ガダルカナル島奪還のため川口支隊が
上陸し、ジャングル内を迂回して飛行場の手前までたどり 着き、 13 日、総攻撃を仕掛けたが、集中砲火を浴びて失敗し、 6,217 名参加兵のうち、 633 名が 戦死した。
総攻撃失敗後 1 週間で食糧が尽き、海上補給もままならない状態となった。ここで、初めて
日本軍は第 2 師団約1万名の投入を決定した。
278 10月11日
最前線における米軍の強大さ、及び日本陸海軍がもはや無力化していることを認識していなかった参 謀本部は、全力を挙げてガダルカナル島を奪回すべくガダルカナル島に残る日本兵救援のための
第 2 師 団約1万名を送り込もうとした
(第1次輸送作戦)。
海軍はニューヨーク航路に就航していた船舶を含め最優秀船6隻を徴用し、動員した。
輸送船団と待 ち受ける米軍との間に
サボ島沖海戦が戦われた。日本海軍得意の夜戦であったが、レーダーを装備した米艦隊による射撃に完敗した。五島司令官が戦死 し、重巡「古鷹」と駆逐艦「吹雪」が沈没した他、重巡「青葉」が大破した。以後、日本海軍は夜戦での 優位を完全に失った。
輸送船団も
全船舶が被弾、沈没し、経験豊かな多数の航海士、要員が犠牲になった。この時点で、米軍潜水艦にはすべてレーダーが装備されていたが、日本海軍の潜水艦がレーダーを装備したのは 19年秋であり、しかも旧式のものに過ぎなかった。この差は大きく、米軍潜水艦は悪天候の中でも電子工学的に精 度の高い敵艦との距離測定をできたが、日本海軍潜水艦は、光学機器に依存するしかなかった。
日本海軍も装備の改善に努力を重ね、戦争末期までには長足の進歩を遂げたが、米軍の対潜戦技術に追いつくこ とはできなかった。
潜水艦運用の面でも、両軍には大きな違いがあった。米軍は主として輸送船団を攻撃するために潜水艦を活用し た。これに対し日本海軍は、17年~18年にインド洋で伊号潜水艦が100隻近い連合軍の船舶を撃沈ないし大損害 を与えたという歴史を有していたにもかかわらず、潜水艦に米商船を攻撃させたことは全くなく、専ら艦隊決戦の 際に攻撃的に使ったため、敵艦から探知され標的にされやすくて損耗も大きく、さしたる効果を挙げることはでき なかった。
10月24~25日
ガダルカナル島の飛行場奪回のため、上陸した第2師団とすでに上陸していた将兵の合わせて1万5 千名が総攻撃を行う。
同師団は、飛行場南のアウステン山を迂回する作戦をとったが、雨のジャ ングルに足を取られて時間をロスし、兵も疲弊していたことから、
圧倒的な敵兵力の前になすすべ もなく敗れた。10月26~27日
海上では南太平洋海戦が戦われた。
日本海軍第3艦隊は米空母「ホーネット」を炎上撃沈させ(27日)、空母「エンタープライズ」に損 傷を負わせたが、南雲指揮官は連合艦隊からの攻撃命令にもかかわらず、追撃してとどめを刺すことは しなかった。
日本海軍は、米海軍の稼働可能な空母が一時的にゼロになるほどの損害を与えたにもかかわらず、戦局 の主導権を取り戻すチャンスを逃した。しかも自軍の損害も大きく(翔鶴と瑞鳳が初日に被弾した他、多 くの艦載機と熟練パイロットが戦死)、南太平洋海域では、もはや日本海軍には攻勢に出るほどの力は残 っていなかった。
[戦力比較]
日本側:近藤信竹総指揮
空母4 翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、隼鷹 :南雲忠一指揮 戦艦8、重巡8、軽巡3、駆逐艦28、潜水艦12
279 アメリカ側:ハルゼー総指揮
空母2 ホーネット、エンタープライズ :キンケード指揮
戦艦1(サウスダコタ)、重巡3、防空軽巡3、駆逐艦13
空母ホーネットは、前年4月18日に米軍が初の東京空襲を行った時の基幹空母であったから、その撃沈を確認し た日本海軍の士気は大いに上がった。
11月12~15日
参謀本部は、ガダルカナル島への増援計画により、第 2 次輸送作戦を強行。これには、当時の優秀船 11隻が動員され、第38師団(名古屋)の残存兵を乗員させるとともに、重火器類、糧秣を積載した。
12日真夜中にガダルカナル島への輸送支隊第11戦隊が米艦隊と遭遇し、連合艦隊は戦艦「比叡」、駆 逐艦「夕立」「暁」を失うなど大損害を受け、ソロモン諸島海域での制海権を失ってしまった=第3次ソ ロモン海戦
「霧島」は、米軍艦船「ワシントン」を全く認識できない間にレーダーによる砲撃を受け大破撃沈した。
レーダー開発の彼我の差は歴然としていた。
米軍も巡洋艦「アトランタ」「ジュノー」の他、駆逐艦4隻が沈没し、「(米)海軍史上最も過酷な戦闘」
ではあったが、さらに約3千の兵員や武器、食料を補給した。
14日朝、輸送船団は、米空母「エンタープライズ」搭載の攻撃機による集中砲火を受け、輸送船7隻 が沈められた。日本側は、制海権と制空権を奪われているうえ、迎撃するのは途中の基地から飛び立った フロート付きの水上機ばかりだった。
