〈研究ノート〉
C. 新聞に報道された女子教員の動向
今回利用したのは、明治時代の記事がデータベース化されている『東京朝日新聞』と『読売新聞』で ある。両紙とも中国教育に関心を寄せ、日本の積極的協力を支持していた。したがって、日清戦後の中 国からの教育視察や来日留学生に関する記事は多い。その中で女子教育に関して、『読売新聞』では、
明治35年の女子留学生来日報道以後、留学生関連の記事が主に掲載されていた54。教員の派遣は明治38 年12月 7 日付「閨秀音楽家の清国応招」と題する記事が最初である。これは、加藤みね子(下谷区谷中 の女子体操音楽学校卒業生)の四川省成都の女学校への派遣で、それに続いて、同年秋の東洋婦人会の 中国視察の記事「清国上流婦人―東洋婦人会特派員の土産談」(12月21・22日)の中で、現地で活躍 している日本の女子教員を紹介した。この記事では、北京の「豫教女学堂」をはじめ、天津、長沙、武 昌の女学校や幼稚園について報道していた。そして翌39年 3 月には東洋婦人会の養成所設立について
「清国女子教育の責任ハ殆ど我邦婦人ノ双肩ニ懸り居候」と支持する記事を載せた55。それ以降、養成 所の開設、卒業式、卒業生の派遣を報道している。
一方『東京朝日新聞』の女子教員の記事は河原操子が最初で、明治36年12月 5 日の「勇ましき女教師
(蒙古王の家庭教師)」が、河原の日本での経歴、上海の勤務、喀拉沁赴任の経緯などを詳しく紹介して いる。前年上海の際は報道しなかったが、勤務先が喀拉沁の王家であるため注目し、女子教育における 日本の先進性を印象付けたのである。
同紙は、東洋婦人会に関する記事が多く、同会による中国視察と養成所の設立を報道した56。中国視 察は計画段階から北京の服部繁子と打合中であると報じている57。そして派遣教員養成事業を「東洋婦 人会紀念会」58で紹介していた。他にも生徒募集の広告を掲載している59。その後「東洋婦人会附属女 教員養成所第二回卒業生長野県人横内ふみ江(二十)は関東都督府の招聘にて清国金州公学堂へ、又愛 知県人加藤とよ(二十)は同保定府女学堂へ何れも教師として赴任する事なり」と報道し、同記事で、
既に「松里しま子(二三)」と「大杉はる子(二三)」を派遣し、同会附属の教員養成所出身17名の内14 名が中国で活躍中であると報じた60。
また、淑徳婦人会の清韓語学講習所も、生徒募集広告を明治38年 3 月12日と 8 月12日に載せ、40年 1 月14日に、
今回清国四川省順慶府廣安州に新設される寶枝女学校の教員として招聘せられ去五日出発したる阿 部初代子(二十四)は山口県美禰郡綾木村に生れ山口高等女学校を卒業して程なく東京美術学校に 学び傍家事科伝習所を卒業し其後豊多摩郡渋谷小学校の訓導となれり然るに三十七八年役の起るに 及び深く清国教育の必要を感じ昨年四月中小石川区表町清韓語学講習所に入り成績優秀を以て卒業 したるが旧処四川省より籍開岱士の派遣あり女教員招聘について種々選定の結果講習所の穂積教授 千葉講師らの人選により初代子を推薦したれば同女史は良人好豊氏と共に出発せり、好豊氏は市立
と報じた61。また、同年 2 月 4 日「清国招聘の女教師」で村越信子(清韓語学講習所卒)の浙江省呉興 女学堂派遣と、5 月 2 日には山角まさ子(20歳)の廣東坤維女学堂派遣を報じ、明治41年 2 月29日には
「清国婦人の教育」と題して、市村満津美、斉藤いしの派遣と既に勤務中の卒業生を紹介していた。他 には、河原の後任鳥居喜美子の「鳥居氏夫妻の蒙古談」62という記事が見られる。
2 .派遣事業における婦人会の役割
以上の史料を利用して、中国に派遣された女子教員を年代順に一覧にしたのが、後掲の表である。年 齢や履歴は史料のまま記載したが、赴任の時期は推定したものである。
