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本章の内容を要約すれば次のようになる。日中の政治体制をめぐる比較の中で、まず取

り上げたのは皇帝制度と天皇制であった。そして中国の皇帝が「一君万民」の集権的な王

権であったのに対して、日本の王権は複合的で、長期にわたり二重政権が続いた事実を指

摘した。この違いを生んだ分岐点は天命思想の受容にあり、中国の皇帝は易姓革命の競争

原理ゆえに社会との間に緊張関係を持ち、ライバルとの激しい権力闘争の中で自らの正統

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時代にも引き継がれ、王権の重層性ゆえに政権交代に伴う社会的なコストを抑えることに 成功した。

次に本章では古代の行政・司法制度をめぐる日本と唐の比較を試みた。そして日本の班 田収授法、唐の均田制は共に中国古代の井田法を出発点としていたが、均田制は広大な国 土ゆえに全国一律に運用されず、永業田によって一定の土地私有を認めるなど幅広い選択 肢を持っていた。これに対して日本の班田収授法は土地公有制の理想を律儀に実現しよう とした結果、かえって融通の利かない体制を作ったことを指摘した。また律令体制は後の 日本人の自己認識に大きな影響を与え、 「イネを作る均質な単一民族の島国」という日本イ メージを作り出した。実際には東西の日本は中国の南北と同じく、フロンティアの開発を 通じて異なる特徴を持つ社会であった。だが中国に比べて社会変動の幅が小さかった日本 では、社会の多様性よりも均質性が強調されることが多かった。

続いて本章は一○世紀以後の日中両社会の変化について、それが現在の両国社会の差異 を生み出した直接の要因として検討を加えた。日本と中国、朝鮮半島はいずれも武人政権 が登場したが、強固な政治組織と武人固有の社会的規範が生まれたのは日本だけで、中国 では科挙制度の発達により、皇帝のもとで文人官僚による支配体制が構築された。また権 力の世襲を認めない科挙は社会階層の流動化を推し進め、中国社会の隅々にまで激しい競 争原理を刻み込んだ。それは「イエ」による職能請負制が確立し、江戸期に士農工商の身 分制度が固定された日本社会との最大の相違点であった。

さらに中国の科挙は儒教的規範に基づく帝国の統合と価値観の一元化をもたらした。と くに朱子学が国家公認のイデオロギーとして社会に浸透したことは、知識人に国家運営の 担い手としての強い自負を育てると共に、中国文化そのものが政治と切り離せない体質を 帯びることになった。これに対して江戸時代の日本では儒者が政治に参与するチャンスは なく、儒学も一種の教養として人々に受け止められていた。ただし彼らの学問は特定の「正 統」に固執する必然性を持たない分だけ多様であり、それが幕末の新しい思潮を生み出す 柔軟さへとつながった。

いっぽう中国では科挙による社会階層の流動化と並んで、空間的な流動性の高さも特徴

の一つであった。とくに一八世紀に中国が人口爆発を起こすと、経済的先進地からあふれ

た人々は辺境諸省や海外へと移住した。こうした移住を可能にした原因は家族および相続

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れに対して中国は徹底した均分相続であり、世代が下るにつれて目減りする相続分を補う ために新たな耕地の獲得が要請された。また中国では外地に長く住んだ人間でも故郷の宗 族におけるメンバーシップを失わず、村落の枠を超えて同族結合が広がらなかった日本に 比べて移住することのリスクが少なかった。こうした社会慣行の違いが、世界中で活躍す る中国人華僑と日系移民との違いを生んだと考えられる。

最後に本章はこうした社会の流動性に関する両国社会の違いが、人々の意識とくに民間 宗教の思想に与えた影響について考察した。中国の民間宗教が説いた末劫思想はカタスト ロフの描写において日本の民間信仰とは比較にならないほどのリアリティを持ち、中国の 下層民衆が直面していた不安定な生活ぶりを示していた。また中国には転生した弥勒に補 佐される「真命天子」の新王朝という考え方があり、蜂起した宗教指導者が皇帝を名乗っ たり、会員たちに高位高官を約束する事例が多く見られた。だが王朝交替や身分の枠を超 えた階層間移動といった発想のなかった江戸期の日本では、一揆の参加者が王権の樹立を めざしたり、武士身分に上昇しよう試みることは起こらなかった。さらに中国の革命・改 革運動を理論的に支えた大同思想も、流動性の大きな中国社会に特徴的な現象であった。

