45《Le mmancier es允,de tous1es hommes,ce1ui quiressemb1e1e p1us査Dieu:i1est1e
singe d−e Dieu.n cr6e d−esδ虹es vivants,i1invente des destin6es,1es tisse d一 6v6nements
et d−e catastrophes,1es entrecroise,1es cond−uit主1eur terme.》0C■,lP.751.56
は被造物の自由と造物主の自由とを融和することである。小説の主人公は自由でなけ ればならない 神学者が人間は自由であるという意味において。小説家は勝手に彼 らの宿命に介入してはならない(マルブランシュが、神の意志は個人の意志を通して 世界に介入することはないと言っているのと同様に)。しかし、他方、神も同様に自由 でなければならない。その被造物に対して無限に自由に働きかけなければならない。
そして小説家は、その作品に対して、芸術家の絶対の自由を享受しなければならない46。
モーリアックは小説家が創り出す作中人物が生きた存在であり、小説家によって動かされ るのではなくむしろ小説家を引っ張っていく存在であるべきだと考える。それゆえ作中人 物は小説家の意図する通り行動せず、小説家に対して反抗さえする。小説家の願い通りに、
作中人物は動かないのである。
一方で、小説家は作中人物につき従うのであるが、ある自由を保障されている。小説家 は作申人物が彼らの願いに抵抗するよう行動しても、彼らの姿を見守る自由も有している のである。これは、神が人間に対して有する自由と同様である。神は、人間が罪を犯して どんなに堕落した存在となっていっても、見守る自由といついかなる時においても手を差 し伸べる自由を持っている。つまり小説家と作申人物、神と人間の関係は相似していると モーリアックは考えているのである。生きた存在として作中人物も人間も自由である一方 で、小説家や神は彼らがどんな罪を犯しても人生に過度に介入することなく、ただ見守る のみである。
故に『テレーズ・デスケルー』においてテレーズは自由であり、モーリアックも神のよ うに彼女の人生に過度に介入してはならない。しかレ実際モーリアックは、作品中でテレ ーズの自由を完全に保障することができているのだろうか。例えば『夜の終わり』でテレ ーズがパリからアルシュルーズに戻る出来事は、彼が小説家として彼女の人生を操ろうと
して生じた出来事と言えないだろうか。
〔…〕十五年経って、あの犯罪を思いついたこの居間に、自分を連れ戻すのに十分強 い力に自分は盲目的に従っていくしかないのだ47。
46《Au risque d−e para並re unpeu sacri1さge,osons d−ire que1es d−i伍。u1t6s qui se
pr6sentent au romancie互dans ses rapPorts avec sespersomages,ressemb1en亡
beaucoup主。e11es que1es th6o1ogiens de toutes1es con危ssions chr6tiennes ont essay6de r6soud−re d.ans1es rapports d−e Dieu avecrhomme.Icicomme1主i1s a躰d−e conci1ier1a 1ibert6d−e1a cr6ature et1a−1ibert6d−u Cr6ateur.■血ut que Ies h6ros d−e nos romans soient hbres−au sens o亡un th6o1ogien d.it que1 hom1皿e est1ibre;i1血u亡que1e romancier
n 奄獅狽?qeme pas arbi虹airement d−ans1eurd−estin6e(ae㎜6me que,se1onMla−1ebranche,
Ia Provid−ence n intervient pas d−ans1e mond−e par d−es vo1ont6s particuhさres).Mais,
d au枇e pa批,iI血ut aussi que Dieu soiHibre,in丘niment1ibre d一 agir sur sa cr6ature;et i1曲ut que1e romancierjouisse d−e1a1ibert6abso1ue d−e1 artiste en血。e d−e son ouwage.〉〉
乃ゴ4pp.766−767.
