1937年に日中戦争が勃発し,1939年2月に日本軍は海南島を支配下に置き,1945年8月終戦までの6年 間余り海南島統治を行っていた。海南島は,軍事上において,日本の南洋進出の重要な拠点として,
経済上において,日本国内の工業において不足しているゴム,繊維作物等の熱帯軍需作物適地として,
また豊富な鉄,錫等の鉱産資源生産地として重要視されたため,日本軍による急速な経済開発が推進 された1。本章は,日本海軍が海南島占領に至る経緯・海南島農業に着目した理由から考察を始め,海 南島農業政策・農業調査および調査提言,農業開発実態の解明等を行ない,日本海軍による農業開発 が海南島農業に与えた影響を検討する。
第一節:海南島占領と軍政組織の設置 1.海南島占領の経緯と目的
近代日本と海南島との関係が本格的に始まったのは,1920年前後の大正南進期である。第一章第一 節にも述べたが,台湾総督府を主とする日本人は,海南島の樟脳・甘蔗等熱帯資源を注目し,日中共 同開発により,海南島を「日本帝国」経済圏内に収めようとしたが,中国における反日運動の高まり と日本における南進ブームの沈滞化により,失敗に終わった。
しかし,1930年代前半,日本国内外環境の変化により,海軍主導の「南進論」は再び高揚を迎える ことになった2。1936年広田弘毅内閣が成立すると,「南北併進論」を唱えた「国策の基準」が作成され,
「南進政策」は初めて日本の国策として打ち出され,南方地域は,日本の国防上,経済上において重 要視されるようになった3。
一方,その後の日中戦争の長期化に伴って,海軍は「中南支」,特に「南支」への介入姿勢を強めた。
その「南支」への介入は日中戦争の処理,即ち援蒋ルートの遮断のためになされたものであったが,
一方では南進の一環として位置づけられていた。その中,海軍の海南島攻略案は海軍の野心を疑う陸 軍の反対にあったが,海軍は海南島占領目的の中で日中戦争処理の側面を強調することによって,そ の占領の同意を陸軍から得ることに成功した4。水野明は,日中全面戦争が太平洋戦争へと拡大した重 大な要因は,南部仏印進駐に至る日本の南進であったが,南進の第一歩は,海軍の海南島攻略によっ て,踏み出されていたと指摘している5。よって,海南島は北進の延長線にある日中戦争と南進政策の 結節点にあった。
以上の経緯により,南進政策上における海南島の位置づけは非常に重要であり,戦略上での海南島 占領は必要であった。では,海軍の海南島統治政策について,1939年4月21日「海南島政務暫定処理要 綱」は
海南島ニ於ケル差当リノ政務処理ハ同島攻略目的ニ鑑ミ先ヅ作戦ノ遂行並ニ治安ノ確保ニ重点ヲ 置クト共ニ我国不足資源ノ急需ニ対応スベキ重要資源ノ調査及獲得ニ努ムルヲ目途トス。
経済指導ノ項(イ)経済ニ関スル諸施策ハ島民宣撫並ニ民生恢復上必要トスルモノノ他,為シ得 ル限リ現地調辨ヲ旨トシ之ヲ行フモノトス。(ロ)国防,経済上重要ナル諸資源ニ対シテハ極力其 ノ調査ヲ促進シ急需ニ応スル不足資源ニ関シ所在資源ノ獲得ヲ図ルモノトス。国防上必要ナル特 定資源ハ将来之ヲ確保シ得ル如ク考慮スルモノトス
と記し,治安の回復と日本内地の不足資源の補給は,海南島占領直後の緊要な政策であると指摘した。
そもそも,なぜ日本にとって資源の確保が必要であったのか。日本からみると,日中戦争勃発後,日 本はアメリカ,イギリス,オランダ等から経済的制裁を受け,従来南方地域から輸入してきた重要資 源(鉄・ゴム・繊維等)の導入は全く杜絶されるに至った6。一方,熱帯農業資源豊富な海南島は日中 戦争から太平洋戦争勃発までに日本支配地域の中で,重要な熱帯農業生産地であった。この二点を合 せて,海南島における熱帯農業資源の開発,農業政策の樹立は,海軍の軍政にとって必要不可欠なも のであった。即ち,海軍による海南島占領の経済的目的は,日本国内の不足資源を補足するため,海 南島でしか生産できない農業資源の確保であった。
2.海南島の軍政組織
日本占領下の海南島の組織機関とその変革は,おおよそ以下の通りである。
1939年4月21日,外務省,陸軍省,海軍省が策定した「海南島暫定政務処理要綱」により,「海南島 ニ於ケル資源産業ノ調査開発事業ノ経営並ニ土地ノ買収及利用」等の政務処理機関として,海口に外 務省,陸軍省,海軍省の派遣機関による三省連絡会議が設置された7。
1939年11月15日,海軍は三亜地方の軍政を担当する海南島海軍特務部を設置した8。
