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教育から回復へ――御子の受肉――

2.1. 神の形成物と聖霊の一致により、人間が行う父の意志とは何か

4.2.5. 教育から回復へ――御子の受肉――

人間は堕罪したことにより、神から「罰の期間」を与えられたが、この「罰の期間」は、

421 AH4.39.1 : Magnanimitatem igitur praestante Deo, cognovit homo et bonum obaudientiae et malum inobaudientiae, uti oculus mentis utrorumque accipiens experimentum electionem meliorum cum judicio faciat, et nunquam segnis neque neglegens praecepti fiat Dei ; et id quod aufert ab eo vitam, hoc est non obaudire Deo, experimento discens quoniam malum est, neque temptet quidem illud unquam, quod autem conservatorium vitae ejus est, obaudire Deo, sciens quoniam bonum est, cum omni intentione diligenter custodiat. Propter hoc et duplices habuit sensus utrorumque agnitionem habentes, ut electionem meliorum cum disciplina faciat.

旧約の時代までであり、御子の受肉に至って、新たな発展が生まれる。

この章では、新たな進展を生み出す御子の受肉が人間に何をもたらすかに焦点を絞り、

御子の受肉の出来事を考察する。そして、エイレナイオスにおける受肉の理解の一側面が、

どのように牧会的な態度に影響を与えるかを見出したい422

罪を犯した者の回復という視点から考えた時、御子の受肉と人間に与えられた神との類 似性の回復の観点を抜きにして語ることはできない。人間は最初に創造された時、『異端反 駁』5巻

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節に記されている通り、神のかたちと類似性に従って造られた存在であっ た423。その箇所を確認したい。

人は初めに、神の両手によって、すなわち、御子と聖霊によって造られ、神のかた ちと類似性に従って造られた424

人間は神のかたちと類似性に従って造られたのであるが、創造の段階で完全な神のかた ちと類似性を有していたわけではなかった。人間は善と悪の知識を得て成長し、完全な神 のかたちと類似性を、将来に得ることが求められていた。『異端反駁』第

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節に は、次のように記されている。

まず本性が現れ、後に死すべきものが不死性に、滅びるべきものが不滅性に勝利し、

飲み込まれ、そして善と悪の知識を得て、神のかたちと類似性に従って人間となる ことになっていたのである425

このように人間は神のかたちと類似性に従って造られたが、同時に、造られた最初の状 態にあっては、あたかも幼児のような状態であり、蛇に唆されて堕罪をしたことは先に記 した。この堕罪によって失ったものこそ、本来、将来において完全な形で得なければなら なかった神との類似性に他ならない。神との類似性が失われたことについて『異端反駁』

422 御子の受肉はアナケファライオーシス(再統合)全体に関わる観念であるが、ここでは全体を取り合う 使うことはせず、受肉と「類似性」の回復から新たにされる人間の成長に焦点を当てた。アナケファライ オーシスの全体的な理解については鳥巣義文「アナケファライオーシス−−−−エイレナイオスの救済論にお ける意味検討−−−−」『南山神学』第6号(1983年)、63−104を参照。

423 エイレナイオスが神のかたちと類似性による人間創造を取り扱っている背景には、グノーシス主義者に よる「かたち」と「類似性」を用いた人間創造の理解があり、これを論駁しようとしている。『異端反駁』

155節を参照。また脚注53から55を参照。

424 AH5.28.4 :plasmatus in initio homo per manusDei, hoc est Filii et Spiritus, fit secundum imaginem et similitudinem Dei,

425 AH4.38.4 : Oportuerat autem primo naturam apparere, post deinde vinci, et absorbi mortale ab immortalitate et corruptibile ab incorruptibilitate, et fieri hominem secundum imaginem et similitudinem Dei, agnitione accepta boni et mali.

