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回を数える。こうした繰り返しは、メンバーが意見を出し合い、合意され たものをひとつひとつ活かして全体を組み立てた結果だと推測される。また、死

をテーマにした点は前年の「提案」の葬儀に通じるところがある。

次に、「JAPAN KOBE〈0〉」の名称について。

「虹の革命」の「参加申込書」に「JAPAN KOBE “0”」と記され、当日のプラ カードなどにも「JAPAN こうべ 0(ゼロ)」の文字があり、この活動が「JAPAN KOBE〈0〉」表記の初見である。この表記は「提案」が実施された 1970 年 9 月か ら「虹の革命」が実施された 1971 年 5 月までに作られたことになる。1970 年 2 月 20 日の「0.A.C 〈0〉洋画研究所派遣 ’71 年度 ヨーロッパ一周」案内はがき には「神戸洋画研究所「0」」「0.ART CENTER OF KOBE」と記され、同年 11 月 30 日の案内状にも「神戸洋画研究所〈0〉」とあるので、「神戸」と「0」は以前 から繋がっていた。この頭に「JAPAN」を付けて「JAPAN KOBE〈0〉」ができ たとするのが自然だろう。

ただ、1971 年の段階では単なる英語表記との認識もあったのではないか。上述 の『朝日新聞』5 月 2 日の記事には「JAPAN KOBE〈0〉」の文字はなく、「「ゼロ」

会」と記され、榎が『神戸っ子』に発表した上述の文章にも「0 の会メンバー」と あるからである。この時点では「〈0〉の会」がデッサン教室もイベント活動もカ バーする名称としてふさわしいとの認識があったのかもしれない。また、「JAPAN KOBE〈0〉」の中途半端な扱いは、英訳からあまり時間が経っていなかったからと 考えることもできる。

「JAPAN KOBE〈0〉」と「洋画研究所〈0〉」のその後の使用例を辿ると――

1971 年 9 月 20 日発行の「現象としての人間研究所」展の案内状では「JAPAN KOBE 〈0〉」の名前で同展とデッサン教室を紹介しており、(「〈0〉の会」に代わ り)「JAPAN KOBE 〈0〉」でもって全体をカバーしようとしているのが分かる。

1972 年の洋画研究所展の案内状や 1973 年の《人間狩り機》の案内状で「JAPAN KOBE〈0〉研究所」と記し、古川が 1972 年の寄稿文で(9)「JAPAN KOBE ZERO

(略称 0 研究所)」としているのも同様の考え方である。略称としての「〈0〉研究所」

が必要なのは単に便利だからという理由だけではないのかもしれない。1972 年の

「新春〈0〉パーティ」の案内状の差出人を「0 絵画教室」と「Japan Kobe 0」両方 の運営センターにしたように、両者を多少区別しようという考え方があったので はないか。ZERO の活動に関わらない人は一定数いただろうし、彼らには大げさ な「JAPAN KOBE」を冠する必要はなかったからである。1974 年では「〈0〉研 究所展」、1977 年では「ZERO 研究所展」として「JAPAN KOBE」の文字がない のもそれを裏付けるように思う。しかし、両方の活動を統括する本体はひとつな ので、1977 年の ZERO の活動に対して逆に「ZERO 研究所」とする資料もある(10)

図 13 櫓には「神戸 5 ん00 -00」のプレート

図 14 図 12

(11) 案内状には以下の案内文がある。「現在、

芸術に蔓延している平和性を解体し、芸術の持 つ本来的革命性を展開・再生する one-step と して、我々は、狂騒的に表現 and パックを試み る。」

(12) 本展を取り上げたのは次の雑誌記事であ る。「0〈ゼロ〉の破壊展」『神戸っ子』1972 年 4 月(第 132 号)130 頁、(木下)「祭りの日に は大砲を鳴らせ」『アサヒグラフ』1972 年 3 月 31 日(第 2521 号)11-17 頁、平野重光「展評」『美 術手帖』1972 年 5 月(第 355 号)386-387 頁

◎「解体と再生」展(信濃橋画廊、大阪)

