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その 4 日後には 航空機用ガソリンのプラント 航空機用ガソリンの生産に役立つ考案 専門的情報をも追加した ( 援蒋ル~ト遮断のための南支作戦 ) 昭和 14 年 11 月第二次欧州大戦勃発により 英仏が極東を省みる余裕がないのを見た軍中央は 支那事変解決を急ぐために フランスの蒋介石援助を思いとど

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20 世紀日本の戦争史読む年表-2(第

2 次世界大戦勃発~敗戦・戦後)H30.11.03 改訂

(第2 次世界大戦勃発) 14 年(1939 年)9 月 1 日 ドイツが、領土である東プロシャに至るダンチヒを奪回するべく電撃的にポーランドに侵攻し、国際連 盟から脱退。→27 日、ワルシャワを占領し、ポーランドがドイツに降伏。 これを見たイギリス(5 月にポーランドの国土を保障する秘密協定を同国と結んでいた)は、直ちにド イツに対して宣戦布告を行った=第 2 次世界大戦勃発。ただし、英仏両国ともドイツに対して軍事行動 を起こす力はなく、国境沿いに部隊を展開しただけだった。 北海沿岸のダンチヒは、ドイツ人が過半の人口であったにもかかわらず、ヴェルサイユ条約においてポーランド 領とされていた。これは、ポーランドに北海への出口を与えるためであった。 9 月 4 日 阿部内閣は「欧州戦争に不介入」「専らシナ事変の解決に邁進する」との声明を発し、これにより日独 伊三国軍事同盟締結交渉が中断された。併せて外交政策の大転換を図ろうとした。 9 月 4 日 三国軍事同盟を主唱してきた板垣前陸相が支那派遣軍総参謀長に格下げされ、大島浩ドイツ大使及び 白鳥敏夫駐伊大使は帰国した後、辞任した。 白鳥は、駐伊大使時代にリッベントロップ独外相から「日本がグズグズして三国同盟を進めなければ、ドイツは ソ連と手を結ぶぞ」と脅かされていた。 なお天皇は、白鳥の帰朝引見を拒まれた。理由は白鳥が三国同盟を推進してきたからで、終生、大島、白鳥とい う三国同盟推進者を嫌悪された。 同月、陸軍省経理局内に「陸軍省戦争経済研究班」が設置された(通称:秋丸機関)。同班は、経済国 力のない日本が全面経済封鎖されるという万一の場合に備え、対英米総力戦に向けての打開策を研究す るため、陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐が中心となって設立された。英米班など 6 班にブレーン には経済学者を迎えて、少壮官僚、満鉄調査部、各界トップレベルの人材を集めた(総勢200 名近く)。 →約9 千点の資料を集め、16 年 4 月までに約 250 の報告書を作成した。 9 月 17 日 ソ連もポーランドに侵攻。ポーランドは独ソにより西と東の両方から侵攻され、占領された。→23 日、 ソ独間でポーランド分割協定締結。 9 月 21 日 ルーズベルト大統領が、初めて議会に乗り込み、中立法に定められている武器輸出禁止条項の撤廃を 訴えた。→10 月 27 日に上院が武器輸出禁止の破棄を決議。 日本国内では、物資不足から生じるインフレ抑制のため、価格等統制令が施行された。 →12 月にはネオンやエスカレーターなどの電力使用が禁止となり、木炭の配給が始まる。こうした事 態の打開について阿部首相は政治的力量が乏しく、議会で内閣不信任案と辞職勧告が提出された。 11 月 30 日 ソ連がフィンランドにも侵攻、占領した。これによりソ連は国際連盟から「侵略国」として追放された。 12 月 2 日 アメリカは対日禁輸物資に、航空機生産に欠かせないアルミ、マグネシウム、モリブデンを追加した。

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191 その 4 日後には、航空機用ガソリンのプラント、航空機用ガソリンの生産に役立つ考案、専門的情報を も追加した。 (援蒋ル~ト遮断のための南支作戦) 昭和14 年 11 月 第二次欧州大戦勃発により、英仏が極東を省みる余裕がないのを見た軍中央は、支那事変解決を急ぐ ために、フランスの蒋介石援助を思いとどまらせることを目的に南寧作戦を発動した。 第5 師団(師団長:今村均)の兵を動員する輸送船 20 隻が宇品港で高射砲 2~3 門を積み込んだのち、 15 日未明、暴風雨の中、欽州湾から上陸を開始し、翌日までに歩兵 4 連隊が上陸を終えた。 同師団は約200 キロ先の南寧を目指して進軍し、10 日後には南寧に達して、ここを攻略した。途中で 携行した糧食が尽き、水だけを飲んで歩くという強行軍であった。 12 月 9 日 蒋介石軍が約 30 万の兵力(32 個師団)で反攻を開始。第 5 師団は苦戦を強いられ、飢えと戦いなが ら応戦し、自軍の応援も得て約50 日間戦い抜き、翌年 2 月 3 日、ようやく敵軍を撃退した。同軍の損害 は戦死約1,500 名、負傷者約 3 千名で、総員の 2 割に達した。 (支那事変解決不調による内閣交代) 15 年(1940 年)1 月 欧州大戦不介入の立場をとっていた阿部内閣が、シナ事変解決が不調のため総辞職。阿部首相は政党 からの支持を得られず、出身母体の陸軍からも見放されたからであった。 1 月 16 日 大命を受け、米内光政内閣発足。昭和 12~14 年の海相時代にからだを張って日独伊三国軍事同盟締結 に反対した米内の後ろ盾は、内大臣の湯浅倉平であった。陸相には畑俊六が起用され、外相は、米英重視 の外交路線を引き継ぐため有田の続投となった。 米内は、シナにおける泥沼の戦争を収拾しようと英米との国交調整に努力を傾注したとされるが、組閣 にあたり病弱の海相吉田善吾を更迭して山本五十六連合艦隊司令長官を充てれば三国同盟への傾斜を阻 止できたかもしれないところ、吉田善吾に続投させた。 この頃、シナの占領地では資材不足から経済建設が完全に行き詰まっていた。また、戦局も泥沼化して いて、これをいかに収拾するかについて、平沼、阿部、米内のどの内閣も閣内が対立した。一方(板垣陸 相などの)軍部は枢軸側との提携強化を主張し、他方は英米との協力に道を求めようとし、自力による解 決に自信を喪失していた。 そのような状況の中で、右傾化した社会大衆党や東方会(中野正剛ら)など左右両翼の「革新系」が新 体制運動を叫び出した。さらに翌 2 月の衆院本会議で立憲民政党の斎藤隆夫が「反軍演説」を行って除 名されるということが起きて以降、政友会、民政党の2 大政党を中心とする保守派は総崩れとなった。 1 月 26 日 日米通商航海条約が失効し、日本と米国とは無条約の状態に入った。 3 月 アメリカが蒋介石政権に対して2,000 万ドルの軍事援助を表明し、反日親支政策を鮮明にした。 4 月 ドイツがノルウェーに侵攻した。

