第一節:建国後の農業発展過程
1945年海南島は再び中華民国政府の管轄下に置かれたが,翌年の国共内戦勃発により,同島の経済 開発はほぼ空白の5年間を経過した。1950年5月1日,海南島は中国人民解放軍によって,中華民国政府 の統治下から解放された。同島に海南軍政委員会という最高行政機関が設立され,広東省の管轄下に 置かれていた。1988年海南省成立まで,海南島の最高行政機関は以下のような変化があった。
海南軍政委員会(1950年5月上旬~1953年末)
広東省人民政府海南行政公署(1951年4月22日~1968年4月4日)
広東省海南行政公署(1955年3月26日)
広東省海南行政区革命委員会―海南地区革命委員会―海南行政区革命委員会(1968年4月5日~
1980年1月1日)
広東省海南行政区公署(1980年1月1日~1984年10月1日)
海南行政区人民政府(1984月10月1日~1988年4月12日)1
海南島の行政機関は,38年間に7回の変化を経て,国民経済恢復及び社会主義改造時期(土地改革時 期・三大改造時期),全面建設社会主義時期(人民公社時期),文化大革命時期,社会主義現代化建設 時期(十一届三中全会以降)を経過した。1952~1987年海南島工農業の生産値は,2.99億元から45.61 億元までになり,14.21倍に増加し,年平均伸長率は7.8%であった2。この発展過程では,海南島政府 は,経済政策を試行錯誤し,海南島の農業面貌を大きく変化させたのである。
1.土地改革時期 1.1 土地改革の過程
長い間に海南人民は封建制度に束縛され,生活が極めて貧困であった。海南島解放後,農村部での 封建的搾取制度を消滅し,生産関係を変革するために,海南区党委と海南軍政委員会は,海南区土地 改革の工作計画を制定し,3月19日海南区土地改革委員会を成立させた。同月,土地改革委員会は,「八 字」(清匪〈匪賊の討伐〉,反覇〈悪徳地主の清算〉,減租(小作料の減免),退押〈保証金の返還〉)運 動と土地改革試点工作を展開した3。
1952年春,海南島は文昌,瓊山,澄邁,瓊東,海口(郊外)等5県市の364郷を土地改革の重点対象 とし,全島の土地改革を促進しようとした。政府は,党の「貧雇農に頼り,中農と団結し,富農を孤 立させ,地主階級を打撃する」という方針を徹底的に遂行し,貧雇農を訪問し,地主の悪事を思い出 させ,農民の階級的感情を激化させることによって,貧雇農を中心とする階級的味方を組織した。こ の結果,5県市合計228735戸,828946人を階級評定し,その中,地主7814戸,32317人(3.4%),富農 3564戸,16415人(1.6%),中農61113戸,227599人(26.7%),貧雇農135414戸,489156人(59.2%), 工商業者,小土地貸出(経営)およびその他20830戸63479人(9.1%)であった。没(徴)収した土地 は348546畝(23353ha。1畝=0.067ha),穀物は436.9万斤(2184.5万kg,1斤=0.5Kg),一人の平均獲得土 地は1.06畝(0.07ha),穀物は59斤(29.5kg)であった4。
1953年1月海南区党委,海南行政公署は重点県と試点県の経験を生かし,全面的土地改革工作を展開 した。上記の重点県においても複査(再度の検査)を行なった。7月28日に海南区農村土地改革運動は 終了し,貧雇農はそれぞれ土地1.7畝(0.11ha)を分け与えられた。7月31日土地改革委員会は解散さ れた5。
1.2 土地改革時期の農業
1950年5月海南島解放後の翌月,海南軍政委員会の下で農林処が成立し,海南島の農業生産の恢復お よび発展を担う事になった。農林処は,農民の情緒を安定させ,農業生産の積極性を高めるため,中 南区軍政委員会が発布した「関於発展春耕生産十大政策」(1951年)6および広東省人民政府が発布した
「関於発展農業生産積極準備春耕的指示」(1951年)7に従い,以下のような措置を採った。
①水利を興す。②肥料を収集・蓄積・製造する。③種子を調達する(食糧欠乏地区には,食糧,
種子が不足しているため,群衆を組織し,互助・共済・互借の手段を採り,または銀行に借款し,
生産の自給を図る)。④農具と耕牛を適当に解決し,個人間の共同購入,共同使用を奨励する。⑤ 耕作方法を改良し,真面目に耕作することを提唱する。⑥荒地の開墾を奨励する。8
1950年6月,中共中央が「土地改革法」を頒布し,海南島は,広東省人民政府海南行政公署の下で,
1951年春から1953年6月まで,土地改革を完成した。土地改革によって,海南島は「耕す者は土地を持 つ」ことを実現し,封建的生産関係と搾取制度を廃止し,生産力を解放した。農作物の播種面積は,
662万畝から831.54万畝に増加し,作物の産量も逐年増加した。档案資料によると
①食糧。解放前の田地が荒廃し,1949年食糧の播種面積は632万畝(42.1万ha),畝当りの産量は60kg,
総生産量は37.99万トンであった。1952年恢復した耕作面積は516.1万畝(34.4万ha),食糧作物播 種面積は783.82万畝(52.2万ha),総生産量56.92万トンとなり,1949年より49.8%増加した。そ の中,稲作の播種面積は592.47万畝(39.5万ha),総生産量は46.62万トンとなり,1949年より57%