47《 〔...〕 eue n avait=P1us qu 査suivre en aveug1e une vo1ont6assez puissante pour1a
『夜の終わり』でテレーズは過去の事件の罪が裁かれていないために、何者かが自分を裁 きにくるのではないかと思い始めて周囲を信用できなくなり、次第に精神が錯乱状態とな っていく。そして彼女は、マリとともにアルシュルーズに戻ると言い出す。確かな判断を 下すことができないテレ」ズは、昔逃げ出したいと感じていた土地、アルシュルーズヘの 帰還を決断するのである。パリでの生活を容易に捨ててアルシュルーズヘ再び戻るこの出 来事、パリからアルシュルーズヘの移動は、テレーズ白らが言い出したことであるが、精 神が錯乱している彼女は第三者の意志によるものだと思い込む。モーリアックは、テレー ズ自身が言い出したアルシ丘ルーズヘ戻ることを、第三者の意志によるものと彼女に内的 独自の中で言わせている。モントゥを傷つけた出来事のように、ギ運命」内出来事にしてい
るのである。またテレーズが誰かの意志によって動いていると思い込むこの出来事は、彼 女が登場人物としての自由を保障されていないような印象を受ける。モーリアックは彼女 の人生に介入し、彼女をアルシュルーズに戻させたのではないだろうか。この疑問につい ては、再び結論で述べる。
7 テレーズの死
アルシュルーズに戻ったテレーズは、「告解の準備」で欲した解放感が得られず最後まで 苦悩し続ける。そして彼女を最後まで苦しめるのは、彼女の心の奥底で火のように存在す る傭念」である。
いけない!この喜びは遠ざけておかなければいけない!こんな恐ろしい喜びは。まる で情念というものに対する未払い金がまだ残されているかのように、こうした心の思 いは、死の戸口まで来て、我々を悩ます。そして身体がほとんど朽ち果てようと、我々 をその重圧でひどく打ちひしぐ……48。
アルシュルーズの家にマリとともに移り住んだテレーズは、心身ともに衰弱しているため マリに介護される。ある目マリはアルシュルーズに訪れているジョルジュと出会い、彼の テレーズに対する愛情を知り、そのことを彼女に伝える。ジョルジュに対する恋愛感情な
ど存在岬)・と碑坤刈辛葎カいの郎朗印竿れてい年与に帯して喜び
を感じている。ジョノレジェに対する情欲によって引き起こされるr情念jは、抑えようと しても生じ、彼女を悩ますのである。
ramene巧aprさs quinze am6es,d−ans cepe砒saIon o亡soncrime缶t congu.1〉0C皿,p.192.
48〈〈Non!q−ue ce批e joie s 61oigne d一 e1Ie!cette monstrueuse joie.Ces coeurs qui nous harcさ1ent encore aux portes d−e1a mort,comme si un arri6r6d−e passion nous6tait d一血,et;
qui nous a㏄ab1ent d−e tout1eurpoid−s,a1ors que d−6帖nous sommes査d−emid−6tmits...》
乃え4p.203.
58
ところで1926年から宗教的危機に陥っていたモーリアックの苦悩とそれを克服したとき の心一晴を描いた『キリスト教徒の苦悩と幸福』で、彼は「情念」について以下のように述 べている。
〔…〕罪人は、苦しみこそ償いだと信じ込むのだ。そもそも愛は、たとえ幸福であっ ても、苦悩の枯れざる泉ではないだろうか?情念は苦しみを意味する。だからキリス ト教徒は、毎瞬おのれの愛を償っているのだという感情を抱いている。絶えず増大し、
尽きることのない苦悩の膨大な蓄えを自由にすることができるのである49。
罪ある人馴ま「情念」によって苦悩し、そしてこの苦悩こそ罪の償いだと信じる。「情念」
による苦悩が、罪の償いだと思い込むのである。そして彼は、苦悩について次のように考
える。
もしあなたがたが己の罪を愛するなら、罪によって十字架の苦しみを受けようと、何 の役にも立つはずはない。そして、あなたがたの涙がすべて空しいものなる。これが 捷である。しかし、この捷に打ち克って、情念の虜となったキリスト教徒のうちには、
己の苦悩と愛によって償われるのだという危険な幻想が生き残っている50。
自己の罪を愛する人がその罪によって苦しむこと、「情念」に囚われている人が苦しむこと についてモーリアックは厳しい態度をとる。これらの苦しみは決して償いにならないと彼 は考えるのである。『テレーズ・デスケルー』の序文でモーリアックは、rテレーズよ、苦 悩がお前を神に引き渡すことを願っている〔…〕51」と述べていたが、テレーズが多様な欲 やジョルジュに対して抱く情欲により生じる「情念」による苦悩は償いとはならず、彼女 を「神に引き渡すこと」を可能にする苦しみではない。
実際に作品に描かれるテレーズの苦しみ、彼女の苦しみに対する向き合い方はいかなる ものだったのだろうか。
もしも本当に苦しむことが好きなのなら、自分はこんなに深く毛布の中にもぐりこみ はしないだろう。少し毛布を払いのけてみる。数秒しか寒さに体をさらしていること
・・べ/...〕凶帥・せ岬・iゆ・1・…陣卿…¢蜘mpt血・・;・4r・m・叫mεm・h・…叫
n Ust.i une source intarissab1e d−e d−ou1eurs?Passion signi丘e sou赴ance.Un chr6tien a 1e sentiment d一 e理ierson amour査。haque seconde.I1trouve註sa disposition un immense capita1d−e d−ou1eurs sans cesse a6cm etquine s 6puise pas.〉〉SB,p.32.