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192 (支那事変処理方針の転換) 15 年(1940 年)3 月 30 日 参謀本部の提案に基づき、陸軍中央部で次の方針が決定された。 「昭和15 年中に支那事変が解決されない場合は、16 年初頭から、既取決めに基づいて逐次シナから撤 兵を開始し、18 年頃までには上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を集める」 この方針は、元々は陸軍省の発案になるもので、事変処理の方針の大転換であった。 この会議の出席者は、参謀本部側から閑院宮参謀総長、沢田次長、神田総務部長、富永第一部長、土橋第二部長、 鈴木第三部長、陸軍側は畑大臣、阿南次官、武藤軍務局長。 4 月 1 日 岩畔豪雄、秋草俊、福本亀治各中佐を中心として昭和13 年に開校された「後方勤務要員養成所」が「陸 軍中野学校」と改名され、諜報活動に携わる人材の養成を任務としたが、遅きに失するものであった。初 代校長は北島貞美少将(15 年 8 月 1 日就任)。 戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた 岩畔豪雄中佐が、昭和 12 年参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍 省が中心となって「後方勤務要員養成所」が創設された。 5 月 10 日 この日、ドイツ軍がマジノ線を迂回してオランダ、ベルギーに攻め込み両国を占領し、フランスに向か って進撃を開始した。ドイツ陸軍は防御の堅い西部戦線(フランス軍が66 個師団を配置)を回避し、ア ルデンヌの森を機甲3 師団により突破したためフランス軍は総崩れとなり、凄惨な大戦争となった。 →駐留イギリス派遣軍も持ちこたえられず、6 月 2 日、ダンケルクから撤退した。このとき、チャーチ ルの指令により、イギリス派遣軍は全ての武器・弾薬を残して母国に引き上げたが、部隊を運ぶために船 という船は全て動員された。 6 月 14 日、ドイツ軍がパリに無血入城(7 月、仏ヴィシーに親独のペタン政府が成立)。この間、6 月 10 日、イタリアが参戦した。 その結果、ヨーロッパ大陸はドイツ軍、イタリア軍によって支配され、ただ一国、イギリスだけが独軍と戦うこ ととなった。 これをきっかけに、国内では「バスに乗り遅れるな」の声が高まり、大本営においても2ヶ月前のシナ からの撤兵方針を放擲して、南進論が醸成されるようになった。 それまでは、対米英戦争が始まった場合にはルソン島上陸作戦を行うこととされていたが、南方問題が 研究対象となった。 この間、5 月 16 日、 米ルーズベルト大統領が上下院合同会に出席し、陸海軍装備等の充実のため、11 億82 百万ドルの支出権限を大統領に与えるよう要請した。 6 月 6 日、米連邦議会が第3次ビンソン法案によってエセックス級空母(日本の「翔鶴」クラスの大型空母)24 隻を建造する権限を大統領に与えた。 6 月 22 日、米下院が国家防衛税法を可決。国税増収見積額は 10 億ドル弱。 6 月末、国家防衛法が議会を通過。ルーズベルト大統領が 7 月 2 日これに署名成立。この法案に反日活動を行っ てきたプライス委員会による策動で資源の輸出抑制条項が加わった。その目的は、主として日本向けの石油、鉄屑、

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193 武器、機械、部品などの輸出停止を行うことにあった。 議会が海軍を大西洋と太平洋に二分配置するため40 億ドルを支出する法案を可決。7 月 20 日、ルーズベルト大 統領がこの法案に署名成立。 7 月 25 日、アメリカ政府が石油、石油製品、鉄屑の輸出をライセンス制に切り替えた。 6 月 参謀本部員が対南方作戦を考慮し、フィリピン、マライ、仏印、タイ、スマトラ、ジャワ、ニューギニ ア方面へ偵察旅行に派遣された。 6 月 22 日 南方問題について、参謀本部と陸軍省の主要課長・主任者による合同会議が開催され、陸軍省(岩畔軍 事課長ら)が従来の態度から豹変し、対南方強硬論を唱え、不可能とも言えるシンガポール即時奇襲を主 張した。 6 月 25 日 西原一策少将を委員長とする仏印監視機関が設置された。これにより、3 月に決定された逐次シナ撤兵 方針は、完全に放擲された。この通称・西原機関は、米英による蒋介石政権援助の仏印ルートを遮断する ことを目的とし、参謀総長及び軍令部長連名の訓令の下、行動することとされた。 (第二次近衛内閣の成立) 15 年(1940 年)6 月 近衛が枢密院議長を辞任し、6 月 24 日に「新体制声明」を発表し、新体制運動を始めた。 7 月 2 日 春頃から準備が進められていた日ソ中立条約交渉が開始される。これは、元々親ソ的であった陸軍の 統制派による、ソ連が蒋介石政権援助するのを防ごうという発想に基づいたものであった。 7 月 16 日 米内内閣がわずか半年で総辞職。 欧州大戦の状況を見て、向独一辺倒となった武藤章軍務局長を中心とする陸軍統制派の幕僚たちが、親米の米内 光政首相を辞任に追い込む運動を展開した。これには尾崎秀美、平貞蔵、蝋山政道、細川嘉六、堀真琴ら近衛元首 相を取り巻く「新体制」論者らも連携していた。尾崎らは日本が「世界最終戦」として第2 次の世界戦争を戦うこ とを必然として議論を展開していた。米内の後ろ盾となっていた湯浅内大臣は、全体主義的な風潮の中で健康を害 し、6 月 1 日に辞任していた。 畑陸相は陸軍を抑えようとしたが、「(三国同盟を実現するため)強力な(近衛)内閣を組織」しようとした陸軍 に抗しきれず、“陸軍の相違を受けて”米内首相に辞職を勧告。米内首相がこれを断り、逆に畑陸相に辞任を求める と、畑陸相が用意していた辞表を提出。陸軍は代わりの陸軍大臣を出さなかったため、米内内閣はわずか半年で総 辞職した(後任には近衛の盟友・木戸幸一が就任)。 これは、欧州戦線におけるドイツ、イタリアの勢いを過大評価したことから生まれた動きであった。 ヨーロッパ戦線におけるドイツ優勢の情勢から、畑陸軍大臣はじめ陸軍内部の親独派は「ドイツ軍の英本土上陸 作戦は間もなく行われて成功するに違いない。大英帝国は崩壊するだろう」とみて、再び勢いづいていた。陸軍親 独派は暴力で反対派を倒す風潮があったし、朝日新聞をはじめ当時の報道言論は挙げてドイツの進撃を囃したて、 その絶対優勢を報道・論説していた。各政党もみな親英米外交から枢軸外交への転換を決議したり、要望を行った

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194 りした。 米内内閣倒閣には、参謀本部総長・閑院宮の意向も働いていた。独仏宣戦を視察してきた閑院宮はシナ事変の解 決にドイツを利用したい(畑俊六「巣鴨日記」より)と、ドイツとの同盟を澤田参謀次長に伝えていた。 社会大衆党の浅沼稲次郎代表さえ、6 月 22 日、中央執行委員会の決定した強硬な要請書を政府に突き付けた。そ の中には次の文言があった。 「世界及び東亜新秩序建設のため日独伊枢軸を強化すること。英米追随外交を清算し、日英、日米交渉を即時中 止すること。仏印経由の援蒋ルートを遮断し、実力を以て仏印当局の不誠意な敵性を放棄せしむるの保証を確保す ること」 この世界情勢の激動期にあって、陸軍内では次の方向が打ち出されるようになった。 (1) 支那事変については、泥沼状態から早く足を洗おうという方向に向けて、蒋介石政権を孤立させる、その ため、4つの援蒋ルートのうち、仏印ルート(月に1 万トン)及びビルマルート(同 1 万5千トン)を遮 断するのが有効適切。→仏印ルートは、日本の申し入れにより仏印総督が自発的に閉鎖。ビルマルートの 遮断のため、所要の兵力を北部仏印に進駐させる。 (2)液体燃料に関して欧米依存経済を脱却して自給自足経済体制を確立するため、蘭印を日本の勢力圏に収め る。そのため、ドイツ軍の英本土上陸作戦等の好機を捕捉して、香港、マレー等を攻略し、英国勢力を東 亜から駆逐すると同時に蘭印を日本の勢力圏に収めることにより、南方問題の解決を図る。 陸海軍間では、戦争相手を英蘭に限定しうる(米英可分=陸軍)か、限定しえない(米英不可分=海軍)かの違い が出て重大な問題ではあったが、政府に対しては一致して「独伊との政治的結束強化」と「対ソ国交の飛躍的調整」 との外交施策を要請した。 なお、イギリスのチャーチル首相は、アメリカ大統領ルーズベルトに国家存続の望みを託して対独参戦を求めた。 ルーズベルト自身は対独参戦を決意していたが、国内では反戦気分が高いため、その決意を言明すれば、11 月に予 定されている大統領選挙で勝利する見込みがなかったため「皆さんの息子をヨーロッパの戦場に送ることはありま せん」との公約を掲げていた。そこでチャーチルは、アメリカと日本を闘わせることによって、アメリカが日本の 同盟国であるドイツとの戦端を開くよう、さまざまな策動を始めた。 ルーズベルトは、日本に「最初の一撃」を撃たせることによって、国内の反戦気分を覆し、日独両国相手の戦争 を始める道を探ることとなった。 7 月 22 日 近衛に組閣の大命が下り、第 2 次近衛内閣が成立。外相松岡洋右、陸相東條英機、海相は吉田善吾留 任。陸軍内では阿南次官、武藤軍務局長が留任した。 近衛は、新体制運動を提唱する中で、昭和研究会を母体にひろく国民が参加できる組織づくりを目指していた。 同運動は国政に張り出した軍部を抑えようと意図するものであった。7 月 17 日、木戸内大臣は後継首相推薦のため に重臣会議を開き、近衛を推薦することと決した。急ぎ参内した近衛に天皇は組閣を命じ、その際、「内外時局重大 につき外務・大蔵両大臣の人選には特に慎重にすべき」と注意された。 新体制運動という雰囲気の中で、政党が次々解党していった。7 月 6 日の社会大衆党解散を初めとして、同月 16 日に立憲政友会久原派、26 日に国民同盟、30 日に政友会中島派、8 月 15 日に立憲民政党まで解党し、無政党状態 となってしまった。 →10 月 12 日の大政翼賛会へ。 近衛は支持基盤としてリベラルな知識人を足場にしようとしていたにもかかわらず、組閣にあたって 陸軍指導部と妥協し、政党人の入閣はなく、官僚中心の内閣をつくった。また、新たな情勢下で政府と陸

