創造において、神はどのように人間に「助言」を与えたのであろうか。『異端反駁』第
4
巻37
章4
節には、次のように記されている。けれども、人間は初めから自由な判断をする者であった。それは〔人間が〕似せて 造られた神が、自由な判断をするからである。善を保持することを、常に彼に助言 し、(この善は)神に対する従順によって全うされるものである281。(下線筆者)
ここで明らかなことは、神は人間が初めに造られたときから常に助言を与えているとい うことである。この神からの助言は、人間が「自由な判断をする者」すなわち「自立性」
を持つ存在として造られたことと大きな関係がある。つまり神は人間に「自立性」を与え、
自由な判断をすることができるように創造したが、創造後に人間と関わらないような神で はなく、むしろ、神に従順であることで「善」を保持し続けることができるように、人間 に常に「助言」を与えるのである。なぜ人間が「善」を保持する必要があるかと言えば、
人間は神に従順であることが、人間の生命を保持する条件であったからである282。では、
創造において、聖霊はどのように人間に接したかをも考えなければならない。『異端反駁』
第
4
巻20
章1
節には次のように記されている。281 AH4.37.4 : Sed quoniam liberae sententiae ab initio est homo, et liberae sententiae est Deus cujus ad similitudinem factus est, semper consilium datur ei continere bonum, quod perficitur ex ea quae est ad Deum obaudientia.
282 これについては『証明』第15章でも述べられている。「そして、神は人にある条件を課した。人が神 の命令を守ったなら、そのとき、人は自分が置かれていた状態、つまり不死のままでいつまでもとどまる ことができる。しかし守らなかったなら、死すべきものとなり、自分の身体がとられた地の中に溶け去っ てしまう。〔このような条件を課されたのであった〕〔創2:7、3:19参照〕。『園にあるすべての木からあ なたは確かに食べてよい。しかし善と悪の知識の元になる木からだけは食べてはならない。食べる日には あなたは確かに死ぬであろうから』〔創2:16−17参照〕。これがその命令であった。」エイレナイオス『使 徒たちの使信の説明』、213頁。
神は地の泥を取り、人を形造り、そして、彼の顔に生命の息を吹き込んだ。それ 故、私たちを造ったのも、私たちを形造ったのも天使たちではなく、天使たちも、
真の神のほかの他の者も、万物の父から遠く離れた力も、神の似像を造ることは できないからである。また神は自らのもとで予め決定したものを造るのに、あた かもご自身の両手を持っていないかのように、これら(天使たち)を必要とした のでもない。神の側には常に御言葉と知恵、御子と聖霊(がおり)、(御言葉と知 恵)によって、また、(御言葉と知恵)のうちに、また自発性を持って万物を 造り、(御言葉と知恵)に向かって語り、「私たちのかたち(似像)に、また類似 性に人を造ろう」と言ったのであり、ご自身で創造されたものの存在と、造られ たものと、世にある美しいものの型をご自身から取ったのである283。(下線筆者)
このように聖霊は、父なる神の「両手」として御子と共に存在していた。そして「神の 両手」である御子と聖霊が人間を形造った。そのため、創造において、聖霊は人間の言わ ば「外側」に臨在し、「助言」を与えていたと考えることができよう。その助言を与えられ る人間とは、堕罪前の状態で考えるならば、「すべての人間」と表現してもよいであろう。
1.4.
旧約の時代における「助言」の聖霊続いて旧約における「助言」の聖霊の働きについて見たい。『異端反駁』第
4
巻37
章2 節を見ると、旧約の時代では、神は預言者を通して人間に「助言」を与えていたことが記 されている。そして、この故に、預言者たちは義を行い、善のために働くように人々を促した。
私たちが多くのことで明らかにしたように、これが私たちのうちにあり、また、私 たちは、多くの不注意のために忘れてしまい、また善い助言に欠けるようになって いるからである。善い神は、預言者たちを通して、善い助言を与えようとしていた のである284。(下線筆者)
283 AH.4.20.1 : Et plasmavit Deus hominem, limum terrae accipiens, et insuffavit in faciem ejus flatum vitae. Non ergo angeli fecerunt nos neque plasmaverunt nos, neque enim angeli poterant imaginem facere Dei, neque alius quis praeter verum Deum, neque virtus Longe absistens a Patre universorum. Neque enim indigebat horum Deus ad faciendum quae ipse apud se praefinierat fieri, quasi ipse suas non haberet manus. Adest enim ei semper Verbum et Sapientia, Filius et Spiritus, per quos et in quibus Omnia libere et sponte fecit, ad quos et loquitur, dicens: Faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostrum, ipse a semetipso substantiam creaturarum et exemplum factorum et figuram in mundo ornamentorum accipiens.