増加し,畝当りの産量は78kgであった。抗日前の1936年の畝当り生産量(45.98万トン)より1.39%
増加した。
②花生。抗日前の生産量は0.49万トン,1952年は0.77万トンとなり,57%増加した。
③甘蔗。抗日前の生産量は8.15万トン,1952年は14.83万トンとなり,82%増加した。
④煙草。以前は零細な栽培であったが,1952年の栽培面積は6400畝(427ha),煙草産量は70トンで あった。
⑤パイナップル。1936年271.56万株に対して,1952年697万株であった。9
即ち,土地改革時期の海南島は,新しい土地制度の確立と農村生産力の解放により,農作物の栽培 面積が拡大し,食糧作物・経済作物の生産量が量的に増加した。
2.三大改造時期
土地改革完成後,海南区党委(共産党委員会)・行政公署は,個別農業・個別手工業・私営工商業の 社会主義的改造を同時に行い,海南島の生産関係を変化させた。個別農業を詳しく述べると,以下の
通りである。
土地改革後,海南区党委・行政公署は,党中央の「必ず農民を組織し,共同裕福の互助合作の道路 を歩かなければならない」という指示に従い,海南区の農村部に互助合作組織を成立させた。1954年 春夏の間,2個の農業社を試点として始め,経験をまとめた後,秋に全区に展開した。1956年春,政府 は,半社会主義的農業合作化を基本的に実現でき,私有制の土地を集団所有制の土地に転換させ,海 南島農村の生産関係を徹底的に変えた10。
さらに,農業開発を具体的に述べると,以下の通りである。1950-1952年の2年間の恢復生産時期を 経て,広東省々委(省委員会)は,海南島を計画的に開発するため,「発展国民経済五カ年計画」を制 定した。第一期五カ年計画(1953-1957年)の農業生産方針は,「農業に対する社会主義的改造を逐次 実現し,合作互助の組織を積極的かつ穏健に発展し,農民の生産積極性を発揮し,国営農場の発展を 固め,さらなる愛国増産運動を展開し,農業技術を改進し,生産を高める。食糧を主とする方針の下 で,適地適作を行い,経済作物を発展させる」とされた。1953年,海南島は行政区公署の下で,以上 の生産方針と中央の「関於農業生産互助合作決議」(1953年2月15日)と「関於農業合作社的決議」(1953 年12月)等政策を貫徹し,1956年末農業合作化を実現した。1956年1月中央政府が発布した「1956年至 1967年農業発展綱要」即ち農業40条によって,全島においては社会主義生産競争を展開し,農村合作 化の高潮を生産の高潮へと引き起こしていった。その際,農業技術の改革が全面的に推進され,全島 の食糧,油糧,蔬菜,牧畜の生産および新式農具,農場,トラックの普及等も大きな成績を納めた。
第一期五カ年計画期間,国家は,農産品の価格を度々引上げたほか,総額667万元の水利投資を行い,
農民への融資をも行った。化学肥料の施用は1953年僅かの3.3万担(165万kg)から1956年の29万担(1450 万kg)までに増加し,商品肥料(化学肥料と鳥糞)は1954年の6.2万担(310万kg)から1956年の32万 担(1600万kg)まで増加した。これらの措置は,農業生産を大きく支えていた。第一期五カ年計画時 期,農業総生産値は,1952年2.57億元から1957年3.638億元まで41.4%増加し,毎年の平均増加率は 7.2%であった。食糧総生産量は,56.9万トンから81.95万トンまで44%増加し,油糧は0.83万トンか ら1.56万トンまで88%増加し,甘蔗は14.83万トンから35.47万トンまで39%増加した11。
以下のように,この時期農業技術の普及も盛んに行われた。
海南島は,1954年から農業技術推広站を建設しはじめ,農業技術の改革を大きく発展させた。1955 年「三推五改」を主とした農業技術改良を実行した。「三推」とは,潮汕(広東省潮州・汕頭)経験12の 推進(潮汕経験は1963-1965年に海南区政府によって正式に推進された),新式農具の推進,優良品種 の推進である。「五改」とは,早稲・晩稲の混播を双造(二期作)挿秧に改め,単造(一期作)を双造
(二期作)に改め,撒播を条播(或は点播,挿秧)に改め,冬閑(冬の休閑期)を冬種(冬の播種)
に改め,荒地を耕地に改めることである13。
(1)耕地面積の拡大,多毛作指数および土地利用率の向上。第一期五カ年計画期間(1953-1957年)
では,荒地が開墾され,耕地面積が大きく拡大した。1950年耕地は僅かに430万畝(28.7万ha)であっ たが,1952年517.07万畝(34.5万ha),1957年595.44万畝(39.7万ha)となった。1956年全島において,
単期作田の二期作田への改造,中間作の栽培,冬期休閑期の耕種,春季雑穀の栽培等により,作物の 播種面積を170万畝(11.3万ha)に拡大し,多毛作指数を137%から193.4%まで高めた14。
(2)遅れた耕作制度の改善,先進的栽培技術の普及。主に水稲撒種を条播,点播に改め,早稲・
晩稲混合的作付を両期作田による作付に改めることである。全島には元々48万畝(3.2万ha)の撒種水