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浬撰・菩提の勝岡市の業を引くこと能はや︒
唯譲のみ能くするが故に﹂と回附してゐる︒斯く般若
を持母ぷ事は大衆部柴の一特徴と考へられ且つ後世の般若系悌教との関係左想起せしめるが︑此は衆音を誠し衆苦の因
たる煩悩を滅するのは蹄定に依らねばならぬハ婆沙品位六十︑大正二七︑一三O頁下﹀とするのと異たる︒然し遺憾訟がら
とと
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故には何慧により何煩悩を滅すれぽ四向四果の何果を得るに至るか等の具時的詳設が侍って居らや︑従て此は皐に推
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り︑論設するととが出来危い︒然るに大衆部は︑見修二誼及び四果を階段位的に峻別せやして贋義の預流と 煩悩断究究断の羅漢位と左軍閥したととは次設が之を裏書きするのではたいかと忠ふ︒即ち宗輪論に大衆部系設と して﹁諸預流者︑謹一切悪・唯除無間﹂ハ部執異論十八部論蔵諒一致す︶と一寄ってゐるが︑とは有部が四善根位の忍位 以上は悪趣に堕せ守︑従て悪趣乞結果するが如き悪業の非得を得すとするのとは甚だ異る黙であり資際の宗教的信
仰として見る限りとは亦︑可診hり重大なる相違と一言はざるを得ない︒尚.此問聞と及び煩悩断とに関連して注隠すべ
きは大衆部系の主践として﹁預流者有退義︑阿羅漢無涯義﹂と宗輪論︵他の二罷及び斑文も同じ︶に言ってゐるとと
であ
る︒
婆沙
一八
六ハ
大豆
二七
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三一
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光記
程二
五ハ
大豆
一四
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γ七五頁上﹀にも此を明すが大衆部系と回せられる
分別功徳論には有部の九種阿羅漢に退轄ありとする説︒乞破して居るハ大豆二五︑一三頁中︶︑述記は︑預流・一衆・不謹 は共に凡て一たび無漏を見て時間煩悩を断歩るけれども未だ修遣を完修令や所修の聖法が倫未だ国満たらや聖遺未だ堅 牢たらざるが故に退あるも︑羅漢は之と異なるから不退なりと解標してゐるが︑とは筒︑有部的修行階位を認めての
上での解樺たるbL琵れない︒然るに大衆部系と認められる分別論者が羅漢不患の理由として畢ぐる黙に面白い記述が
ある︒即ち日く︑﹁如瓶破巴唯有飴瓦︑不復作瓶・諸阿羅漢亦臆如是︒金剛轍定破煩情己︑不臆復起諸煩悩退︒如焼 木巳唯有儀次︑不謹話木︒諸阿羅漢亦臆如是︒無漏智火焼煩悩巴.不臨復起諸煩悩退﹂と︒若し分別論者が有部の預 流設の如ぎを認むるとすれば︑預疏も亦無漏智を以て煩悩を断歩るから漏り阿羅漢位のみに斯る時設左詩すととは自 己矛盾である︒従て斯る自明たる矛盾に陥入︒て伝いとすれば︑此主張乞詩す分別論者は明に有部流の預疏設を認め
てゐたかった詮擦とたると考へられる︒婆沙者六O
ハ大
豆ご
七︑
=一
一一
一頁
中﹀
参照
︒ 要之.大衆部設といひ︑婆抄に於ける斯る分別論者訟といひ︑預疏等の四向呆と及び見詰とに闘する見方が有部と
は非常に異って居る︑従て若し彼等に修行遣に於ける組織的忠想があったとすれぽ︑其見選論も有部とは可たり国持︒
た見方在有してゐたに相遣ないと忠はれる︒官︑最後に︑大衆部系が︑悌陀を非常に大乗的に見て傘崇するに劃して︑
阿羅漢には五事の悪見を懐いたとと︑換言すれば阿羅漢の地位乞︑有部の三乗中の聾間乗羅漢以上に低く見たととも︑
亦︑後世の大乗僻敦思想展開に闘謹せしめて注目すべき賠であらう︒論事二一の三に︑﹁ある結左断︑ぜ守して阿羅漢
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担当 時釦 同5
