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新聞記事における皇室への敬語表現の歴史と現状

ドキュメント内 社会変化と敬語行動の標準 (ページ 40-57)

     歴史と現状

       (渡辺友左)

 本章は,報告書原稿として完成した昭和58年4月の段階では,次の形をとっており,章の題名も節の 数や題名も,現在とは全く異なっていた。

      戦後B本の民主化と豊強に対する敬語行動の標準          一一国語問題としての皇室敬語一 皇室に対する国民の態度の新旧世代の分裂

今日の総本国民の世代構成 文部省の教科書検定と豊室敬語 新聞記事における寸感への敬語蓑規

今日の国際化蒔代に新聞が黛室だけに敬語蓑現をとることの是非 今日の世界における翼主国と共和国と立憲無主国

民主主義と世襲天皇制

階愚逆差別としての画室敬語一むすびにかえて一

 章の題名が朝すとおり,皇室に対する国畏の敬語行動のあるべき標準を,戦後日本の民主化という枠 組の中で,国譜問題の一つとしてとらえ,国語学や雷語学の立場からではなく,社会科学の立場から論 究したものである。しかし,その論究の内容にはく国立國語研究所報皆〉としてはなじまない部分が多 く,そのため第4節と第5節以外は全部削除することにした。残した第4節と第5節が本章の第1節と 第2節である。削除した部分が多いため,章の題名を変更した。

3.壌.新聞記事における皇蜜への敬語表現の歴史

 当研究所の雷語変化研究部第二研究室には,明治10年11月から翌H年10月までの1年闘のr郵 便報知新聞』が所蔵されている。また,明治10年から昭和22年まで10年闇隔で,それぞれわずか

3日分からlff分ではあるが,『東京日日新聞』(昭和18駕以降は晦N新聞』と名称が変わっている)

が所蔵されている。

 『郵便報知新聞』のほうは,昭和30年代の初めに嗣研究室の前身,旧第三研究部近代語研究室 が研究課題「明治時代語の調査研究」の一環としておこなった「『郵便報知新聞』の用語の調査」

で,直接の調査資料としたものである。昭和34年に刊行された詣研究所報告15『明治初期の新聞 の用語』は,この調査の報告書である。

 また,10年間隔の『東京日日新聞』(晦日新聞書)は,欝語変化研究部第二研究室が,新聞の漢 字含有率の歴史的な変遷を探る調査の直接的な資料にしたものである。岡研究室長梶原滉太郎執

       詔 筆の下記の論文は,この調査の報告である。

  「新聞の漢字含奮率の変遷一明治・大正・昭和を通じて一」

     (国立國語研究所報告7エ『研究報密集(3)』 エ982庫)

 ところでr郵便報知新聞』とr東京日日新聞』は,どちらも明治5年に創刊されている。二つ の新闘が塁室ほかに対してどのような敬語表現をとっているか。そのことを上記書語変化研究部 第二研究室所蔵の新聞で見てみよう。

  (11聖上には去る廿〜日午後五時頃より青山萩の御茶屋へ行幸岡夜十一時頃還幸遊ばされし曲

  ② 三条公には御風邪にて〜昨日よりお引きになりし曲

  (3)去る廿一B華族下達家の〜族方が本所横網町の岡邸へ会され芳村孝次郎の長唄連中及び    俳優中村鶴蔵山谷堀の芸者等数人其席に侍べりて酒興を助けしは余程盛挙な祝宴なりしこと        さかん

  (4)山口県令関口君は先年前原一誠暴動以来の実情異状の為め内務省より御用召にて出京さ    れし処岡彙は大書記官も病気にて出京の折なれば留守中は内務少書記官兼陸軍中佐木梨精    一霧が集令心得を以て代理さるるは〜(中略)

    同君は先頃より壮兵招募の下め山[コに滞在されし故に〜(略)

  (5)来る四日は上野の博覧会閉場に付同所広小路の劉烹下松下僧八十の二野を始め近傍の食    店中にて三橋の前面へ何れも西洋飾りを修理し屋台難子を奏して前日本日ともお式を祝賀        しつらい

   すと

  ㈲ 弊社の仮編集長亀山篤郎はホ臼裁判所検事課よりお呼出しを受けました

  (7}安藤中警視には鹿児島表へ出張なりしが貸地御用済にて昨日横浜へ着港され本日は着京    さるるよし

  (8)陸軍少将谷干城君には御用済にて来る十五日頃熊本へ帰営せらるる由

       さんま ひもの

  (9}浅草花川戸町五十四番地倉島庄右衛門は金五円青串千物千五百枚を養育院へ施入したり

 上に掲げた新聞記事(1)(2)(31(41(5)(6)は,上に述べた『郵便報知新聞』のうち,明治10年11rs 24日

(土)付から抜いたものである。ただし原文は縦組みである。また,漢字の字体は現代通用の字 体に,そして変体がなは普通のかなに直してある。以下同じ。原則的に,上側(原文では右側)

のルどはその漢字表記のよみを示し,下側(原文では左損ののルどは意味を示していると考えら

れる。

 34第3章薪聞記事における暴室への敬語表環の歴史と現状

 (1}は,明治天皇に関する記事である。〈聖上〉〈行幸〉〈還幸〉などの天皇や塁室だけに使う 特別の敬語・敬称が使われている。(2)のく三条公〉とは,太政大臣三条実美のことであろう。新 聞は,その三条実美に対して,〈御風邪〉〈お引きになりし〉などと敬語表現をとっている。{3)

