ( 一 六八九)年に渡唐 が﹁自蓋﹂されたようである 。 ﹁自蓋﹂とあることから、琉球 側による 造営である可能性が高い 。 中国側の公的施設で ある琉球館に琉球側の施設が新設されたのである 。 一 六九 二 ( 康 照 三 二年は琉球館が台風によって甚大な被害を受 けた年である 。 ﹁河口柔遠駅記﹂には次のように見える 。 壬申馳風大作、閥楼倒喝、橋垣崩頭、復詰於当時、委官重造廟楼各十問、垣楠修築之 。 馳風によって廟楼が倒糠し、崎垣が崩頼したことがわかる 。 埼 -知 一 が破崎概されていることから、同時に洪水による被 ( ぬ ) 害 に見まわれた可能性もあろう 。 塙垣とともに府機も再建されているが、前述したように、そのスペースは康照 一 八 年に再建された際の十 一 欄から十聞に減少している 。 小四欄の新設は台風の被害を受けて再建された房舎のスペース が減少したことと関係しよう 。 ここにおいて房舎の 二

O

聞に四聞を加え、合計 二 四のスペースが確保されたのである 。

(28)

ところで、﹁真栄里親方日記﹂同治四年 一

O

月 一 二 日条には次のように見える 。 一 、於琉館屋住居所之儀、新四欄中表弐欄相住居候事 。 同治四年に派遣された按封大夫の﹁住居所﹂は新四欄の﹁表弐欄﹂であったととを知るごとができる 。 新四欄は ﹁表弐欄﹂とあることから、 四つのスペースが 一 列に連なっていたと考えるよりも、 二 つのスペースが 二 列に並んで いたとするのが順当であろう 。 接封大夫の従人は﹁事々抜書﹂(沖縄県立図書館東思納文庫蔵)によると九名である 。 ほかにも接封大夫の秘書役である大夫儀者が存在した 。 新四欄の表側の 二 つのスペースが、接封大夫を上位役人とし、 合計 一 一 名からなる﹁主従﹂グループの﹁住居所﹂となっていたのであろう 。 前掲した同日記の 一 一 月四日条では、冬至儀礼が終了すると、河口通事以下の﹁唐人共﹂は冬至の ﹁ 祝 儀 ﹂ の た め に﹁私(接封大夫)欄﹂を訪れていることが知られる 。 これに対して接封大夫は色衣冠を着用し、茶菓子を馳走して い る 。 翌年正月五日条には次の ように見える 。 一 今日、年頭之礼と〆河口通事・同筆者・長班役迄罷出候付、吸物壱ツ ・ から肴六ツ・焼酎致馳走候事 。 考 毛ふ 開時制 表

2

にもあるように、河口通事、河口通事筆者、長班役が﹁年頭之礼﹂に出向いていることがわかる 。 場所は明記 自貢 されていないものの、新四欄の接封大夫の欄であろう 。 接封大夫はこれに対する饗応として、﹁吸物壱ツ ・ から肴六 巻 ツ ・ 焼酎﹂を馳走している 。 むろん屋内で行われたものと思われる 。

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ま た 、 ﹃ 歴代宝案 ﹄ 二

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三 八 │ 一

O

号文書(校訂本第五冊)に収録された五虎巡検の菓には次のように見える 。 去後、続子本( 三 )月初 三 日、援該巡検魯如淘菓称、遵査、難夷、子 二 月 二 十六 二 十七等目、将雑物行本子、陸続 搬運進館 。 卑職、遵即逐 一 細査其中、並無来帯違禁貨物 。 惟捜出草包 三 百徐個倶係塩肋 。 随即会全琉球存留通事 毛景成、親詣館内四欄楼下頓塩頓所、逐包査照共計百五十包、毎包秤重五十肋 。 内有六十包之塩、較之原包触少 。 擦称、放在航底被水浸消 。 宴共食塩 一 蔦六千絵肋理ム口裏報等情 。 この菓文は、乾隆 ( 一 七五六)年五月 一