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節には、次のように記されている。

かつて、事実、人は神のかたちに従って造られたと言われていたが、示されては いなかった。人が神のかたちに従って造られた御言葉は、不可視であった。その ため、類似性も容易に失ってしまった426

この類似性の喪失は、条件付きではあったが、人間に与えられていた「不死性」の喪失 に他ならない。これにより、人間は一時的な生命のみを持つ存在となったのである427。 受肉は、まさに堕罪によって神との類似性を失った人間に再び類似性を得ることができる ように、かつて不可視であった御言葉である御子が人々に現れることによって、神の「か たち」を明らかにし、人間に神との類似性を取り戻させる働きがある。『異端反駁』第

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節には、次のように記されている。

しかし、神の御言葉が肉となったとき、〔2つの〕いずれも確かなものにした。すな わち、彼のかたちであったものになることで、真のかたちを明らかにし、また人間 を目に見える御言葉によって、目に見えない父に似たものとすることで、類似性を も強固にもと通りにしたのである428

そして『異端反駁』第

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節を見ると、人間が神のかたちと類似性に従って創造 されたことを取り戻すことが、人間の「救い」であると記されている。

彼が受肉し、人間となったとき、彼は人間の長い歴史を自らのうちに再統合した。

集約〔した形〕で、私たちに救いを与えたのである。それは、私たちがアダムにお いて失ったもの、すなわち、神のかたちと類似性に従って〔造られた〕ものである こと、これをキリスト・イエスにおいて取り戻すためである429

426 AH5.16.2 : In praeteritis enim temporibus, dicebatur quidem secundum imaginem Dei factum esse hominem, non autem ostendebatur ; adhuc enim invisibile erat Verbum, cujus secundum imaginem homo factus fuerat ; propter hoc autem et similitudinem facile amisit.

427 『異端反駁』第5122節では、「命の息」と「聖霊」を区別して、次のように記されている。「人 間を心魂的にするのは生命の息で、これが1つ、他に人間を霊的に生かす生きた霊が存在する。(AH5.12.2:

Aliud enim est afflatus vitae, qui et animalem efficit hominem, et aliud Spiritus vivificans, qui et spiritalem eum efficit.

428 AH5.16.2: In praeteritis enim temporibus, dicebatur quidem secundum imaginem Dei factum esse hominem, non autem ostendebatur : adhuc enim invisibile erat Verbum, cujus secundum imaginem homo factus fuerat ; propter hoc autem et similitudinem facile amisit. Quando autem caro Verbum Dei factum est, utraque confirmavit : et imaginem enim ostendit veram, ipse hoc fiens quod erat imago ejus, et similitudinem firmans restituit, consimilem faciens hominem invisibili Patri per visibile Verbum.

「神のかたち」と「類似性」は、第一に御言葉である御子のうちに存在していたが430、 御子の受肉によって、人間はアダムにおいて喪失した「神のかたち」と「類似性」を再び 取り戻すことが可能となった。けれども、この時点で、最終的な成長の完成に至ったので はない。人間は自身が「神のかたち」に従って創造されていたことを思い出し、完全な「類 似性」を得るために、御子の受肉以後も成長し続けなければならない。

しかし、ここで重要なことは、旧約の時代まで与えられていた「譴責」による「罰の期 間」の中を人間は引き続き生き、成長するのではなく、御子の受肉が到来したことにより、

人間は新たに再出発することができるのである431。この点に関して『証明』第

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章をみた い。

それで、主は、この人間を再統合しようとしたとき、〔アダム〕が肉〔なる人〕とな った、その〔救済史の〕営み〔の経過〕を再現した。〔父なる〕神の意思と知恵によ って処女から生まれたのである。それは〔主〕もアダムという肉なる人の写しとな るため、そして〔聖書の〕初めに書かれている通り、人が神の「似像および似たも のと」〔創

1:26〕される〔コロ 3:10

参照〕ためであった432

この箇所には「主は、この人間を再統合しようとしたとき」との記述がある。この部分 を大貫隆は「主はこの人間(アダム)を今一度完成させるために」と翻訳している433。御 子は人間に「神のかたち」を知らせ、またアダムが堕罪によって喪失した神との「類似性」

を取り戻させ、人間を「今一度完成させる」ために受肉したのである。

4.2.6

実際に罪を犯した者への牧会的適応

堕罪をしたアダムとエバに対する神の取り扱いを、

(1)から(6)まで分けてまとめてみよう。

429 AH3.18.1 : sed quand incarnatus et homo factus, longam hominum expositionem in seipso

recapitulauit, in compendio nobis salutem praestans, ut quod perdideramus in Adam, id est secundum imaginem et similitudinem esse Dei, hoc in Christo Iesu reciperemus.