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195 海軍統帥部との緊密な連携が必要と考えて途絶えていた大本営政府連絡会議を復活させた。しかし、統 帥部は政治が統帥に関与することを警戒して連絡会議を頻繁に開くことには消極的であった。 組閣前の19 日に近衛は、陸相候補の東條英機(航空総監・統制派の首領)、海相候補の吉田善吾、外相 候補の松岡洋右(元・満鉄総裁)を私邸に集め(荻窪会談)、松岡洋右が用意した文書を読み上げた。そ の中の「世界施策」と銘打たれた一項には次のようにあった。 「速やかに東亜新秩序を建設するため日独伊枢軸の強化を図り、諸般の重要政策を遂行す。」 東條も吉田(この時は既に重度のノイローゼに陥っていた)も会談の目的を知らされておらず、「雑談 のようなもの」と受け取ったと言われる。しかし、この荻窪会談によって日独伊三国同盟への方向が決し た。一方で、アメリカのビンソン案(大型空母の 24 隻建造計画)への対抗策は何ら発見できなかった。 この頃は、政府だけでなく国民も、ヒトラー・ドイツの完勝を既定の事実のように錯覚していたと言われる。新 聞各紙はこぞって内閣人事を歓迎した。しかし、後に要の松岡外相、東條陸相が近衛の目指した和平工作をぶち壊 していくこととなる。 外相に就任した松岡は、直ちに4 人の大使を含む計 40 人の外交官を更迭し、帰朝命令を出した。三国 同盟への道筋をつけるため、自分の意に沿わない外交官を切ったものである。その代価として松岡は、貴 重な情報源を遮断することになってしまった。以後、松岡外相は三国同盟を推し進めていくことになる。 7 月 25 日 若杉要ニューヨーク総領事が松岡外相に対し報告書「米国内の反日援支運動」を提出し次のように訴 えた。これは、同年3 月に蒋介石政権に対して 2 千万ドルの軍事援助を表明したアメリカに反発する世 論が高まる中で、政府が軽々にアメリカを敵に回す政策をとることを憂えたものであった。 「アメリカにおける反日援支運動は大統領や議会に対して強力なロビー活動を展開し、効果を上げて いる」が、「この反日援支運動の大部分はアメリカ共産党、ひいてはコミンテルンが唆したものだ」(13 年12 月 31 日の項参照) 「その目的は、アメリカ民衆を反日戦線に巻き込み、極東における日本の行動を牽制することによっ て、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成することだ」等々 つまり、ルーズベルト政権の反日政策に反発して反米政策をとることは、結果的にスターリンによる アジア共産化に加担することになるから注意すべきだと訴えた。 7 月 26 日 閣議で「基本国策要綱」を採択。そのなかで「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づき、 先ず皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」という大東亜共栄 圏構想が初めて示された。 この要綱は、内閣嘱託の尾崎秀美ら昭和研究会の影響を受けてつくられ、アジアから英米勢力の排除を目指すも のであった。すなわち近衛―松岡は、前日、若杉総領事から届いた訴えを完全に無視した。 尾崎や書記官長・風見章、秘書・牛場友彦らと情報交換のための「朝飯会」を主宰していたのは、近衛首相の長男 で秘書となっていた近衛文隆で、彼は尾崎の紹介でR.ゾルゲ(後にソ連のスパイとして、尾崎とともに逮捕・処刑 された)とも親交があった。 「八紘一宇」とは日本書紀にある言葉で、(天皇を敬い、天皇を中心とするのが日本の精神であり、それを世界に 広める)という概念であるが、日蓮主義者の田中智学が道徳論として国体論の中で使用した。後に軍部はこれをプ ロパガンダとして使用した。

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196 以降、第 2 次近衛内閣は新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させた=ヒトラーやスターリン を模倣した独裁政党の結成を目指した。 新体制運動について、近衛は「全てを包括して公益優先の精神に帰一せしめんとする超政党の国民運動 たるべきものである」と言った。 それは社会の平準化を目指していたが、政党間ではその具体化について考え方の違いがあり、そのよう な点からすべての政党の解党を促していくこととなった。 翌月の8 月 15 日に新体制運動が政府の手に移され、民政党の解散によって、日本に政党が存在しなく なり、議会制民主主義が死を迎えた。 7 月 27 日 大本営政府連絡会議において、内閣提出の「基本国策要綱」とともに参謀本部の提議による「世界情勢 の推移に伴う時局処理要綱」を採択。 時局処理要綱には、大本営陸海軍部から提案のあった「独伊との政治的結束強化」と「対ソ国交の飛躍 的調整」を受け、「速やかに支那事変の解決を促進するとともに、好機を捕捉し対南方問題を解決す」と あり、阿部信行内閣の進めてきた「中道外交」を一気に転換するものであった。その概要は次の通りで、 オランダがアジアにもつ植民地を日本の勢力下におこうとする(南方武力行使をも可能とする)もので、 独伊との政治的結束を強化するとともに、ソ連との国交を飛躍的に調整し、国内の戦時態勢を強化し、戦 備の充実を進めるとした。 方針 (1)速やかに支那事変の解決を促進するとともに好機を捕捉し対南方問題を解決する (2)支那事変の処理が終わらない場合、対南方施策を重点とする方針転換については、内外情勢を考 慮して決する。 要領 ①速やかに独伊との政治的結束を強化し、対ソ国交の飛躍的調整を図る ②米国に対しては、公正なる主張と毅然たる態度を持し、(中略)我より求めて摩擦を多からしむ るは之を避ける ③仏印に対しては、援蒋行為遮断の徹底を期するとともに我が軍の補給担任、軍隊通過及び飛行場 使用を容認せしめ、必要なる資源の獲得に努める ④蘭印に対しては、外交的措置により重要資源確保に努める ⑤対南方武力行使 イ、支那事変処理概ね終了せる場合には、対南方問題を解決のため好機を捕捉し武力を行使する ロ、支那事変処理概ね終了未だ終わらざる場合には、第三国との開戦に至らざる限度において施 策するも、諸般の情勢が有利に進展すれば、対南方問題を解決のため武力を行使することあり ハ、前二項武力行使の時期・範囲、方法等に関しては、情勢に応じ別に之を決する 第4 項において、満洲では期待できない石油を南方(蘭印)に求めた。しかし、根底において(日本が 蘭印に出ていけば)アメリカが全力を挙げて反撃してくることを考慮していないという重大な欠陥があ った。 海軍が実施した対米図上演習の結果、仮に蘭印の資源地帯を占領しても海上交通路が確保できないた