1940年11月30日,「日華条約」の締結により,海南島は「蒙彊北支以上の強固な特殊地域」として確 認され,本島に対する施設開発が殆ど日本の領土と見做して行われるようになった。海南島は表面上 は汪兆銘政府の主権が認められているが,財政,警察,教育上の実権は,日本に掌握されていた。即 ち,日本が最高顧問府のような形でこれらを把握する方針が定められた9。
1941年4月10日,海軍は占領地の治安警備を担当する(台湾総督府に匹敵する軍政機関の)海南警備 府を設置し,その下に傀儡政権の瓊崖臨時政府も設立した10。瓊崖臨時政府の政治範囲は,海口,文昌,
儋県,定安にあり,その他の大部分は海軍警備地域になっていた11。海南島海軍特務部は,海南海軍警 備府の司令長官の指揮に入れられて軍政事務を担当した。治安・警備を担当する海南海軍警備府の組 織構造は図2-1の通りである。
図2-1:海南海軍警備府の組織構造図
出所:水野明「日本海軍の海南島支配(2)1939年-1945年」『愛知学院大学教養部紀要』第49巻第3号,
p.226,2002年
海南海軍警備府(三亜)
第 十 五 警 備 隊
( 十 五 警
)
( 海 口
) 第
十 六 警 備 隊
( 十 六 警
)
( 三 亜
) 佐
世 保 第 八 特 別 陸 戦 隊
( 佐 八 特
)( 陵 水
~ 嘉 積
) 横
須 賀 第 四 特 別 陸 戦 隊
( 横 四 特
)( 黄 流
~ 北 黎
) 舞
鶴 第 一 特 別 陸 戦 隊
( 舞 一 特
)( 那 大
)
1941年5月25日の内令第九百四十七号「海南海軍特務部令」によると,海南島海軍特務部は,海南海 軍特務部と改称され,海南警備府の中枢機関として,海口に設置された。初代長官に文官総監の池田 清が着任し,その総監の下に官房,政務局(藤原喜代間),経済局(郡山義夫),衛生局(下條)の各 局計14課の軍政組織が設置された。農業関係の組織は,経済局の第一課(農林水産)と第七課(農業 水利,土地改良),地政局の第一課(土地)と第二課(地籍)があった。特務部内部の陣容が充実して おり,海南島は,軍政,民生,経済を海南海軍特務部が担当するという海軍統治の地域となった12。図 2-2は,軍政組織の海南海軍特務部の組織構造図である。
図2-2:海南海軍特務部の組織構造図
出所:水野明「日本海軍の海南島支配(2)1939年-1945年」(『愛知学院大学教養部紀要』第49巻第3 号,p.225,2002年)を参照して,筆者が作成。
上記の組織構成をみると,海南島は,日本の占領地でありながらも,領台初期の台湾総督府のよう な軍政機関まで設置され,あたかも「植民地」のようなものであった13。即ち,海南島は日本の占領地 であり,また「植民地」という重層的な特質をもっていた。さらに,経済局を含む各部門の人員は,
ほとんど海軍による海南島占領に協力的な台湾総督府から派遣され,海南島は一時「第二の台湾」(台 湾のように開発すること)のような存在となった14。
そのために,海南島の農業政策の制定・執行の機関は以下のように組織された。海南島占領当初,
海南島政策の制定機関である三省連絡会議(外務省,陸軍省,海軍省)の下に「海南島ノ農政関係ノ 企画,指導,監督及ビ事務一切ヲ管掌スル」15農政委員会が設置され,さらにその下に農政院という実 施機関が設置された。農政院の下には総務部,農務部,山林部等の10部門が置かれ,27名の要員が各 部門の事務を分掌し,技術的な支援業務にあたるように組織されていた。ただ,この農政院について は傍証史料がないため,実際には設置されなかったものと考えられる。この組織系統の詳細は図2-3を 参照されたい。1940年11月頃,農政委員会の自然消滅により,農業政策の制定・執行に関する職能は 前述の海南海軍特務部・経済局に移行された。
熱 帯医 学 研究 所
第 二課
( 防疫
) 第 一課
( 医務
) 植 物検 疫 所
産 業試 験 所
第 六課
( 物資 配 給)
( 物価 賃 金)
第 五課
( 企画
) 第 四課
( 専売
) 第 三課
( 交通 土 木)
第 二課
( 鉱産 工 業)
第 一課
( 農林 水 産)
第 三課
( 文教
) 第 二課
( 支那
) 第 一課
( 政務
) 第 二課
( 文書 会 計)
第 一課
( 秘書
) 海南警備府
海南海軍特務部(総監)
官房 政務局
衛生局 経済局