38宮百件︒とある設を悌昔が︑大衆部の主眼と見たの
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も斯る考に基くのではたからうか︒伸菅は︑大衆部系が此設を立した所以を説明して﹁阿羅漢は﹁一切の悌陀の境界﹂
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由記
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﹀を知らざるが故に︑そとに無明と疑とに未断のものあるぺき﹂な・58
でるるからとしてゐ
る︒償︑宗輪論には第八地︵有部の見遣位︶及び性地︵四善根位特に世第一法位︶に久住すと主張して︑有部の世第
一法位の一利那設と及び見道の十五剃那設とに反射する︒
以上︑大衆部系統の思想を椴りに綜合的に見ると︑有部の如く見・修爾位の確然たる階位を認め歩︑羅漢果獲得直 前の金剛鴨定位を入正性離生位と見て︑設に於て民の無漏智をえ︑以て一切の結・煩惜の永断ずる位と見︑有部の見 修爾遺所修の成果乞頓に共に此に修得するとし︑とれ以前の庚義の預流位は諸種開定等を得るも煩悩伏断位に酒ぎ・?
と見てゐたのではないか︒然も所謂︑術語化された聾聞道の羅漢位を不完成とし理想観せ守︑凡ては成備を最終の唯 一の目的と見るべしとしてゐたのではないかと考へられる︒然しとは一憶の大衆部観であって︑筒︑他の方面からも
検討しγ
見なけれぽたらぬ︑然し今は此を割愛して︑見遣論一般の展開に向って論を湛めねぽたらない︒
五︑初期大乗経論に於ける見道論
初期大一飛躍の代表は般若系の諸経であるととは略事界の通話であらう︒般若系の諸経の中には有部系の思想を前提
として︑此を般若室翻の立場から止揚せんとするものが多いF然し其敦設される一一を論評するの煩を避けて︑今は 大衆宣揚の龍樹の躍なる大品般若の四諦品と︑此に劃する龍樹の註揮を以て︑初期大一束悌教の悌道修道観の大綱を寸 間し︑此中に︑有部に於ける見珪論等の内容とたすものを如何に取扱うてゐるかを見ょう︒
経に﹁是菩薩摩詞陸行ユ般若波羅宜−時一切諸口法内コ般若波羅蜜中刊行ニ菩薩道−得二阿縛多羅三瓶三菩提サ得コ阿将多
羅一
二一
貌三
菩提
−巳
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一
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読ニ
酔酌
一冊
︑苦
・苦
集・
苦誠
・苦
減誼
刊開
−一
示分
当別
一切
助誼
善法
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入−
四聖
諦中
乙云
云と
︒ 即ち般若を行守る菩薩は成五賢の後に衆生を度せんが潟めに︑四聖諦を説き︑聞も此中にコ一賓乞始めとして三十七 助遺品等の一切の善法を揮したとする︒備陀の斯る設に封して︑何が故に血誕生の詰め四諦設在たすや主吾々の疑問
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龍樹が代って提出して之に自ら答へて︑吾人衆生が一番手近にEつ痛切に恐怖を感やるものは諾の老病死等の苦であ
るから︑先づ苦を除かしめて筏に︑併遣の妙法在開示せんが潟めである︒苦を除去せんとすれぽ︑苦と苦の悶ゑる集 と︑苦の基本国たる欲愛の減と此を滅する方法手段等の誼の認識と其賓践とを要するが故に備は四聖諦左説いたので
あるとの義理を説明してゐる︑
︒
裁に経に於ては多分陀有部的教相観を有する須菩提が︑四聖諦諦観による︑苦・集・減・遣の四智を以て煩悩を減 し得度するととはたいかと問へるに封して︑悌は﹁四聖諦は一や等たるが故に︑我は即ち是れ浬撲であると説く︒四聖 諦国浬摂たるが故に︑四聖諦左用ひ四智左用って得度し浬襲を得るのではゑい﹂と答へ︑龍樹は此理由を説明して.
