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それでは実態はどうだったのか?藤木久志氏によれば、一六世紀の日本人は武士、庶民 の区別なく大小の刀(刀と脇差)を身に帯びていた。男子が帯刀することは成人の証であ り、村人が鳥獣の駆除や治安の維持に武力を行使することは「自検断」として広く認めら れていたからである。また豊臣秀吉の刀狩令は帯刀の権利を原則として武士のみに限った が、村に武器があることは禁止せず、百姓・町人が脇差を差すことも認めていた。また鉄 砲は時代と共にかえって増加する傾向にあったという。

だが当時の日本人はこれらの武器を使うことを自ら抑制した。そのきっかけは秀吉の出 した喧譁停止令(一五八七年頃)であり、戦国時代の苛酷な内戦と武力の応酬に疲れた人々 は、紛争解決の手段として武器を使用することを封印したという。さらに徳川幕府や諸藩 もこの新たな慣行を尊重し、百姓一揆の場面でも一揆側が武力を行使しない限り発砲しな かった。つまり江戸時代の日本は武士の時代でありながら、自律的な武器制御の作法を持 った社会だったのである

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日中両社会の比較という視点から見た場合、上記の事実は改めて日本が社会変動の幅が 小さく、コンセンサスの取りやすい社会であったことを教えてくれる。近代以前から日本 は明文化された規定がなくても様々な社会的規範が存在し、それらを遵守することが求め られる社会であった。またそれらの不文律は「ウチ」つまり日本人を対象としたものであ り、 「ソト」である外国人には必ずしも適用されなかった。中国人が日本社会とつき合うこ との難しさは、こうした「見えないルール」にあると言えるだろう。

(b)移住と社会結合、民衆宗教をめぐる比較

ここまで本章では日中両社会の特質として、身分や社会階層をめぐる流動性の違いにつ いて検討した。本節は空間的な流動性すなわち移住をめぐる差異から話を進めたい。

すでに述べたように、中国社会は漢民族の周辺地域に対する移住によってその領域を広

げてきた。とくに華南諸省への移住は、華北が王朝交替や北方民族の進入によって混乱す

る度に入植地の開発を伴いつつ進められた。例えば江浙地方の開発は魏晋南北朝時代に始

まり、五代十国の諸王朝は揚子江下流域に大規模な水利施設を構築した。時代が降るにつ

れて漢族の入植先は福建へ向かい、明代には広東の珠江デルタ地区の開発が行われた。移

住の波は内陸の各省にも及び、明清時代には江西から両湖(湖北、湖南) 、四川および雲貴

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長い間六五○○万人前後で推移し、一六世紀頃にようやく一億人を超えたに過ぎなかった。

だが温暖な気候と政治的安定が重なった一八世紀には、人口も一億五千万人から三億人に 倍増した。これらの人口を吸収したのが従来手つかずであった山間部や辺境の少数民族地 区であった。また開発が頭打ちとなって余剰人口に苦しんだ福建と広東の人々は、かつて フロンティアだった時代に培ったノウハウを生かして海外への移住を試みた。東南アジア を初め世界各国に散らばる華僑は多くがこの地域の出身であった

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いっぽう日本はどうであろうか。歴史人口学の成果によると、一六世紀の日本の人口は 一五○○~一六○○万人であったが、一七世紀に新田開発や都市の成長によって三○○○

万人に急増した。しかし中国で人口爆発の起こった一八世紀には、増減をくり返しながら も三○○○万人の水準で停滞した

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。また移住という視点から見ると、江戸時代の日本 も都市や他の村へ奉公に行くなどの人口流動が盛んであった。だが少なくとも中国のよう な大規模な移民活動は生まれなかった。