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197 め、吉田善吾海相は「蘭印攻略は無意味である」と指摘した。 しかし、首相に就任したばかりの近衛はもとより、東條陸相、東郷外相がこの陸海軍提案を租借してい たかどうかは疑問であったとされる(種村佐孝「大本営機密日誌」)。 以降、海軍は、アメリカが対日全面禁輸を行えば、日本はその存立上好むと好まざるとにかかわらず武 力を行使せざるを得ないとの決意の下、8 月 24 日、上奏裁可を経て本格的対米戦備に着手した。 →三次にわたり戦時編制の増強を発令して、次のとおり外戦部隊対米7 割 5 分の戦備を完整させた。 第1次 同年 11 月 15 日第 6 艦隊(潜水船隊3)新設。 第2次 16 年 1 月 15 日第 11 航空艦隊(基地航空)等の新設 第3次 同年 4 月 10 日第 3 艦隊、第 1 航空艦隊(母艦航空)等の新設 7 月 29 日 上記「時局処理要綱」について天皇は「近衛首相は、支那事変処理の不成功による国民の不満を南方に 振り向けようと考えているらしい。海軍が支那事変処理の後に南進したいようだが、陸軍は好機あらば 支那事変そのままの態勢で南方に進出しようと考えているらしい」と憂慮の声を木戸内大臣に洩らされ た。 政府、陸軍、海軍、三者の足並みが揃っていないことを見抜き、まさに核心を突く批判であった。 天皇の憂慮を侍従武官長から聞いた沢田参謀次長は「日本の国力は支那事変に投入されて余力が乏し く、自力で南方解決などは考えていない。あくまで他人の褌で相撲をとるつもりである」との見解を述べ た。 8 月 1 日 基本国策要綱に関して松岡外相が「現下の外交方針は日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立にある」 との談話を発表し、そこには仏印、蘭印が含まれると注釈した。この大東亜共栄圏という言葉は流行語と なった。 松岡は日本、ドイツ、イタリア、ソ連の四カ国による四国同盟が米英と対決することを想定していた可能性があ る。なお、「大東亜共栄圏」という標語は尾崎秀美(ソ連の工作員)ら近衛首相のブレーンや陸軍統制派の将校たち が主張したものである。 また、同日松岡外相は、オットー独大使をお茶に招いて、日独枢軸強化に関する呼びかけを行った。 (この頃の欧米各国の動き) フランスから軍隊を撤収したイギリスに対し、ヒトラーは7 月 19 日、国会の場でイギリスに対し和平を提案し た。しかし、同月22 日、イギリスがこれを拒否。そのため、これまで日本との軍事同盟にむしろ冷淡であったドイ ツの姿勢に変化が起こり、8 月 13 日から対日交渉に積極姿勢をみせるようになった。 アメリカでは7 月 17 日、ルーズベルト大統領が次期大統領候補の指名を受ける民主党大会で「我々は外国の戦争 に参加しない」と大見得を切る一方で「攻撃された場合を除き、我々の陸海空軍をアメリカ大陸以外の外国の土地 で戦うために送らない」と演説していた。これは“攻撃されたら、軍隊を外国に送る”ことを意味していた。 イギリスはドイツの進撃をくいとめるために、アメリカに対独参戦又は軍事的援助を求めていたが、ルーズベル トは中立法を盾に、イギリスがドイツの空爆によって国力を消耗するのを傍観していた。一方では、蒋介石政権に 莫大な援助をしていたにもかかわらずである。 イギリスに対する援助を行うにあたり、アメリカ=ルーズベルト大統領は様々な要求を突き付けた。 9 月 3 日、米英間で米英防衛協定が締結され、アメリカは中古駆逐艦 50 隻をイギリスに引き渡したが、それらは

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198 スクラップ同然の代物であった。 その代償としてアメリカはイギリスから多大の見返りを得た。すなわち、カリブ海に持つ7つのイギリス基地使 用を認めさせるとともにニューファウンドランドとバーミュダの基地の無償譲渡をも受けるほか、イギリスが世界 各地に持つ関税特権をアメリカに対して撤廃させ、イギリスが開発したソナー(潜水艦探知)技術を提供させた。 さらにイギリスが最後に保有する5千万ポンドの金塊まで供出させた。 ルーズベルトはイギリスを「殺さぬように、生かさぬように」扱ったのであった。チャーチルは「わがイギリス は乳牛のように最後の一滴まで搾り取られた」と嘆いたと言われる。 9 月 16 日、アメリカ議会で 21 歳から 35 歳までの男子を選別徴兵する法案が可決した。この法律では、沿岸警備 隊にアメリカ近隣各国の沿岸を防備するよう命じる権限を大統領に与えていた。 8 月 6 日 陸、海、外、事務当局が「時局処理要綱」を踏まえて協議の結果、「日独伊提携強化策」(案)をつくる。 主として英国を対象とする日独の政治的経済的提携強化の範囲にとどまるもので、具体的内容には乏し かった。 (北部仏印進駐) 昭和15 年(1940 年)8 月 30 日 松岡外相とアンリ駐日仏(ヴィシー政権)大使との間に、北部仏印(現ベトナム北部)に日本軍の進駐 などを認める「松岡・アンリ協定」が締結される。この協定により、ドイツに負けたフランスの足元を見 て日本政府は平和的に「南進」を果たすつもりであった。 ドイツ軍によるフランス侵攻後、仏印にあったフランス資本経営の産業が停滞したため、日本はドイツ軍の下で 成立したヴィシー政権に対し、仏印が「東亜の新秩序建設」に参加してはどうかと働きかけた。その結果、ヴィシ ー政権が日本のシナ事変完遂と東亜の新秩序建設のために必要な便宜を供与するという合意に達したものであっ た。 この交渉開始まもなく、アメリカのウェルズ国務次官補代理が日本大使に向かい、“脅迫や軍事力を使 っての侵略行動を行えば、アメリカは黙っていない”と告げ、同時にその内容全文をアメリカの各新聞に 掲載させた。しかし、政府も陸海軍の首脳も、その警告になんの注意も払わなかった。(鳥居民「日米開 戦の謎」草思社文庫) 日本政府・軍首脳のインテリジェンス能力が極めて低かった事例である。 9 月 日本陸軍が北部仏印に進駐。 この進駐は、蘭領東インドやマレーの植民地政府を警戒させた。→日本=蘭領東インド間で続けられ ていた経済交渉は進まず、蘭領東インド総督とスマトラ、ボルネオ島にあるオランダ系、英国系の石油会 社首脳はアメリカに協力し、日本が望む量の石油、ゴム、錫を売ろうとしなかった。 近衛内閣成立後の政府、陸軍、海軍の間には全く統一がとれていなかった。政府は日独伊三国同盟、日 華基本条約へ、また陸軍は内部でも統一されない主観論で北部仏印進駐=南進へと突き進んでいき、一 方海軍は対米戦備に熱中していた。

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199 (三国軍事同盟締結へ) 昭和15 年(1940 年)9 月 4 日 松岡外相が、自らが招集した陸、海、外、蔵、四相会議に提案すべく、「日独伊提携強化策」(案。8 月 6 日につくられた)を独断で大幅に変更した案を陸、海軍の主要メンバー(松岡外相、大橋次官のほか東 條陸相、阿南次官、武藤軍務局長、沢田参謀次長、吉田海相、豊田次官、近藤軍令部次長らが出席)に示 して協議が行われる。 この席で松岡は、「戦争を回避するため英米と手を結ぶには、英米の言うとおりに支那事変を処理し、 半世紀は頭を下げねばならない。それでは国民も納得しないから、英米との提携は考えられない。残され た道は独伊との提携以外にはない」旨発言したが、それは、支那事変処理と独伊との提携を短絡的に結び 付ける発想であるとともに、三国防共協定を対米軍事同盟に一変させるものであったため、吉田海相は 心労から入院・辞任した(翌5 日、後任に及川古志郎大将が就任)。 9 月 6 日 四相会議開催。松岡外相が「三国軍事同盟締結意外に難局打開の方策がない」旨、力説し、及川海相も 沈黙の後同意し、松岡外相の提案が承認された。海軍が、三国同盟が対米軍事同盟としての性格をもつこ と対し反対であることには変わりがなかった。 9 月 7 日 独リッベントロップ外相の腹心スターマーがドイツ特使として来日。これは、松岡外相の呼びかけに 応えたものではあったが、ドイツの目的は、イギリスとの戦争を有利に運ぶため、アメリカの参戦を牽制 することにあり、そのために日本との同盟強化を必要としたものであった。 9 月 10 日 松岡外相はドイツ特使スターマーを自邸に招いて会談し、同盟私案を提示した。翌11 日にドイツ側が 反対提案(軍事同盟条項の明確化)を行い、日本側が同意して基本条項が確定。 松岡が用意した同盟私案は、元駐独大使の大島が松岡に招かれた際に提示したものであった。 12 日の四相会議、14 日の大本営政府連絡会議、16 日の臨時閣議を経て、19 日の御前会議において日 独伊三国軍事同盟の要綱が最終決定された。終始、松岡が「(独伊と結ぶか米英の側に立つか)日本とし てハッキリとした態度を決めるべき時だ」と主導した。新聞をはじめ世論の大部分が同盟の早期妥結を 熱狂的に支持していた。 この間、対米軍事同盟に反対の海軍は、12 日の四相会議において自動参戦の回避を主張し、原義道枢 密院議長も、アメリカの対日禁輸措置に懸念する発言を行ったが、松岡は強気を崩さなかった。 最終的には(妥協案として)条約第 4 条に「参戦の義務が発生すべき米国の攻撃がなされたかどうか の判定を協議する混合専門委員会を設置する」規定を設けることにより決着した。 海軍としては、三国軍事同盟を結べば、英米勢力圏内から石油・鉄材などの資材を調達できなくなるということ が分かっていた。しかし、欧州大戦へのアメリカ参戦の可能性が大ということなら、抑止力として軍事力が必要で あって、ドイツとの同盟はそれに役立つとの考えもあって、同盟締結賛成に傾いていった。あくまで反対すれば、 暗殺の憂き目に遭っていた、と後に前首相の米内は述懐した。 これによって、日本自体の存立が脅かされない限り、ドイツが攻撃されたとしても参戦に踏み切る可能 性が極めて少なくなった。駐独大使来栖三郎が全権大使として調印に赴くこととなった。 なお海軍は、陸軍と同額の予算を確保することを条件に締結を認めた。