生き残った第38師団の兵士は丸腰で上陸したものの、組織的な補給は全く受けられなくなった。
15日にサボ島沖で日米艦隊の海戦があり、戦艦「霧島」、駆逐艦1隻が沈められた。
その結果、日本の戦力そのものが急激に低下するとともに、上陸した日本軍兵士は 1 週間もしないう ちに飢え始め、また、病気に倒れて、悲惨な状況に陥った。……ガダルカナル島は「餓島」と化した。
11月30日
ルンガ沖夜戦。『ねずみ輸送』中の駆逐艦8隻の艦隊(指揮官:田中頼三少将)は、米艦隊を認めて魚 雷を発射し、米側に重巡1隻沈没、3隻大破の大損害を与えた。しかし、米側から一斉射撃を受けたため 避退したことから、田中少将は後に指揮官としての責任を問われた。
連合艦隊はガダルカナル島方面での制空権を完全に失い、これ以降、二度と大兵力を投入することはな かった。→生存兵士への補給は『もぐら輸送』に。
参謀本部はガダルカナル戦において、兵力の逐次投入という誤りを犯していたが、それにもまして決定 的だったのは、前線への物資輸送が極めて劣弱であったことである。陸海軍とも敵の抵抗を排除して、所 要の武器弾薬、食糧、医療品、人員、各種装備などを輸送する手段を持っておらず、そのような輸送に適 する高速船を造る技術も、飛行場や揚陸施設を急速につくる余裕もなかったのである=国力の不足。
もう一つの悲劇は、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」という一条が兵士たちの心を縛っていたこ とであった。もし、陸軍の小部隊が力戦敢闘の後、降伏することが許されていたら、当の部隊の兵士たち の命の多くが救われ、また、その他の陸海軍部隊もより自由な立場で米軍と戦うことができたであろう ことが指摘されている。
17年末時点で、1年間の輸送船沈没は100万トンに達した。これは、日本軍が輸送船に対する護送船団方式を採
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用していなかったためである。そのため、輸送船損耗はさらに激しくなり、翌18年には180万トンに、19年には 年間で380万トンにも達することとなった。
日本は大量の原材料や半加工物資を本国に輸送し、完成した軍需品を戦線に輸送してこそ戦争遂行能力が保てた のであるが、海上輸送力は損耗の一途をたどっていた。
こうした事態に海軍は18年末、ようやく中央統制下の輸送船団を組織する(護送船団方式)ようになった。護衛 艦の建造、改造を行い、対潜水艦用に機雷障壁を要所に構築するとともに、商船特にタンカーの生産を優先した。
このため、新建造船は、18年に110数万総トン、19年には160万総トンに達したが、それでも遅すぎる措置であ った。
12月17日
大本営陸軍作戦課兵站係の高山係長が、眞田作戦課長(更迭された服部卓四郎の後任)に「海軍はすで に無力化している。航空撃滅戦に(勝算の)見込みはない。ガダルカナル(防衛)戦はもうやめるべき」
と進言した。
12月31日
参謀本部が漸くガダルカナル(防衛)作戦中止を決める。
この作戦における損害は、米軍側は空母2隻、重巡5隻を含む24隻で、日本側は空母1隻、戦艦2隻 を含む21隻であったが、飛行機1600機以上を失っていた。
また、投入戦力は3万1千人余りのうち戦死、戦病死者は約1万9千に上ったうえ、海軍はベテラン・
パイロット550人以上を失い、海軍航空隊全体の戦力は大きくダウンした。
ガダルカナル島失陥により、ラバウルに進出していた航空部隊は、完全に孤立し、アメリカの航空部隊 と戦えなくなったばかりでなく、再建しようとしても、米軍の足早な攻撃を受けてまともに対抗できな くなっていた。
18年(1943年)1月4日
12月31日の決定に基づき、今村方面軍司令官と山本連合艦隊司令長官に撤退命令が下される。今村司 令官は、ガダルカナル島に残された兵員の救出のため、矢野圭二少佐率いる約 1 千名の大隊援護の下に 駆逐艦により、ブーゲンビル島に輸送するという作戦をたてた。
矢野大隊は同月14日にガダルカナル島エスペランサに無事上陸した。
2月7日
2月1日から始まった駆逐艦によるガダルカナル島からの撤退がこの日、完了。なお、しんがりを務め た矢野大隊は、その3分の1が戦死した。
翌々日の大本営発表では敗戦の事実を歪め、撤退を「転進」とするなど虚偽に満ちたものであった。
(ガダルカナル戦の損害)
ブーゲンビル島に生還した兵士は10,652人であったが、敵兵火に斃れたもの約5千、マラリアや餓死 などによる死者(陸軍兵員)は約1万5千と、2万名の戦病死者を出した。また、この戦闘のための補給 において59万トンの船舶を失い、折角手に入れた南方の石油その他の資源を運べない羽目になった。
けれども、作戦を立てた陸海両軍とも参謀の責任は一切問われることはなく、敗戦の原因・戦術上の誤 りなどが、その後の作戦に生かされることはなかった。