284 AH4.37.2 : Et ideo prophetae [bonum quoque] hortabantur homines justitiam agere bonumque
このように旧約の時代では、預言者を通して神からの「助言」が与えられた。神が預言 者を通して「助言」を与えたことは、預言者たちに聖霊が働くことで、人間が神と交わり を持つことに慣れるという側面もあった285。この神が人間に「慣れる」というテーマは、
御子の受肉で再び語られる。ここで聖霊が預言者を通して働いたと述べると、一つの疑問 が生じる。それは「果たして御子の受肉前の人々が聖霊を有していたか」という問いであ る。この点に関して、エイレナイオスの
2
つの重要な証言を挙げることにする。エイレナ イオスは『証明』第6
章と第56
章で、次のように記している286。『証明』第6
章には、次 のように記されている。第三の箇条は聖霊である。預言者が預言し、族長たちが神について教えられ、義人 たちは義の小径に導かれたが、それらのことはみなこの聖霊を仲介としてなされた り」新しいやり方で全地上に拡がる人類の上に注がれている287。
また『証明』第
56
章には次のように記されている。キリストが現れる前に死んだ人々、神を畏れ、義(の状態)で死に、自分たちの内 に神の霊を有していたすべての人々、(つまり)族長たち、預言者たち、義人たち
のような人々は、復活した〔キリスト〕による裁き〔の日〕に救いに達するという
希望をもっていたからである288。
ここから考えることができるのは、堕罪後から御子の受肉前までの期間においても「聖 霊を有する」人々がいたということである。けれども「聖霊を有する」と言った場合、そ れは「聖霊の内在」ではなく、「聖霊の臨在」を受けていたと考えることが妥当であろう。
operari, sicut per multa ostendimus, quia in nobis sit hoc et propter multam neglegentiam in oblivionem inciderimus et consilio egeamus bono: propter quod bonus Deus praestabat bonum consilium per prophetas.
285『異端反駁』第4巻14章2節には、次のように記されている。「このように神は初めからその寛大さの 故に人間を形造り、父祖たちを彼らの救いのために選び、無学な民に神に従うことを教えようとして、予 め民を形成し、人間が地上で霊の担い手となり、神と交わりを持つことに慣れるよう、預言者たちも予め 教育した。(AH4.14.2 : Sic Deus ab initio hominem quidem plasmavit propter suam munificentiam;
patriarchas vero elegit propter illorum salutem; populum vero praeformabat, docens indocibilem sequi Deum; prophetas vero praestruebat, in terra assuescens hominem portare ejus Spiritum et
communionem habere cum Deo. )
286 Anthony Briggman, Irenaeus of Lyons and the Theology of the Holy Spirit, 163.
287 エイレナイオス『使徒たちの使信の説明』、208頁。
288 エイレナイオス『使徒たちの使信の説明』、240頁。
後述するが、実際に聖霊が人間に内在するのは、御子の時代を待たなければならない。こ の「聖霊の臨在」は、族長たち、預言者たち、義人たちに「キリストの復活への希望」に ついて預言を通して「助言」として与えていたとも考えることが出来るであろう289。
1.5.
御子の受肉における「助言」の聖霊御子の受肉では、神はどのように人間に「助言」を与えたのであろうか。まず『証明』
第
55
章の記述をみたい。〔イザヤ〕は〔この男の子〕のことを「不思議な助言者」、しかも父の〔助言者〕
と呼んでいる。どんなことであれ、すべてのことを父が成し遂げるのはいつもこの 〔助言者〕とともに〔行うの〕だということを指摘しているのである。われわれの もっている「創世記」という標題の付いたモーセ〔五〕書の最初の書物に「そして、
神は言った。さあ、われわれは自分たちの似像および似たものとして人を造ろう」
〔創
1:26〕とある通りである。ここにこの方をはっきりと見ることができる。父は、
父の不思議な助言者として子に語りかけているのである。さて、〔子〕はわれわれ の助言者でもある。「力ある神」でありながら、助言は与えるけれども、神として 強制しない〔方であり〕、われわれが無知を捨て去って知識を受け、誤りから抜け 出して真理の許に来るように、そして腐敗を除き去って不朽性を受けるようにと勧 めている。〔イザヤはそのように〕言うのである290。
ここで御子は誕生の前から常に神の「助言者」であり、また、誕生の後では人間にとっ ての「助言者」であることが指摘されている。御子が人間にとって「助言者」であるとい う点をより明確に掘り下げて考えていくために、次いで、御子の誕生についての記述を見 たい。『異端反駁』第
3
巻21
章4
節には、聖霊が「処女から生まれたインマヌエルが信じ る者たちのうちに住み着くこと」を告げ知らせていたことが記されている。というのは、1つの同じ神の霊が、主が来ることがどのようなもので、どのような 質のものであるかを預言者たちによって触れ回り、また善く預言されたことを長老 たちによって善く解釈した〔のであるが〕、その
1
つの同じ神の霊が、また養子と する時の充満が来たこと、天の国が近づいたこと、処女から生まれたインマヌエル289 Anthony Briggman, Irenaeus of Lyons and the Theology of the Holy Spirit, 181.
290 エイレナイオス『使徒たちの使信の説明』、240-241頁。