O

日付けで福建等処承 宣布 政使司(以下では布政司とする) から琉球 国王に宛てられた杏文の 一 部である 。 苔文の内容は底門に漂着した宮古島の梅公氏等 三 六名に対する 一 連の処置をめ ぐるものであった 。 同年 二 月九日に福州に回送された漂着民は琉球館に収容される 一 方、海防官は自ら 該船舶の検 査を実施し、その結果を布政司に報告している 。 そこでは﹁違禁貨物﹂は発見されなかったものの、五司(五虎巡検) に対して次のように命じている 。 漂着民が﹁行李雑物﹂を琉球館に搬入する際に先の検査との異同の有無を確認し、 隠匿物が発見された場合は報告するようにというものであった 。 その報告にあたるものが 三 月 三 日に作成された五虎 巡検による菓である 。 す な わ ち 、 二 月 二 六 ・ 二 七日に琉球館に﹁行李雑物﹂が搬入され、五虎巡検が詳細な検査を実施したところ、﹁迷禁 貨物﹂は発見されなか っ たものの、未報告の食唱が存在することが明らかとな っ た 。 注目すべきは、五虎巡検が存留 通事毛景成とともに食塩が格設されていた﹁館内四欄楼下﹂の現場に立ち入って検査を行っている点である 。 との事 例では、﹁四欄楼下﹂が屋内なのか屋外(庇の下?) なのかは定かではないものの、漂着船に積載された食塩が格諮

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されるスペースともなっていたのである 。 管見の限りでは、小四欄がどのように使用されていたのかをうかがえる史料はほかに存在しない 。 琉球側によって 新設された経緯からしでも基本的には波唐役人の ﹁ 住 居 所﹂であ っ た 。 し か し な が ら 、 ﹁ 住 居 所 ﹂ と して使途が固定さ れていたと考えるよりも、唐船の帰国によ っ て空きス ペ ースが生じた場合には、右のように漂 着船の積 み荷を格競す る ス ペ ースとして使用されるケ l スなどが存在した可能性もあろう 。 な お 、 ﹃ 球陽 ﹂ 巻 二

O

尚瀬王 二 八 ( 一 八 三 こ 年 一 二 月条には次のように見える 。 本年十 二 月在柔遠駅加建四欄併設土地君廟 柔遠駅原是狭小動発存駅哀銀加設四欄於大堂左(以下略) 乾隆 二 一 年から約八

O

年後の 一 八 ( 道 光 一 一 )年に四欄が大堂の左側に﹁加建﹂されたことが知られる 。 乙 こ では見えないものの、老朽化などが原因で再建・改修を必要としていたのだろう 。 硫球館が﹁狭小﹂であると公式に 認識している点、﹁加建﹂の費用として﹁存駅哀銀(不明こが動発されていることに注目したい 。 考 天妃宮(天后宮・普薩加那志 ) 土地嗣(土地君廟) -崇報詞(位牌殿) 論 琉球側の祭杷施設である天妃宮 ・ 土地嗣はいつ頃建立されたのだろうか 。 ﹁河口柔遠駅記﹂の冒頭では、﹁旧制四国 E員 瑚培 (略)天妃・土地、各有洞、規模弘敏﹂と見える 。 ﹁旧制﹂が明代を指すのか、琉球館が再建された康照七年か 巻 ら 再 び 兵 火 を 受 け る 康 即 日 一 三 年までの期聞を指すのかは必ずしも明らかでない 。 しかしながら、康照七年の再建時に

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四 建立された可能性とともに、すでに明代に建立されていたことも充分考えられよう 。 天妃宮は天后宮、天妃桐堂、天妃大堂、唐琉館屋菩薩とも見え、大堂の後方に位置した 。 前述したように、康照 一 三 年の﹁甲寅之変﹂によって破壊されたものの、五年後の康照 一 八年には再建される 。 再建された天妃嗣堂の規模は 三 小間であった 。 そ の 一 三 年後の康照 ( 一 六九 二 )年には大がかりな改修が行われた 。 ﹁河口柔遠駅記﹂には次の ように見える 。 至於崇嗣天妃大楼、乃前者進貢耳目官貌公応伯 ・ 毛公起龍、正議大夫曽公 竪 ・ 察公鐸、以我国往来海上、船揖無 虞、皆荷天妃 一 弗庇、今古駅楼居鱗鱗、市旧桐数橡草草、潰