の華族俘達家とは,IB仙台藩主砂達家のことか。これにもく会され〉などの敬語表現が使われて いる。当時華族とは,かつて公卿・将軍・大名などであった人たちである。

 (4)は,丁令・県令心得のような,いわゆる野冊にも新聞が敬語表現を使っていたことを示す。

(〈関口君〉〈嵐京されし〉など。) (5}は,市井の一般人や商人などには敬語表現をとっていなかっ たことを示している。一般人であり商人であるが故であろう。(61は,新聞社がいわゆるお上に対

して敬語を使っていたことを示す。

 (7}(8)は,明治10年12月5日(水)付の郷便報知新聞』から抜いたものである。新聞が官員や 軍入に敬語を使っている例である。そして最後に(9)は,明治10年12月18臼(火)付の睡陵報知 新蹴から抜いたもの。一一般人には敬語や敬称が使われていない事例である。敬称も使われてい ないということは,それから半年たった,民主主義下の今日の平均的臼本人の感覚では,まさに 日本国憲法第14条の条文に使用されているく差別〉以外のなにものでもないだろうと思う。

 下に掲げる(10)(11)は,明治ユ0年12月25日(火)付同新聞から抜いた。ao)の華族がしていることと,

前出⑨の平畏がしていることは,事柄としては似たようなことである。それなのに,(9)では敬語・

敬称が使われず,⑳ではそれがきちんと使われている。これも今臼の民主圭義の感覚では,理解 するのがとてもむずかしい。鮒の勝海舟のむすめの記事も興味のある事例である。

㈹ 下谷徒町の華族立花君は習成学校を新築する為邸内二百五十余坪を無代にて貸渡し猶ほ  百五十円出金されし由

(11)久しく海外に留学されし勝海舟君の息女は一昨B仏国郵船ボルガ号にて帰朝されたり        むすめ

 以上,明治10年男時のr郵便報知新聞』の記事では,敬語表現が使用されたのは塁室ばかりで はない。華族や嘗員・軍人にも使用されていたのである。敬語表現を皇室だけに眼定している今 日の新聞と基本的に異なる点である。

 『東京日日新聞』の場合は,どうであったろうか。

(12)昨九日太政宮において行はれたる勲章授与式の御模様を承るに当日午前十時三条太政大  臣には式場に臨まれ参座として右に徳大寺宮内卿,坊城式部頭,丸岡式部助,左に伊藤賞  勲局長窟,大給副長官,平井秘書窟ぞ立排ばれたり此暗式部の駅員は勲章を捧げて野面の  案上に置き続て受章者を引て太政大臣の前に進み敬礼を行はしむ大臣は勲章を干てこれを  授け受章者は拝受して退き之を偲び再び進で敬礼す其時賞勲局畏官は勲記を与ふるに受章  者又た之を拝受して敬礼す畢て式部の官員は受章者を引て退去せしむ其勲記に 埋りし玉  ふらく

  天佑ヲ保有シ万世一系ノ帝柞ヲ下階ル日本国皇帝ハ陸軍少将兼司法大輔従臨位山田顕義   ヲ明治勲章ノ勲二等二野シ燈日重光章ヲ授与ス{乃テ汝ハ此位二野スル礼遇及ヒ特権ヲ脊

      ss スルヲ得ヘシ

神武天皇即位紀元二千五百三十七年明治十年十一月九日東京宮城二於テ親ラ名ヲ署シ璽 ヲ鈴ス

   大日本  参謙螂獺一品糠博1,1(Ef]

      法話局長官勲一等正四位

   国    璽       五感兼賞勲局副長嘗従四位 大濠 恒印

大日本 帝国賞 勲局印

此世ヲ勘査シ第二十号ヲ以テ勲等野冊二記入ス  賞勲局一等秘書官正六位 平井希畠印

 112)は,明治10年ll月10日付『東京日日新聞』の雑報欄の胃頭にのった記事である。明治天皇に 天皇特脊の敬語が使われているほか,三条太政大臣ほか政府高宮にも敬語が使われている。

 天皇を権威づけるためであろうけれども,勲記の文書がいかにも大仰なことに驚く。〈天釜〉

をく皇帝〉といっでいたことにも驚く。叙勲にはそれに相応する礼遇と特権がついていたことも わかる。戦後の日本国憲法が法の下の平等の名のもとに否定したものである。今日の勲記の文言 は,これに比べるとずっと簡素である。たとえば次のように。

日本国天皇は○○○○を勲三等に叙し,旭日章を授与する 昭和○○庫○○月○○日皇居において璽を捺させる

       内閣総理大臣 ○000⑳        総理府賞勲周長OOOO㊥

㈲ 聖上には明十四鷺午前十時皇居御出門にて招魂社へ行幸あらせ給ふ  せ玉ふ筈なれど未だ時間の儀は仰せ出されなき趣に承はる

皇后宮も行啓あら

働 去ル十日の雑報に岩佐二等侍医は窩内省に宿直中俄かに大病の由にて退出せられたる旨  を記せしがただ一時の症にて既に快気に赴き最はや出勤せられたるよし

く15}同府下第三大区の総区長金沢卯右衝門は資本金三十万周忌以て私立銀行を設立し度さ旨  を願出でまた鰭谷の豪商住友吉左衛門は北浜一丁目旧金相場会所跡に米商会社を取建る目  論見にて中ノ島近辺なる旧藩邸の米蔵を数十ケ所買入れたりと

 (13X玉4>(15}は,10年11月13日付の『東京日日新聞』の雑i報記事である。三等侍医という窟員にも,

〈退出せられたる〉など敬語が使われている。これに対して(15}は,豪商や寓豪であっても,平民 であるが故に敬語が使われていない事例である。(5)や働の事例と岡じである。

ドキュメント内 社会変化と敬語行動の標準 (ページ 40-57)

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