430 Iain M. Mackenzie, Irenaeus’s Demonstration of the Apostolic Preaching a theological commentary and translation, 160.

431 John Lawson, The Biblical Theology of Saint Irenaeus,.143.

432 エイレナイオス『使徒たちの使信の説明』、224頁。

433 大貫隆『ロゴスとソフィア』228頁。Behrは“ rcapitulating this man”と訳し、SmithRobinson、

そしてMackenzieは共に“ afresh this man”としている。John Behr, St Irenaeus of Lyons, On the Apostolic Preaching, 61. J.P. Smith, St. Irenaeus. Proof of the Apostolic Preaching, 68. Iain M. Mackenzie, Irenaeus’s Demonstration of the Apostolic Preaching a theological commentary and translation, 11.

J.A. Robinson, St Irenaeus, The Demonstration of the Apostolic Preaching, London: S.P.C.K., 1920. 99.

そうすることで、実際の牧会において、どのように罪を犯した者に接するべきかを見るこ とができる。

(1).

アダムとエバは蛇から「不死性」を理由に誘惑され堕罪をした。(2). 堕罪後のアダ

ムはイチジクの葉を身につけることによって、悔い改めを神に示した434。(3). 神は悔い改 めたアダムを憐れみ、毛皮を与えたのである。(4). 同時に、神は「罰の期間」をも彼らに 与えた。この「罰の期間」が与えられた理由に注目すべきである。神が人間に「罰の期間」

を与えたのは第一に「神から呪われて、全く滅んでしまうことがないため」であり、第二 に「神を軽んじるようなことがないため」である。つまり、神は人間に「罰」を与えたと 言うよりも、人間の回復のための期間を備えたと言えよう。(5). また神は人間の堕罪を失 敗の一つとして扱い、続けて憐れみをかけ続ける。(6). 人間の側は、堕罪という失敗を通 して「何が善であり、また悪であるか」を学び、さらに回復へと導かれる。それが「御子 の受肉」である。御子の受肉により、人間はアダムが堕罪によって喪失した神との「類似 性」を取り戻すことが可能となった。

以上のことから見えてくる牧会的適応を次のように言い換えることができる。

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つの段階 として記したい。(1). 何が罪を犯した信者にとって誘惑となるものであったかを的確に捉 え、公の罪の告白と悔い改めに導くこと。(2). 悔い改めた信者に対して憐れみをかけ、そ の者が必要としているものを与えること。(3). 同時に「譴責」としての罰の期間を設ける こと。(4). 「罰の期間」の中で、実際に犯した罪が「失敗」であったことを伝え、その罪 を通して教育へと導くこと。(5). 何が神に喜ばれる「善」であり、反対に何が「悪」であ るか特に「善」を行うことへと教育する。(6). 御子の受肉によって、自分たちが完成へと 至る道が開かれていることを教える。これらのプロセスを通じて、牧会者は実際に罪を犯 した者を回復へと導くことが求められる。

5.まとめ

本章では、第一にエイレナイオスの司牧観を概観した。神は人間を、自立性を持つ存在 として創造した。その目的は、人間が神の意志を行うこと、すなわち、善を行うことであ る。また、神は人間をあたかも幼児のような存在として造り、人間に神化への成長を与え た。この過程で、司牧者は信者を「使徒的権限」と「聖書」を用いて導くのである。本章

434 『異端反駁』第1135節には、一人の執事の妻が魔術師に騙されて、心と体の両方に被害を受け た。その後の彼女の様子について、エイレナイオスは次のように記している。「彼女は、この魔術師から受 けた汚れを泣き、また嘆き、罪を告白して時間の全てを費やした。(AH1.13.5 : omne tempus in

exomologesi consummauit, plangens et lamentans ob hanc quam passa est ab hoc mago corruptelam. このようにエイレナイオスは、罪の悔い改めが公になされることを主張している。

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