これらの違いはどのようにして生まれたのだろうか?両国の地理的サイズという問題 を除いた場合、まず手がかりとなるのは相続制度をめぐる差異であろう。江戸時代の日本 とくに東日本は長子(一子)相続であり、跡取りとなった長男が財産の大部分を相続する ことで直系家族である「家」の存続を図っていた。残りの息子たちは奉公に出るか、新た に屋敷を設定して「分家」となり、嫡系の「本家」に対して従属的な関係を結んだ

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だが奉公先の都市とくに一八世紀の江戸は男性が過剰な社会(男性三二万人、女性一八 万人)で、結婚のチャンスは少なかった。また衛生状態の悪い都市の死亡率は高く、低所 得などの原因で出生率も低かったため、 「蟻地獄」と言われるほどに農村人口を吸収し、全 体の人口増加を押しとどめる効果を果たした。また農村に残って分家となった人々は保有 する耕地が少なく、他の下層農民(耕地を持たない無高や小作人)と同じく家系が断絶す ることが多かった。結婚年齢が遅く、貧困のために意図的な出産制限(間引き、子返し)

をすることが多かったためである

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。結果として農村の余剰人口は常に淘汰され、大規 模な移住が行われる必然性もなかったと考えられる。

これに対して中国は徹底した均分相続であった。中国では子供夫婦がそれぞれ親から離

れて自立した生計を営むことを「分家」と呼ぶが、分割にあたって嫡子かどうかの区別は

なく、耕地以外の財産や自立以前にかかった教育費など細かな部分に至るまで取り分が均

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世代が降ると共に一家族当たりの相続分は減少した。言いかえると中国の相続制度は常に 移住による新たな耕地の獲得を義務づけられていた。

さらに香港新界でフィールドワークを行った文化人類学者の瀬川昌久氏は興味深い指 摘を行っている。広東の宗族では長期にわたり海外へ出稼ぎに行った人間が、宗族成員と してのメンバーシップを失わないという

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。彼らは往々にして家族を故郷に残し、海外 からの送金によって宗族への義務を果たしていると見なされるためである。また中国の宗 族は村落をはるかに超えた規模で形成されるのが普通であった。

これに対して日本では同族の範囲が極めて狭く、同じ村に継続的に住み、本家・分家と して庇護と奉仕の関係を築いた者の間に限定された。村落外へ転出したり、他村で家を創 出した者は同族の一員と見なされなかった。元々日本では「ムラ」すなわち村落組織の結 束が強固で、共有地である入会地を持ち、用水の管理や冠婚葬祭、宗教行事も村落を単位 に行われたからである。また日本では「村八分」という制裁措置が存在したが、村落内で の社会関係を喪失することは最も忌避すべき事態と考えられていた。つまり日本では父系 原理の拡大が居住によって阻止され、一度外地へ出ればメンバーシップを失うために後戻 りが利かなかった。日本は中国に比べて移住することのリスクが遥かに大きな社会だった のである

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こうした移住をめぐる日中間の差異は、人々が作り出す社会関係や行動様式にも大きな 影響を与えた。国内外に関わりなく、中国人の移民活動は多くが宗族や同じ方言を話す同 郷人のネットーワークを頼って行われた。移民たちは入植先に会館、公所と呼ばれる同郷 団体を作って相互扶助を行うと共に、特定の神々を崇拝してその結束を強化した(横浜中 華街にある関帝廟はその一例である) 。また会館は特定の職種を独占する商工業ギルドでも あり、移民たちは会館を通じて身元を保証され、商業活動や入植事業について情報を得る ことができた

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また中国では移民たちが成功のチャンスを広げ、没落の危険を回避するために多様な事 業を兼営することが行われた。羅香林氏は移民とくに客家の特徴として「農工商学仕兵な ど種々の異なる業務を兼営する」 ことを挙げ、 「客人の家庭は複式組合とも言うべきもので、

専門の家業はなく、一二の純粋な商家や工の家、或いは官僚の家柄を探すのは容易ではな

い」

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と述べている。こうした傾向が生まれた理由として、科挙制度の影響によって社会

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