人々は厳しい競争と大きな社会変動にさいなまれた一つの反作用として、平均主義に見ら れる超安定的なユートピア像を追い求めたのである。

このように考えると、改めて日本と中国は「同文同種」の隣人でありながら、二つの社 会の間には大きな差異が存在していることがわかる。むろんそれらの違いはアプリオリに 存在したのではなく、両国の歴史が長い年月をかけて生み出した特質と呼ぶべきものであ った。また古代へ遡るほど律令制など共通のベースが多かったのも事実であり、日中両国 が東アジア世界という一本の根元から枝分かれした二つの社会であると見ることも可能だ ろう。少なくとも本章の考察を通じて、日本と中国がそれぞれ尊重に値する個性をもった 社会であるという事実を明らかにできたのではないかと考える。

現在も日中関係について考える時、まず「小異を捨てて大同に就く」ことが重要だとい

う意見がしばしば聞かれる。それは手がかりとしては一面の真理かも知れない。だが本章

が日中両社会の差異を取り上げることで、両国の友好関係に水を差すことを意図していな

いことは理解して頂けたと思う。あらゆる人間が異なる顔を持つように、日本と中国とい

う二つの社会にも各々の特徴がある。社会の流動性が大きく、厳しい競争を勝ち抜くため

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いが、これら両国民のもつ気質の違いをふまえてこそ本当の意味でのパートナーシップを 確立できるのではないか。日本と中国が互いに相手の良さを知り、それを活かすことによ

って Win-Win の関係を築くことは決して不可能ではない。

元上海総領事の杉本信行氏は長年にわたる中国体験の中で、中国社会の持つ多面性と多 様性にたびたび驚かされたと述べている。また日本では中国人の気質について悪意に満ち た一面的な見方が多すぎると述べたうえで、中国認識において大切なのは各種データによ って観念的に中国を見ることではなく、机上の理論を排した現実に即して中国を理解する ことだと指摘した。さらに日中双方の人々が互いの状況を正しく認識することは、両国の 国益につながると訴え、 「日中は必ず理解しあえます」と自信をもって断言したという

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。 本章がどこまで中国の現実に即した議論をなしえたかは読者の判断に委ねる他はないが、

ここで言及した内容が日中の相互理解を深めるうえで少しでも役立つことを願ってやまな い。筆者の中国史研究を支え、中国社会を理解するうえで貴重な示唆を数多く与えてくれ た両国の友人たちに感謝して本章を終えたいと思う。

【註】

(1)たとえば内閣府大臣官房政府広報室の調査によれば、本格的な日中交流が始まった一九八○年五 月に「中国に親しみを感じる」と答えた日本人は 78.6 パーセントであったが、反日デモ後の二

○○五年一○月には 32.4 パーセントへ落ち込んだ。逆に「親しみを感じない」と答えた日本人 は63.4パーセントにのぼったという(家近亮子「日中関係の現状」(家近亮子等編『岐路に立つ 日中関係―過去との対話・未来への模索』晃洋書房、二○○七年)

(2)菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史 10、講談社、二○○五年、一二三頁、一 三○頁。

(3)例えば王敏氏は近年中国人が日本文化と中国文化の差異について研究するようになったと指摘し ている(王敏「日中相互認識のずれについて」『アジア遊学』七二号、二○○五年、七頁)。また 王勇氏は二○○五年に浙江商工大学日本研究所の行った中国人に対するアンケート調査の結果、

「日本は独特な文化を持っている」という解答が 44.5 パーセントにのぼったと述べている(王 勇「日本文化への視座―模倣と独創の間」(同四五頁)。

(4)司馬遷『史記』始皇帝本紀。鶴間和幸『始皇帝―史実と伝承のはざま』吉川弘文館、二○○一年、

八二頁。梅原郁『皇帝政治と中国』白帝社、二○○三年。

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