E

襲、殊非報本意、ム双議来貢諸員、摘積数年、重建楼 台於旧嗣之次、以妥神霊、計四貢、市所積足用、至突酉歳、大夫公可法、至間讃、方薫其事、不日成之、梓材 丹腰、換然可観、伝訳通官鴻斌、発心粧塑新像、併旧者、均杷於其上、移土地 ・ 崇報両杷、の杷左右(以下略) 康照 一 八年に再建された天妃宮は老朽化していたようである 。 そのため大改修は数年前から渡唐役人によって計画 され、協議が重ねられていたことがわかる 。 す な わ ち 、 軸 腕 応 伯 ・ 曽壁は康照 二 五 ( 一 六八六)年の進貢正副使であり、 毛起龍・察鐸は康照 二 七 ( 一 六八八)年の進貢正副使である 。 数年間にわた っ て波唐役人個人の資本を﹁摘積﹂した 結 果 、 ついに康照 三 一 年には﹁旧制之次﹂に楼台が﹁重建﹂され、﹁神霊﹂を安置している 。 ﹁ 四貢﹂とは康照 二 五 年 、 同 二 七年、同 二 九年、同 一 三 年の朝貢年を指そう 。 大改修が計画されてから竣工するまでに六年の歳月を要した乙と に な る 。 ま た 、 翌三二 ( 一 六九 三 )年には進貢副使の王可法が﹁梓材丹臨﹂するとともに、伝訳通宮(土通事)潟斌 が﹁発心﹂して天妃の新像を﹁粧塑﹂している 。 新像は旧来の天姐像とともに合杷したことが知られる 。

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一 方、約 一 七

O

年後の﹁真栄里親方日記﹂には、接貢存留通事が同治四年 一 二 月 二 八日付けで作成し、大夫儀者に 送付された元日 一 儀礼に関する通達が収録されている 。 その附には次のように見える 。 一 御規相済、引次菩薩加那志御前江勧進銀井目録備上候問、是又御拝可被相勤候 。 表

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にも見えるように、大堂前での﹁御規﹂(朝拝)が終了すると、渡唐役人は大堂の後方に存在する ﹁ 菩 薩 加 那 志 ﹂ の前に移動して﹁勧進銀﹂﹁目録﹂を備え、﹁御拝﹂が行われる予定になっていたことがわかる 。 ここには﹁朝拝﹂儀 礼に参加した波唐役人全員が移動したと考えるよりも、ある程度限定された階層の渡唐役人が参加したのではないだ ろ う か 。 なお同日記によると、同年の 一 一 月 二

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日から 二 四日までのあいだ宮之上菩薩加那志と御船菩薩加那志で﹁菩薩経﹂ が読請されている 。 同時に﹁宮之上﹂の菩薩御前では上級役人を中心とする渡唐役人によって﹁御拝礼﹂が行われた 。 接封大夫は 二

O

日 と 二 四日に﹁出勤﹂していることが見える 。 ﹁宮之上﹂とはどこを指すのか不明であるが、現在のと ころでは琉球館内の天妃宮を想定している 。 五日間にわたる﹁菩薩経﹂読請の担当官は接貢船総官であった 。 土地嗣は土地君廟とも見え、基本的に天妃宮の左側に位置したようである 。 前述したように﹁河口柔遠駅記﹂によ 考 ると、﹁旧制﹂の段階から設置されていたものの、康照 一 八年に中国側によって再建された施設のなかにその名を見い 論 だすことはできない 。 その後土地嗣はどのような状態になっていたのであろうか 。 E員 ﹁柔遠駅土地嗣記﹂によると、程順則が康照 二 九年の進貢正副使である温允傑 ・ 金元達や﹁商之諸僚友﹂らと協議 巻 した結果、渡唐役人らが﹁摘資﹂するととによって﹁天妃宮之傍﹂に﹁塑像立像﹂していることがわかる 。 このこと 五

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ム ノ、 から康照 一 三 年に損捜して以来、康照 一 八年の中国側による再建の対象から外されたことによって荒廃していた可能 性もあろう 。 ﹁土地桐記﹂の末尾には﹁康照辛未孟夏朔日存留通事程順則撰﹂と見えることから、康照 三