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200 昭和天皇は、三国軍事同盟には難色を示していた。前年、秩父宮が熱心に締結を勧めた時には喧嘩して突っぱね てしまったと、独白録に書かれている。 9 月 19 日 日独同盟の可否を論じる御前会議において、伏見宮軍令部長が賛成意見を述べたが、原枢密院議長は 「アメリカが日本への圧迫を強化し、蒋介石への援助を高めてシナ事変処理を一層困難にするのではな いか」と疑義を表明した。これは、天皇と元老・西園寺公望の危惧を体してのものであった。しかし、日 独同盟は承認された。 26 日の枢密院においては、海軍出身の枢密顧問官鈴木貫太郎が「日米戦をやるのであれば、今をおい てない」と発言した。心臓病が嵩じたため辞職した吉田善吾に代わって9 月 15 日に及川古志郎が海軍大 臣に就任して以来、海軍は態度を変えていた。海軍としては内心三国同盟に反対であっても、ビンソン案 への対抗策として空母「翔鶴」「瑞鶴」の就航による一時的優位に望みを託していたからで、このことを 鈴木貫太郎に吹き込んでいた。 この会議で松岡に反論したのは石井菊次郎(外務省出身の枢密顧問官。第一次大戦時の日米外交の立役 者)だけで、「歴史上ドイツと手を組んで幸せになった国はない。ドイツはもっとも悪しき同盟国である」、 「ヒトラーは条約など紙切れ一枚としか見ていない(例:独ソ不可侵条約)」と警告したが、大勢は決し ていた。(別宮暖朗「誰が太平洋戦争を始めたのか」筑摩書房より) 9 月 21 日 天皇が「この同盟を締結するということは、結局日米戦争を予想せねばならぬことになりはせぬか」と 内大臣に再び憂慮を洩らされた。 9 月 23 日 シナ南部の南寧を占領していた日本陸軍第5 師団 2 万 5 千人が越境して仏印領ランソンなどを攻撃し た。ドンダン要塞など各地で、ヴィシー政権の決定を受け入れず日本軍の進駐に反対する一部のフラン ス軍との間で数日間、戦闘が発生して停戦までに数百人の死傷者が出たが、25 日ついに仏軍を降伏させ た。 26 日には日本からの印度支那派遣軍もトンキン湾からハイフォンに強硬上陸し、武力による進駐を行 った。これは、陸軍内強硬派の独走によるものであった。 日本側の北部仏印進駐の目的は、米英による蒋介石政権への物資補給ルート=援蒋ルートの閉鎖・監視であった が、援蒋物資阻止に関する外務省と仏政府との交渉を無視して行われた。 参謀本部作戦部長富永恭次、南支那方面軍副参謀佐藤賢了が第五師団を動かしてなされた北部仏印への進駐は、 ドイツに敗れたフランスの政治的無力につけこむものであると同時に、7 月末に示された天皇の憂慮を踏みにじる ものであった。 そのため、参謀本部内で「他人の褌で相撲を取る」(沢田茂次長)との声があったほか、戦闘まで起こったことか ら現地責任者の中にも「信を中外に失うもの」との批判があった。→その不手際の責任を取る形で閑院宮参謀総長、 沢田次長、富永作戦第一部長が辞任し、参謀総長に杉山大将、次長に塚田中将、第一部長に田中新一少将が就任し た。このとき、第二課に併合されていた戦争指導班は参謀次長直属の大本営二〇班として独立した。 しかしながら、蒋介石政権への物資補給ルートのひとつである仏印ルートは、この北部仏印進駐によってほぼ途 絶え、シナ大陸における蒋介石軍と日本軍との戦闘は際立って下火になり、日本は当初の目的を達した。 日本との戦闘においてあっけなく負けたフランス軍を目のあたりにしたベトナム人は、フランス軍に対抗できる

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201 と確信し、戦後フランスが戻ってきたときに自信を持って抵抗し、独立を達成した。 なお、日本と仏印との経済連携については、1941 年 5 月、経済協定の仮調印がなされ、貿易決済に第三国通貨を 使わない、などの合意ができた。 9 月 27 日 ベルリンのヒトラー総統官邸で、日独伊三国軍事同盟締結(日本は来栖駐独大使が調印)。その目的は 条約本文において「東西呼応する世界新秩序建設のための盟約」としているように、対米国交調整のため に毅然たる態度をとることが必要で、そのための戦略として三国同盟を結ぶということであった。 三国同盟にはもうひとつの目的があり、それはシナに駐留し、蒋介石軍を育成・支援してきたドイツ軍 の撤退であった。この同盟条約の締結により、ドイツはシナから駐留軍を引き揚げた。 なお、同盟締結反対への声に配慮して松岡外相は当日、駐日公使オットーと会って秘密の公文書を取り 交わして第3 条末尾に「攻撃されたか否かは三国間の協議によって決する」と付け加えた。 当時のマスコミは「外交転換ここに完成」(東京朝日)などと捉え、多くの国民も歓迎した。 支那事変の解決を急ぐあまり、独・伊強しとの情勢判断から同盟締結に至ったものだが、1年前に日本に通告す ることなく独ソ不可侵条約を結んで日本を裏切ったドイツに対し、対ソ協議について何ら協議することなく日本は ドイツ、イタリアとの三国同盟を締結してしまった。そこには、対ソ戦を重視するのか、アメリカとの関係をどう していくのかについて一貫した戦略がなかった。 松岡外相は欧州大戦でのドイツの優勢を過信し、日本がドイツと強固な同盟を結べば、南進してもアメリカは口 を出せないだろう=アメリカに対して強く出れば退く、との誤った判断をしていた。 しかし、9 月時点では、ヨーロッパ戦線ではイギリスがただ一国、ドイツと戦い、その攻撃を何とか持ちこたえつ つアメリカのルーズベルト大統領に対独参戦を求めていた。 ドイツが占領した地域においてユダヤ人に対するホロコーストが始まっており、英米のドイツに対する感情は日 増しに悪くなっていた。 大西洋における制海権を維持していたイギリスは、9月末、ロンドン上空の空中戦でドイツに勝利し、イングラ ンド上陸・征服を目指すドイツの進軍は阻まれた(ロンドン空襲は11 月まで継続された)。 このような情勢下で、日本はドイツと組むことを決定したが、それは短期的な戦況を長期的な世界情勢と見誤っ たものであり、戦略的に賢い選択ではなかった。 この三国軍事同盟によって日本はアメリカに対し強気の政策をとるようになったが、これによりアメリカを決定 的に敵に回すこととなり、以降、アメリカは意図的に日本を追い詰めていくようになった。しかも三国軍事同盟は、 実際上は軍事同盟として何ら機能しなかった。 内心対独参戦せざるを得ないと考えていたものの国内の反戦機運が高いため参戦に踏み切れず、一方で史上初の 大統領三選を果たそうと戦略を練っていたルーズベルト大統領は、この三国軍事同盟を見て「日本と戦争になれば 対独参戦を果たすことができる」とほくそ笑んだ。 なお日本が真珠湾攻撃を行ったとき、松岡外相が付け加えた一項にもかかわらず、それは日本が「攻撃されたと き」に該当しないにもかかわらず、ヒトラーは自動的にアメリカに宣戦布告した。 後年松岡は三国同盟締結を「一生の不覚」と悔やんだ。 9 月 内務省訓令により「隣組」が組織された。それは、出征兵士の見送りや遺族・留守家族への救援活動の