この表により、明治39年以後の教員派遣の増加が明らかである。明治35〜38年の 4 年間の合計16人と 比べ、39年以降は毎年約20人の教員派遣が行われ、その中に東洋婦人会の養成所と淑徳婦人会の講習所 の卒業生が多く含まれている。40年は教員19人中、養成所と講習所の卒業生が各 5 人で、41年は18人中 に養成所は 3 人、講習所が 8 人、42年に派遣は 9 人に減少しているが、うち 4 人は養成所の卒業であ る。増加した教員の過半数が養成機関の出身であることは明らかであり、女子教員派遣の増加は、希望 者を養成する機関ができて、多数の女子教員派遣が可能になった事が大きな要因と考えられる。
こうした変化の背景に存在した、中国における女子教育政策の転換と、日本人女子教員の派遣事業の 実態については、別稿で明らかにした通りである。
すなわち、明治40年に「女子小学堂章程」と「女子師範学堂章程」が公布され、中国の公教育制度に 女学校が規定されたのである。そうした変化に対応して、中国がモデルとする日本の女学校の授業を現 地で実践し、並行して師範学校で教員を養成したのが、日本人女子教員であった。そのため日本からの 教員派遣の必要性が高まってきた。こうした女学校の公認という中国の事情に対して、日本では婦人会 が教員養成の学校を設立していた。この婦人会が支援する派遣が、女子教員派遣事業の主流となってい たことが、本稿の分析により明らかになったのである。
これは日本の女性組織が企画した、中国に女子教育を普及させるための先行的な動きであるが、それ によって教員を養成して派遣する体制がすでに始まっていた。こうした民間の女性組織による教育支援 が中国側の需要に対応できたことで派遣は増加したのである。
おわりに
明治末の日本には様々な中国認識があり、教育改革の協力にも多様な目的が考えられる。その中で、
女子教育を目的にした教員派遣は男子教員と異なり、両政府間の公的な教育事業ではなかった。それは 女性組織が中心的役割を果たした民間交流のレベルに留まるものであった。そのため教員の養成所は、
当時増えていた女性の職業学校の一つとして、それらの学校と並んで募集広告を新聞に載せていた。こ の点で派遣女子教員は日本女性の社会進出が海外まで発展した事例とも言えるのである。したがって女 子教員派遣を国家の外交政策の一環で論じるべきではなく、むしろ日本女性の社会進出と国際化という 視点で論じるべきと考えている。
しかし、その背景に日本の帝国主義的国策が存在したことも否定できない。新聞や雑誌の記事では、
日清日露戦後先進国としての自信を高めた国内世論が読み取れる。当時の日本が国際協力に積極的で、
先進国の一員として日本女性が果たすべき役割にも関心を寄せ、これを称賛する世論は女子教員派遣の 追い風になった。そのような日本社会の状況が、中国教育の支援や民間の文化交流を後押しして、女子 派遣も個人的な紹介による小規模だったものが教員養成にまで発展したのである。河原のように教員歴 がある女性は自分の能力や経験を中国の女子教育に役立てようと赴任し、そうした先人と同様に中国女 性に協力すること、あるいは中国支援という国際的な活動を志す女性が、その技能を得るため養成所に 応募してきたのである。その際養成所の存在が、彼女たちの国際活動を可能にしたと考えられる。
その結果、約100名の日本女性が中国に渡り、中国女子教育に足跡を残した。これは明治末に日本女 性の行った国際活動として注目すべきものであるが、派遣が短期間に終了したため、あまり認識されて いない。今後は、この女子教員派遣を明治女性の社会進出という視点で、女性の職業や国際活動の一例 として検討していきたい。
(かとう・きょうこ/お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科 比較社会文化学専攻博士後期課程)
掲載決定日:2014(平成26)年12月 4 日
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派遣時期別の女子教員一覧表