O

(

一 六九 一 ) 年には再建されたことがわかる 。 ﹁河口柔速駅記﹂には﹁即於天妃桐傍、左洞土地正神﹂とあり、再建された位置は天 妃宮の左側であったことが知られる 。 次に述べるように、同年には崇報嗣が新設されていることから、連動するかた ちで再建された可能性がある 。 さ ら に 、 二 年後の康照 三 二 年には﹁移土地・崇報両綱、的問左右﹂と見える 。 天妃宮 大改修の竣工にともなって崇報桐とともに移転したのである 。 約 一 五

O

年後の道光年間に 二 回にわたって再建・改修されるものの、その位置は康照三 二 年の移転以来維持された ょうである 。 前掲の ﹁ 球陽 ﹄ 巻 二

O

尚 瀬 王 二 八年 一 二 月条の後半には、﹁土地君従前奉安天后宮愛於宮左設廟奉移﹂ と見える 。 道光 一 一 年以前には土地君は天后宮に奉安されており、天后宮の左に廟を再建するととによって﹁奉移﹂ されたことがわかる 。 康照年間の再建からすでに 一 四

O

年が経過しており、土地桐は損壊したのであろう 。 土地君は 一 時期天妃宮に安置されていたのである 。

(

ω

)

一 方、崇報桐は位牌殿とも称され、天妃宮の右側に位置した 。 ﹁河口柔遠駅記﹂によると、それまで客死した渡唐役 人の位牌が整えられていなかったととを鑑み、天妃宮の右側に﹁故臣木主﹂が設置されたことが見える 。 ﹁ 柔 遠 駅 祭 報 桐記﹂では、土地洞と同様に進貢正副使や﹁諸僚友﹂と程順則が協議した結果、﹁天妃宮之傍﹂に位牌を安置するため 崇報網が ﹁ 創建﹂されたことがわかる 。 ﹁崇報桐記﹂の末尾には﹁辛未年孟夏望日程順則書 ﹂ と 見 え 、 辛 未 ( 一 六九 二 年に造営されたことがわかる 。 しかし、新設されて 二 年が経過した康照 三 二 年には、さほど離れているとは思われな いものの移動するととになる 。 天妃宮大改修の竣工にともな っ たものであろうととは土地相と同様である 。 ( ) 東恩納寛惇氏が ﹁ 琉球館﹂を訪れた当時、大きな位牌が 三 位あったと述べている 。 ﹁ 木 札 ﹂ は 九

OO

枚余りが残存し

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ていた 。 中央の最も大きいものには 三三 六枚、左右のものには 三

OO

枚づつはまっていたようである 。 前述した過去 帳も往事の崇報桐の管理と関係するものであろうか 。 帳簿に記載されたなかでは、﹁順治五年戊子五月、玉虫豊見城親 方瑞円毛泰久﹂と見えるのが遡りうる上限かとしている 。 ここにおいて、康照 三

O

年から同 三 二 年のあいだに大堂の後方に天妃宮を中心とする琉球側の祭杷施設群が整備さ れたことがわかる 。 これ以降大きな移動がないことに加えて、琉球側の負担によ っ て改修がなされたことを考えても、 清代における琉球館の﹁専用施設﹂化の画期といえよう 。 同 時 期 に は 、 やはり琉球側によって小四欄が新設されたこ とを想起したい 。三 施設の整備には渡唐役人のあいだで協議が重ねられたが、そのなかでも康照 二 八 ( 一 六 八 九)年 一 一 月に接貢存留通事として派遣された程順則は、同 三

O

年六月に帰国するまで土地嗣の再建、崇報相の新設に尽力 し た 。 当然、康照 二 五年から進行していた天妃宮の大改修計画をめぐる協議にも参加していたものと思われる 。 ﹁真栄里親方日記﹂同治 四年 一 二 月 二 九 日 条 で は 、 ﹁歳之夜﹂に﹁年玉餅 御筋﹂が行われたことが知られるが、 三 つ の祭杷施設が同時に登場する 。 一 歳之夜ニ付、菩薩加那志・土地君 ・ 琉位牌之御前江年玉餅御筋、新古存留・勤 学 人罷出、例之通御拝相勤候段、 首尾有之候事 。 考 附年玉餅調方者古存留 ・ 総官構ニ而候由承候也 。 毛ι 開 削