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202 ほか、相互監視の役割も担っていた。このため、国民の生活は一層窮屈になった。 なお、東京・銀座などのダンスホールも翌10 月末日を以て閉鎖されることとなった。 政府が大政翼賛会運動綱領を発表し、一億一心、職分奉公、臣道実践という大義を掲げる。 昭和8 年に近衛文麿の私的諮問機関として結成された昭和研究会がその母体。綱領を持つ政党のような政治組織 ではなかった=綱領も宣言もなく、新体制運動を投げ出す形になった。加わらなかった代議士は30 名ほどで、傘 下には大日本産業報国会、大日本婦人会、町内会、隣組まで含まれていた。大政翼賛会が政治運動の中核体という ような曖昧な地位に留まったため、軍部勢力に利用された面もある。 10 月 7 日 内閣情報部が、大政翼賛会の目的を国民に知らせるため、臨時号として「週報」第 208 号「新体制早 わかり」を発行。そこには「いま『イギリス的秩序(中略)の世界が行き詰まり』(中略)『結論的には通 俗にいう全体主義的な世界になりつつある』との表現があった。これは、レーニンの世界戦略そのものの 表現であった(伊藤隆「大政翼賛会への道」講談社学術文庫より)。 このように、コミンテルンの対日「思想」工作は、社会主義に傾倒したエリートたちによって戦前の日本政府を 動かしていた。 10 月 12 日 新体制運動の行きつく先として大政翼賛会が成立した。大政翼賛会は国政協力団体と化し、内務省の外 郭団体となり、同会地方支部長は地方長官兼任となった。 一方で国民は、新体制運動という公益優先の名の下での国家統制に不満で、「配給並びに消費の規正」を求めた。 他方で金融業界などは金融の規制に反発した。また、「新体制は『赤』だ」というイデオロギー批判も生じて、次第 に新体制運動は行き詰っていった結果としての大政翼賛会成立であった。 陸軍はまたも近衛による運動を巧みに自分たちの体制強化に取り込んだという面があった。 10 月 23 日 省部首脳会議開催。「大東亜建設の捷道たるとともに、実に支那事変解決の為に残されたる最大の手段」 は南方進出によって自立経済圏を確立することであるとの認識で一致した。 10 月末 英国駐在武官の辰巳栄一少将が、独空軍によるロンドンへの昼間の爆撃がなくなった(夜間の空襲は翌 年6 月まで続いた)ことから、「ドイツ空軍の制空権獲得の失敗とみるべきで、ドイツ軍による英本土攻 略は実現の公算極めて少なし」との見解を大本営宛て打電し、英米軽視によって国策を誤ってはならな いとのメッセージを発したが、ドイツ一辺倒の指導部は聞く耳を持たなかった。 外務省内においても、枢軸派と、これに同調する“灰色組”が大勢を占めており、対英米戦を憂慮する 声はかき消されていた。 11 月 10 日 政府主催で「紀元二千六百年式典」が開催される。その目的は、一つには国民の士気の鼓舞であり、第 二には戦時下の国民を少しでもねぎらおうとするものであった。 11 月中旬 山本五十六が海軍大将に昇進の上、帝国連合艦隊司令長官に就任。これは、アメリカの対日戦略に対処 する面と、同国との開戦に消極的な山本の身の安全を図る面との両面の措置であった。 11 月 26 日

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203 政府が芳沢謙吉(貴族院議員・立憲政友会。元駐仏特命全権大使、外務事務官)を蘭印経済交渉特命全 権大使に任命した。 →芳沢大使はオランダ領インドネシアに派遣されて石油輸入確保のための交渉にあたったが、オラン ダ側はこれに応じず、交渉は決裂。これにより、石油の自立確保の道が途絶えた日本に対し、アメリカが 生殺与奪の権を握ることとなった。 11 月 27 日 駐米大使に野村吉三郎が就任。予て日米親善を願う野村は、三国同盟推進の中心人物である松岡外傷か らの打診に首を振り続けたが、とうとう受け入れたもの。→翌年 2 月 11 日に、冷ややかな空気のなかで ワシントンに着任した。 (英米による対日情報戦と制裁策) 日独伊三国軍事同盟締結(9 月 27 日)、日本軍の北部仏印進駐(9 月 23~26 日)に反発して、アメリ カは日本に対してより強硬な政策をとるようになった。 昭和15 年(1940 年)9 月 25 日~10 月初め アメリカ海軍の R.サフォード大佐率いる暗号解読班が日本の主要な暗号システム(外交暗号と海軍作 戦暗号《29 種からなる別々の作戦暗号》)の一部を解読することに成功した。アメリカの暗号解読班は以 後、日本の外交暗号をパープル暗号と呼び、得られた情報を「マジック情報」と総称した。残りの海軍作 戦暗号「JN-25」(主要暗号は 5 数字暗号)についても、10 月中頃には解読された。さらに米海軍は、暗 号解読時間を短縮するために特別の暗号解読機を開発した。 アメリカ政府が当時日本の外交暗号を解読し、「マジック情報」と呼んでいたことを公式に認めたのは1980 年の ことだった。さらに大統領府は、各種調査委員会に「国家の安全保障上の理由」から「JN-25」について審議する ことも、それに触れることさえも固く禁じていた。 日本海軍の作戦暗号については、イギリスの秘密情報機関(MI6)も 1939 年終わりごろには解読に成功していた。 同機関の J.ラヅブリッジャーと E.ネイヴの両名は 1991 年に刊行した「Betrayal at Pearl Harbor(邦題:真珠湾 の裏切り)」の中で、日本海軍の暗号は、その原理と構造を理解すれば、いとも簡単だったと述べている。 9 月 30 日(日本時間) アメリカが日本への屑鉄の輸出を統制する法律を発布。これは、同年 6 月に成立した国防強化促進法 (シェパード法)を発動させたものであった。 この屑鉄輸出統制法は、以下のキャンペーンによって制定された。 宣教師の息子としてシナで生まれたハリー・プライスが1937 年央からニューヨークに移住し、1 年かけて「日本 の侵略に加担しないためのアメリカ委員会」を立ち上げた。同委員会はシナとは無関係を装ったが、アメリカ国内 で中立主義を煽りつつ蒋介石政権を援助することを目的として、日本への戦略物資の輸出を停めさせようと活動し た。また、1935 年に制定された中立法(交戦国に対して武器輸出を禁止することを定めた)がシナの蒋介石政権に 対して発動されないよう運動し、他方日本が「拡張主義」であるとして非難することに重点を置いた。 日本には巨額の資金が必要な溶鉱炉を増やす国力がなかったため、鋼鉄の原料の多くをアメリカから輸入する屑 鉄(廃車となった自動車エンジンなど)に依存していた。したがって屑鉄が禁輸となると、日本にとっては生産計