﹁是苦等四法︑皆従縁生︑虚妄不賓無有自性故︑不名話賞︑不賀故︑云何能減﹂と認し︑更に即ち初に遣を得て苦集 の二諦の虚妄なるととを知り︑無飴浬擦に入らんとする時は︑遺諦も亦虚証なるを知って︑塁富三味等の三三味門に より道諦乞捨離し︑無箆たる減諦も有箆乞離れて無きが故に定法の求むべきものたし︑と説明を加えてゐる︒然し斯 る虚妄不買の四諦法が何が故に平等にして浬擦と言ふか︑とは須北口提と共に吾え凡夫の疑問として起る所であるが︑
経は備の答として︑若し四諦と四諦智との八器廃に著するととが無けれぽ則ち平等であり︑復此四諦は如賓であり不 誼不異にして︑如・法性・法相・法住・費際であるが︑此は五口人の分別心や分間翻を以て斯くたるのではゑい︒而し て斯る平等如賓なる法は結局諸法賓相唯一法の常住不滅︑なるに外たらない︒是の如く主口薩は般若波羅蜜を行巴て諸法
の賓諦に通達するのである﹂
ハ大
智数
論念
九四
︑大
正二
五︑
七一
九頁
上参
照︶
との意味を越してゐる︒諸法寅相の観巳方
は︑後︵大豆二五︑士一九頁中﹀に明すが如く︑諸法宰と観
41
ると
とで
ある
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然らぽ一足何にして菩躍は通達して賓諦を得︑整問・砕支備の二一東地を過ぎて主︵控口薩位に入るかと一言へぽ︑経は﹁若
菩薩伽骨丸町静九町︑見巴得鮮野中伊齢︑得無所有法日一見一野酌密︒四聖諦所撮・四聖諦所不構法管室︒若如是観︑是時便
3 3 3 3
︒ ︒
入菩薩位中﹂︵大智度論念九四︑士一九一良上一﹀と言ってゐる︒戎で経は謹んで︑﹁是話菩薩位性地・午︑不絡頂堕︒用是頂
堕故︑堕聾問時支備地︒是菩薩住性地中︑能生四蹄・四無量心・四無色定︒是菩蕗住是初貯地住中︑分別一切諸法︑
通達
四雲
師︑
知苦
不生
一勝
苦心
・乃
至知
道不
生縁
泣心
︒但
凧即
肌山
静止
が和
一↓
一和
一↓
一争
勝心
問︑
臨時
町会
品払
﹂と
言っ
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龍樹
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の此丈の韓中︑頂の性地に堕せざるといふのが所謂菩躍の法位であるが︑設に性地とは席︵援︶・頂・忍・世第一法の
如を
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同町
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聾聞
等が
是中
に位
すれ
ば︑
必
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粧の見誼を得んと望むが如く盟口躍も亦是の如し︑是の性地中に安住し
て必ポ作悌笠間唱み︑能く四蹄・回無量心・四無色定を生じ︑此等輔の地中に住在して︑心を揖
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・諸法を分別し思惟し審量して四諦に通濯するのであり4.然も苦諦を知見して是の人身は皆賊の如く怨の如く︑無常にして苦たり等と観
守るを得て︑而も是を得るや即時に是を拾して苦の相を取らや亦︑苦諦も縁じない︒乃至讃諦に就ても斯く知見す るも是を拾して相を取ら歩道諦をも縁ぜ守して︑但︑一心に無上正畳に酒向する︒郎ちとの四諦は薬と病と相封たり と知って︑是四諦に者せ守して但︑諸法の如賓相を観じて四種の分別観を作さたいのである﹂左四時明してゐる︒
かく諸法皆窓観をなすのが︑真の如震観であると設き︑かくて此如寅親により一切法は皆定無自性にして法性の見る