E

頁 元 日 一 の菩薩加那志への﹁御拝﹂に先立つこの儀礼では、菩薩加那志・土地君・琉位牌にそれぞれ﹁年玉餅﹂が供え 巻 られている 。 参加者は﹁新古存留﹂および勤学人であり、﹁玉餅調方﹂の担当者は古存留と接貢船の総官であった 。 琉 七

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}¥ 球 ・ 中国聞の通交が停止する 一

O

年前においても、大堂の後方部分が渡唐使節の祭肥空間として機能していたことを 知ることができる 。 視館公署 (把門官公署・把門官詰所・把門官直処 ) 琉球館における中国側の施設として、明代の守把千戸房と軍士房にかわって視館公署が見える 。 史料上には把門官 公署・把門官詰所(直処) とも見える 。 把門官公署については、寛政年間( 一 七八九

i

一 八

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二 に 編 纂 さ れ た 琉 客談記 ﹄ に関連する条項が見える 。 一 、清人の琉館を守る者を把門官といふ、文武両人あり 。 武官は万を侃ぶ 。 各属官五六人あり 。 館の大門と 二 の 門との聞に其官舎あり 。 畳は門 を出でて遊観することを許す 。 夜は事幹ありても出る乙とを許さず 。 ことから、清代には﹁琉館を守る﹂ために把門官として文官と武官が 一 名 、 ずつ配置され、それぞれ五 ・ 六 名 の ﹁ 属 官 ﹂ がいたことがわかる 。 つまり 一 二 名から 一 四名の中国側役人が琉球館に常駐していたのである 。 ま た 、 そ の ﹁ 官 舎 ﹂ は大門と 二 の門の聞に設置されていたととがわかる 。 とれが視館公署にあたるものであろう 。 波唐役人は日中は大門 ( 位 ) を出て﹁遊観﹂することも許されたが、夜間の外出は﹁事幹﹂がある場合でも許可されなか っ たようである 。 こ の こ とから明代では館内に兵員が常駐していたものの、清代に入ると杷門官が詰めるようになったことがわかる 。 把門 官 の文官については、 ﹁ 歴代宝案 ﹄ では道光年間になると布政司の都事を兼任する 把駅官を見いだすことができる 。 武宮 については不明であるが、﹁開館貿易﹂の期間には﹁把駅員弁﹂とともに兵役が琉球館に詰めていた例が散見する 。

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視館公署は表ーにもあるように六回にわた っ て再建 ・ 改修が行われている 。 ﹁卯秋走接貫船帰帆改日記﹂( ﹁ 琉球王国 { 日制 ) 評定所文書 ﹂ 第 一 巻)には、道光 二 三 ご 八 四 三 )年に行われた把門官詰所の再建をめぐ っ て作成された文 書が 収録 されており、再建までの経緯を知ることができる 。 備 上覧 。 琉館屋把門官詰所相破候付、去々年より普請願仕候得共御取揚無御座候 。 到去年ハ、接 貢 船渡唐之上、把門官詰 所崩落、相公共住居所無之候付、此節普請不被仰付候而者不叶事ニ雨、把門官詰所弁同所右表江河口通事公事所 迄も普請被仰付被下候様、把門官より布政司・海防官江普請願被申出由ニ市、琉球方江も奉願候様、把門官より 河口通事も以御頼有之候付、勢頭 ・ 大夫御案内之上、奉願候処、弥、願通相済候段承候 。 夫より 把門 官詰所普請 取付、右表江河口通事公事所作り調候 。 入目料銀之儀者、布政司より為被成下由承申候 。 尤、河口通事公事所壱 軒長五間・横弐間作り置候次第、表御方江も宜様御取計被仰上可被下候 。 左 様 為 御 心 得 、 此段 致 御 問 ム 口 候 。 以上 。 四月廿六日 普久嶺里之子親雲上 考 惣 役 論 長 史 E員 巻 これは道光 二 三 年に波唐し、福州に滞在していた接貢存留通事の普久嶺里之子親雲上が作成し、把門官詰所の再建、

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図 1 貢廠図 ( r 福建市舶提挙司志j所 収)

参照

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