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204 画に支障を来し、大打撃となることが予想された。 このような経済封鎖について、パリ不戦条約の起草者の一人であるケロッグは、条約審議の過程において、「戦争 行為である」と述べている。以降、アメリカは日本から直接武力行使の恐れがないにもかかわらず、経済封鎖を強 めていった。 日本の陸海軍では、以降「さらに石油を止められたら戦争しかない」との認識が強まった。 続いて10 月 5 日に米国海軍長官ノックスは「日、独、伊の挑戦には応戦の用意あり」との声明を出し た。 10 月 8 日、堀内大使がハル国務長官を訪ね、「日本への屑鉄輸出統制法は実質的な禁輸で、日本を対象 とする差別的措置・非友好的行為である」と激しく抗議したが、ハルは「シナにおいてアメリカ市民の財 産その他の権益を侵害し無視する日本が、(同法を)差別的措置だとしてアメリカに不満を述べるなど驚 くべきことだ」と不快感を示した。 10 月 4 日 イギリスが蒋介石支援のビルマルートを再開した(日本の要求により7 月 18 日から閉鎖していた)。 日露戦争のときには日本の戦費調達に協力したユダヤ人勢力も、「ユダヤ人のホロコーストを企図するヒトラーと 組んだ」として、日本を敵視するようになった。 このように日独伊三国軍事同盟締結によって、英米との勢力均衡が生まれると考えていた近衛首相と松岡外相の 思惑は完全に裏切られ、むしろ同同盟は英米との対決を抜きがたいものとしたうえ、支那事変処理方式に大きな転 換期をもたらすこととなった。 10 月 7 日 米海軍情報部極東課長A・H・マッカラム少将が「戦争挑発行動 8 項目覚書」を作成し、上申した。こ の覚書は、ルーズベルト大統領が最も信頼する軍事顧問、W.S アンダーソン海軍大佐と D.W.ノックス海 軍大佐の承認を受けた後、同大統領に回付された。 同覚書は、チャーチル英首相から要請されていた対独参戦を果たすために、ドイツの同盟国となった日 本がアメリカに先制攻撃をするように追い込み、それによって反戦気運の高い世論を一気に変えるとい う段階的な国家戦略で、その内容は次のとおりであった。 A 太平洋英軍基地、特にシンガポールの使用についての英国との協定締結 B 蘭領東インド内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結 C シナの蒋介石政権に対する可能な、あらゆる援助の提供 D 遠距離航行能力を有する重巡洋艦 1 個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣するこ と E 潜水艦隊 2 隊の東洋派遣 F 現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること G 日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること H 英帝国が日本に対して押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁 止 (ロバート・D・スティネット「真珠湾の真実」文芸春秋社より) 10 月 12 日 ルーズベルト大統領が「独裁者たちの指示する道を進む意図は毛頭ない」と、同盟三国向けの強硬な演

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205 説を行った。 11 月 5 日 米国大統領選挙で、戦時・有事を理由に史上初の三選を目指し、対独参戦を否定する公約を掲げたルー ズベルトが当選を果たす。 アメリカには厭戦気分が漲っていて対独参戦には反対であったため、表向き非戦を訴えたルーズベルトが勝利し たものであるが、ルーズベルト自身は三国同盟への対抗を秘めており、以降、公約に縛られながらも参戦を決行す るための方策を求め続けた。 その理由の一つに、1929 年以来の大不況・失業問題に有効な手立てを打てないでいたが、不況克服のため、ルー ズベルト、アメリカ産業界には欧州大戦の拡大を企図し、それによりアメリカ経済の復調を図ろうとする狙いがあ った。また、内心シナ市場への参入のため邪魔な日本を徹底的に叩こうと考えていた。日本の政治指導者は、その ことを正確に把握していなかった。 英(チャーチル)は米(ルーズベルト)に強い働きかけを行い、独ソ開戦を実現させるとともに、米の (ヨーロッパ戦線における)対独参戦、(日シ戦争における)シナへの支援を求め続けた。 40 年 11 月 13 日 英国がシンガポールに東亜軍司令部を開設し、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパ ルス」を派遣した。マレー半島、ビルマ、香港をその指揮下に置くとともに、オーストラリア、ニュージ ーランドとも連携して軍備を拡張した。 これは9 月にロンドンで開催された英米参謀会議の結論に基づくものであった。この会議でイギリス はアメリカにシンガポール防衛のため、アメリカ太平洋艦隊の主力艦数隻の派遣を要請したが、アメリ カはこれを拒否し、地中海への派遣による支援を約束した。 同年11 月 30 日 アメリカが重慶国民党政府に 1 億ドルの追加支援(借款)を決めた。これは、訪米した宋子文 の要請を受け入れたもので、日本に対する敵意を露わにしたものであった。同時に戦略的には、日本・ド イツに対する二面作戦を回避する要素もあった。 なお、アメリカは重慶政府に対し20 年 9 月 2 日=日本の降伏文書調印の日=までに 14 億 6945 万ド ルの物資援助を行った。武器貸与は8 億 7 千万ドルにのぼったと言われる。 同年12 月 アメリカが太平洋艦隊の主力をハワイに集結した。また、対日輸出禁止品目の範囲を拡大した。 同年12 月 14 日 アメリカ「外交問題評議会」に設けられた「戦争と平和研究」プロジェクトが5つの研究グル ープの代表と政府の代表者に呼びかけて、対日策を討論した。→41 年 1 月 15 日に文書を発表 同年12 月 29 日 ルーズベルト大統領が国民に時事問題を話しかける「炉辺談話」の中で、「アメリカは民主主義 の“兵器廠”とならなければならない」と宣言した。 この太平洋艦隊のハワイ集結は、理に合わない措置であった。本土を防衛するにはハワイは遠すぎる し、日本を牽制することも、威嚇すること出来ない。その上、物資の補給にカネがかかるし、島内の石油 備蓄基地を破壊されたら、艦隊は移動できなくなる。このため、リチャードソン太平洋艦隊司令長官は 反対の意を表明し、これにより、翌年2 月解任された。 41 年 1 月 1 日 スチムソン国務長官がニューヨーク・タイムスに寄稿し「もし、アメリカが日本によるシナにお ける戦争をやめようとするならば、日本が戦争を行うに必要としている資材や資源の供給を停めること だ」と書いた。 1941 年(昭和 16 年)1 月 15 日 アメリカ「外交問題評議会」が「アメリカの極東政策」のタイトルで日本の東南アジア進出を阻止する

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206 ことがアメリカの国益に適うとして次の3 点を提案し、「それらはイギリスの権利を奪うことなく、或い はイギリスが対独戦に負ける場合でも大西洋で同国を無力にすることなく、日本を抑制できるであろう」 と結論づけていた。 1.日本軍をシナに釘付けにするため、蒋介石政権に可能な限りの援助とくに戦争資材を与える。 2.東南アジアの防衛は海軍と空軍を派遣することにより、またイギリスとオランダとの間で同地域の 防衛に関する協定を結ぶことによって強化すべきである。 3.日本への戦争資材の供給を削減することによって日本を弱めるべきである。それは、日本の戦争努 力を深刻なまでに妨害できるであろう。 外交問題評議会は、アメリカが国際連盟を主唱しながら加盟できなかった苦い経験を踏まえて、1921 年に財界、 学会、法曹界の有力者が立ち上げた団体で、ルーズベルト大統領誕生後、国務省トップも関与して政府に具体的な 提言を行うようになった。 これらアメリカの対抗策により、「三国軍事同盟によってアメリカから妥協策を引き出す」という松岡 や陸軍側の目論みは完全に打ち砕かれたことが明らかになった。 3 月 11 日 アメリカが重慶国民党政府への全面的軍事援助を目的として「武器貸与法」を成立させた。 アメリカとしては、アジアにおいても日本とシナとの間の戦火の拡大を企図し、自国経済への波及を図 ろうとする狙いがあった。アメリカの軍需産業は戦争を望んでいたのである。 もし、シナ事変が一層大規模化し、日本が背後のアメリカを主敵として日米開戦となれば、三国同盟に よってドイツがアメリカに宣戦布告することになり、そうすれば、アメリカはドイツとの戦争を正々堂々 と行うことができ、不況も一挙に解決する――武器貸与法には、そのような遠望深慮があった。 ルーズベルトが欧州、アジアにおいて危機を拡大するよう進めた一連の施策については、共和党有力議 員ハミルトン・フィッシュの証言がある他、C.タンシルが『裏口から戦争へ』において同様に指摘した。 また、C.A.ビーアドといった歴史学会の大家もその説をとっている。 (対英米戦略構想) 15 年(1940 年)11 月上 中旬に予定された独ソ外相会談を控えて、リッベントロップ独外相が松岡外相に、三国同盟にソ連を加 えた「日独伊ソ四国協定」の腹案を提示。松岡外相は直ちに同意の回答。 当時ドイツ軍は東部戦線においてモスクワ近郊に迫っていたものの苦戦に陥っていた。12 月 12 日には、同軍は 東部戦線からの総退却を開始した。このことを日本政府は察知できていなかった。 11 月 26 日~28 日 山本連合艦隊司令長官の統裁により、軍令部、連合艦隊、海軍大学校の関係者を動員して図上演習が実 施される。内容は、蘭印攻略作戦から始まって対英米戦に発展する状況を実演研究するもの。 ・ 蘭印攻略作戦を実施すれば、対英米戦は不可避となるから、その覚悟と十分な戦備とを持たな い限り南方作戦に着手すべきではない。 ・ それでも開戦やむなし、ということであれば寧ろ対米戦を決意して比島攻略を先にするべき。 その所見を聞いた及川海相及び伏見軍令部長は全くの同感の意を表した。