 1972 年 3 月 13 日(月曜日)― 18 日(土曜日)

少人数のメンバーによる展覧会の最初のものである。榎忠・古川清・松井憲作・

和佐一三の当初メンバーが実施(11)。榎によると、ZERO の財源から資金補助をした という。

展覧会の内容は、来館者が持参した思い出の品を粉砕機で砕き、それをパラフィ ンで砲弾状にパック、希望に応じて大砲から発射し、再度破壊する一連の行為か らなる(図 15)。展覧会名は開催後に付けたものである。

榎によると、本展が評価されたこと(12)は ZERO が展覧会に傾注していく弾みに なったという。

◎ 「白布 400㎡」(三宮、神戸) 1972 年 5 月 21 日(日曜日)

第 2 回神戸まつりの 2 日目にその主会場でゲリラ的に行ったイベントである。

当日、参加者は赤いセーターを着用し(前回の虹の衣装も念頭にあったと思われ る)、公式の参加行事であるかのように見せ掛けた。内容は、メンバーが勤めてい た子供服のアパレルメーカー、キムラタンから提供を受けた伸縮性のあるパルプ生 地を使ったハプニングの組み合わせである。巨大な布を広げる場所として神戸ま つりの会場は適していたと思われる。参加者は荒田信介・榎忠・河村肇・坂上陽子・

重浦直巳・高橋春男・俵屋昭二・中井敏夫・中之英子・西尾敬子・林公子・古川清・

松井憲作・山田眞紀子・山田義規・和佐一三ら ZERO のメンバーに知人・友人も 加わった約 40 人。榎のアルバムのメモによると、本番一週間前の 5 月 14 日(日 曜日)、主なメンバー十余人が須磨離宮公園で予行演習を行っている(図 16、17)。

主に写真と 8mm を基にして、内容を詳述しよう。

元町あたりから、「JAPAN KOBE 0」の旗を先頭に、折りたたんだ白布(20m

× 20m)を持って行進(図 18)。途中、三神ビルディング前で布を広げ、以下のハ プニングの③を行い(図 19)、南下して、ポート郵便局の横でハプニング①を行っ た(図 20)。次に、北上し、東遊園地の北でハプニング①②(写真と 8mm では③ は確認できず 図 21)。フラワーロードを南下し(図 22)、ポートホテル前でハプ

図 15

図 16

図 18

図 17

図 19

ニング③②①(図 23)、 休憩後は東遊園地の南でもハプニング①②③を行った(図 24)。

個々のハプニングの内容は次のとおり。

① 長さ 30m の布のトンネルを通り抜ける。布は伸縮性が高く、通り抜けは容易で はない。写真と 8mm によれば、少なくとも東遊園地の北と南では観客も参加し ていた。参加した子供が途中で泣き出し、助け出すために布を切るアクシデン トがあったという。

② 同じく伸縮性の高い三色の布の下にメンバーが潜り込み、中で動いて布を様々 に造形する。

③ 白布で②と同様のことを行う。

④ 最後に、東遊園地の噴水に白布を被せて抑え込む(図 25)。

 このハプニングは前年、前々年のそれとは次の 2 点で異なる。

① 前の 2 つが死(再生も含めて)をテーマにしたのに対し、今回はそうしたテー マは影を潜め、よりエンターテイメント性の高いものだった。

② 前の 2 つが演劇的、物語的だったのに対し、今回は物に即し、その特性を活か したより美術的なハプニングだった。最後の噴水でのハプニングも急遽決まっ たものである。これまでのハプニングはシナリオに基づいたものだが、これは 文字どおりのハプニングである。

①と②の変化は、ZERO が新しい方向を打ち出そうという意図によるのか、提 供された材料に応じた結果にすぎないのか分からない。ここでは、ZERO の活動 内容は変化するし、変化しうることだけを確認しておきたい。

図 20

図 22

図 24

図 21

図 23

図 25

◎ 「ふり、ぶり、ぷりぷり」 展(信濃橋画廊、大阪)

 1972 年 7 月 10 日(月曜日)― 15 日(土曜日)