50〈〈Si vous aimez votre p6ch6,i1ne vous sert d−e rien d. 6tre cruci丘6par1ui;et toutes
vos1armes sont vaines:te1Ie est1a1oi.lMais,p1us危rte que cβ仇e1oi,suエvit chez1echr6tien en proie aux passions1a p6ri11euse i11usion d一 さtre rac11et6par sa d−ou1eu巧par
son amo皿1》月払P.33.51《J aurais vou1u que1a d−ou1eu馬Th6rさse,te1ivre査Dieu;〔...〕.〉〉0C1I,p.17.
ができない。それから、もっと長くさらしていることができるようになった。競技で もしているように。十分に熟慮を重ねた意志から出発したのではないが、彼女の苦痛 が、こうして彼女の専心の対象となり、一講が知るだろうか?一この世における 彼女が存在する理由になっていることを52。
『テレーズ・デスケルー』で監禁されているテレーズは衰弱して横になっていて、開けっ 放しにされた窓から冷気が入ってきても立ち上がって窓を閉めに行こうとしない。それど
ころか、体を冷気にさらすことによる苦痛によって自分の存在を見出している。この場面 における彼女の苦しみは、「情念」による苦悩ではなく身体的苦痛であるが、テレーズは苦 しみにおかれている状況から脱するための努力をせず、その状況に酔いしれている。彼女 は苦しみに置かれていることに満足してしまっているのである。また『夜の終わり』にお いて、「私たちの苦しみは、それ自身一つの賛沢なのだ53」とテレーズは考えている。彼女 は苦しみから逃れようとせず、苦しむことを「賛沢」だとまで感じていて、苦しむこと自 体を愛してしまっているのである。
ところで「情念」による苦悩が神の償いとはならないことをモーリアックが述べた小論 集『キリスト教徒の苦悩と幸福』の完成は、モーリアックの宗教観の変遷とともに複雑な 経緯をたどっている。この作品は、「序」、「罪人の苦悩」、「キリスト教徒の幸福」、「再び幸 福について」で構成され、「罪人の苦悩」は1928年にボシュエ(Jacque・B6㎡gneBoussuet,
1627−1704)の『説教集』と晴情欲論』の注解として書かれた『ボシュエの情欲論の補遺』
と題され刊行された。その後この作品が「キリスト教徒の苦悩」と改題され、NRF誌に改 めて記載される。記載された作品の中からモーリアックが当時陥っていた宗教的危機を見 出したシャルル・デュボス(Char1esDuBos,1882 1939)は、モーリアックに対して助言 する。そしてモーリアックはデュボスの霊的指導者であったアルテマン師により厳格な信 仰指導を受けることで、宗教的危機を克服する。1931年に「キリスト教徒の苦悩」は「罪 人の苦悩」と改題され、宗教的危機を脱したモーリアックが書いた「キリスト教徒の幸福」、
「序」と「ふたたび幸福について」を加えて『キリスト教徒の幸福と苦悩』を完成させる。
そのためこの作品の申に我々は、モーリアックが宗教に関して苦しんだ時期と、1927年 に刊行された『テレーズ・デスケルー』と1935年に刊行された『夜の終わり』の間におけ る彼の宗教観を垣間見ることができる。この作品でモーリアックは、肉体を持って生まれ た人間がキリスト者であるとき、肉欲と神に対する愛の狭間で味わう苦しみについて述べ
ている。
52《Th6rさse songeait que sieue e枇aim6主sou箇虹e11e ne se箭tpas sipro血ndくmen士 en危nc6e sous ses couvertures.E■e essaya de1esrepousserunpeu,neputd−emeurerque que1ques second−es e理。s6e au丘。id一、lPuis,e11e y r6ussitp1us1on鉢emps,comme parjeu.
Sans que ce fat se1qn une vo1ont6d6hb6r6e,sa d−ou1eur d−evenait ainsi soI1occupa伍。n et
−qui sait?一sa raison d ε位e au mond−e.〉〉OC1I,p.92.
53《Notre dou1eur二m6me est un1uxe.》0C皿,p.109.
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