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207 井上成美海軍中将が、従来から伝統的作戦方針としてきた漸減邀撃作戦に基づき、西太平洋上の島々を 徹底して堅固な要塞にしてそこを拠点に配備された航空兵力を主軸として米軍を迎え撃つことを主張し たが、退けられた。 このときから、海軍は随時随処に米艦隊を求めて攻勢をとる作戦方針に転換した。 以降、海軍は「英米絶対不可分論」に思想統一され、戦略面でも局地的南方出兵作戦から、対英米蘭全 面戦争作戦に変質し、山本連合艦隊司令官は対米開戦の劈頭、真珠湾を攻撃する作戦を練り始めた。その 目的は、アメリカ太平洋艦隊を移動不能とすることにあった。 山本連合艦隊司令長官がハワイ・真珠湾攻撃の着想を得たのは、同年4 月の海軍合同訓練の際であった(参謀長・ 福留繁「史観・真珠湾攻撃」)。演習上では、ハワイへの空母集中使用と九七式艦攻による航空雷撃が成功したと認 定されたからできる。しかし、太平洋を東進し、随処に米艦隊を求めて攻勢をとるには、中部太平洋の島々の軍事 基地に燃料保管庫、修理工場、乾ドックや航空機用曾設備などの施設が必要であるが、それらは、全く整備されな かった。 山本長官はそれまでアメリカとの戦争はさけるべきだと主張してきた一人だった。しかし、戦争が避けがたい状 況になってきたなかで、対米戦争は軍艦よりも飛行機の戦いになると予想し、空母と戦闘機よりなる機動部隊によ って、積極的な作戦を展開すべきだと考え、真珠湾攻撃作戦を第 11 航空戦隊参謀長の大西瀧次郎少将に航空攻撃 計画の作戦立案を依頼した。 [漸減邀撃作戦について] 海軍が元々練り上げてきた漸減邀撃作戦は、国力に劣る日本がアメリカと互角に戦うには、守備範囲を限定し、 攻めてくる敵を迎え撃とうとするもので、海軍が長年伝統的に練り上げてきた作戦であった。防御が主眼であっ たから、この作戦に基づいて建造された艦船・航空機は基本的に列島の水際防御を目的とし、このため艦船は太平 洋の風浪に耐える航洋性は高いが、船・航空機ともに航続距離が短いことを特色とした。 原型は、第一次大戦で欧州に派遣され、U ボートの威力を目のあたりにした海軍の末次信正が描いた。国防圏を 周辺海域(本土と蘭領インドネシアを結ぶルート)に限定し、できるだけ敵を引きつけて迎え撃ち、潜水艦や水雷 艇の奇襲によって敵の主力艦を1 隻、また 1 隻と脱落させてゆくという作戦。 本土から遠く離れた太平洋に戦域を広げないことはもちろんのこと米国本土への攻撃を考えず、近海で敵に大き な損害を与え、勝敗を五分五分に持ち込むことを旨としていた。 しかし、図上演習では、何度行っても米海軍有利で終了した。この結果からは、国としては戦争抑止力の向上や 国力向上の可能性を追求するべきであったにもかかわらず、海軍条約派は軍備について実戦か外交的屈服の二者 択一論でしか考えていなかった。 連合艦隊が真珠湾攻撃という長駆東進作戦を行う場合に必要となる機動部隊の編成は、従前から進めてきた全体 の計画を崩壊させるものであった。山本はすでに航空本部長在任時に長駆攻撃が可能な九六式陸攻、九七式艦攻、 零銭の開発を指示していた。 12 月 鹿児島県錦江湾において、真珠湾攻撃にむけ搭乗員の訓練や水平爆撃用の艦砲徹甲弾流用実験並びに 浅海用航空魚雷の研究が開始された。

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208 16 年(1941 年)1 月 7 日 山本連合艦隊司令長官が及川海相に送った意見書のなかで「日米戦争において第一にするべきことは、 開戦劈頭、敵主力艦隊を猛撃撃破して、米艦隊及び米国民の士気を阻喪させることだ」として、攻撃を行 う航空艦隊司令長官に就任したいと希望した。ただし、ハワイ諸島を占領することは全く考えていなか った。 この主張は、その頃のアメリカの「ファイティング・スピリット」を見誤ったものであったうえ、従来の伝統的 な西太平洋迎撃戦略(漸減邀撃作戦)を放棄するものであった。作戦的にもハワイ、ミッドウェーとも、日本から 遠距離にある分、機動部隊同士の戦いになった場合、勝利を得るのは至難のことであった。 なお、この「真珠湾攻撃」情報は、早くも同月27 日にはアメリカの情報網に察知され、ハル国務長官が当該情報 を知ることとなった。 その後、「航空戦力さえ整備すれば対米戦争恐るるに足らず」と、機動部隊の編成及び真珠湾奇襲及び後のミッド ウェー作戦を主張し、軍令部の猛反対に対しては「ならば長官を辞める」と脅迫して、これらの作戦を強行した。 山本司令長官の独断専行は真珠湾攻撃にとどまらず、空軍の創設にも反対して、これを潰してしまった。理由は、 当時は陸軍が圧倒的に多くの航空機を保有していたので、空軍が創設されても陸軍の思うようにされてしまうとい う懸念にあった。 1 月 8 日 陸軍省が陸軍大臣東條英機の名で「戦陣訓」を示達。 本訓(其の二)第八「名を惜しむ」において示された「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、 いよいよ奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の 一節は、日本軍に従前からあった降伏否定の考え方を一層強化するものとなった・・・[捕虜になるよりも 玉砕することを選ぶ]。 この戦陣訓は、南寧作戦の後、15 年 3 月に教育総監部本部長に任ぜられた今村均が、その作成を主宰して作ら得 た。策定の理由は、支那事変勃発以来、現地将兵に規律違反、風紀の乱れが目立つともに非違行為が以前とは比較 にならないくらい増大したからであった。そのため、軍上層部は何とか手を打たねばと真剣に考えるようになり、 担当の教育総監部、陸軍省軍務課が軍規、風紀粛清にとりかかったものであった。 本訓(其の二)第八の規定が作られた背景には日露戦争の際、投降兵が多かったことに由来する。 当時の兵は捕虜となったとき、どうするかについての教育を受けていなかったため、秘密事項でも喋ってしまっ た。そこで投降を少なくするためにつくられたが、「捕まるくらいなら死ね」という働きをすることとなった。 しかしこの戦陣訓がつくられたことにより、日米開戦後は、もう戦う術もないないとなった時点において、投降 するよりも死を選んで多くの有為の軍人の命が失われた。 また、捕虜に対する扱いも従前と比べて著しく配慮を欠くこととなった。 今村は作成の過程で詩人・小説家の島崎藤村の意見を聞き、できるだけ取り入れようと努めた。できあがった戦 陣訓は19 の項目からなり、3千字に近い長文となったうえ、文章も難解であった。今村は後に、「陸軍各方面の意 見を、その良いと思われたものを取り入れすぎ戦場における完全な教訓書たらしめようとしたため、遂に重心を失 ってしまった」と反省している。 2 月 12 日 前年 11 月に駐米大使に就任した野村大使が、着任早々ハル国務長官を訪ねたが、僅か 4 分のそっけな

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