本章は,教室文化の文化化について究明することを目的とする。これは,本 研究の主要な結論である。第1節では,「教室文化の文化化」とは何かを定義す る。第2節では,数学的活動による教室文化の文化化について述べる。第3節 では,記号論的文化化として「意味の連鎖」に基づいて,数学的活動を構想し,
教室文化の文化化の事例を示す。第4節では,社会・文化的な学習理論から,「誤 り」からの理解,「模倣」としての学習,「参加」としての学習について,事例 を示しながら述べる。最後に,「儀式」としての教室文化に着目し,生命論的教 室文化への文化化の理論と事例を考察する。
第1節 教室文化の文化化
1.1.教室文化の文化化
一般に,文化は伝統や習慣として受け継がれていくと同時に,常に変化して いるものである。文化の変動には,コミュニティーや成員が適応することによ って変化することと,文化そのものが変化することがある。つまり一般に,文 化変動(culture change)には,文化化(enculturation)と文化変容(acculturation)とい う二つの概念がある。教室文化も同様であり,規定され構築されながら,変化 しているものである。
ここで,文化化とは,「特定の社会内部で,成員をその社会特有の文化のパタ ーンに適応させること。主として幼少の時期の学習を通じて,その社会の衣食 住その他の行動様式や思考様式を取り入れ,共有の価値態度を内面化されるこ と」(辰野他,1986, p. 354)である。つまり,集団の成員に着目した概念である。
また,文化変容(acculturation)とは,他の文化との接触という外在的な要因に よって,文化が変化することである。つまり,異なる文化をもつ人間の集団が,
直接的,永続的に接触することで,その結果として一方または両方の集団の生 活様式が変化する現象をいう(下中,1971, p. 1245; 廣松他,1998, p. 1425)。こ れは,「文化触変」と訳されることもあり,文化そのものの変動を示している。
児童・生徒は数学教育における文化化の過程にあるとともに,外的要因によっ て,教室文化は文化変容している。このような中で,本研究では,「文化化」に 着目した。教室における成員である教師と児童・生徒が協同で文化化すること を意図しているからである。つまり教室における文化化とは,教師と児童・生 徒が共に教室文化の変動に参加することを意味している。そして,これを「教 室文化の文化化」と呼ぶことにした。
第3章で述べたように,教室そのものが,機械論的教室文化の伝統から創設 されたものである。また,教育制度,カリキュラム,教科書なども,機械論的 産物である。つまり,生命論的教室文化は,そのような機械論的教室文化を,
その一部として包括しているととらえるべきである。
そして,図1のように,教室文化の文化化とは,機械論的教室文化から生命 論的教室文化へと,教室の成員である教師と児童・生徒が文化化するという意 味である。つまり,数学教育として,文化変容そのものよりも,教師や児童・
生徒の成長・発達に着目しているのである。
文化化
機械論的教室文化 生命論的教室文化
図1 教室文化の文化化
1.2.数学的文化化と教室文化
数学教育における教室文化は,数学的文化化の過程に位置づけられる。我が 国の児童・生徒は,学習指導要領の目標にあるような数学的文化への数学的文化 化の過程にある。教室文化は,そのような過程に対する分析単位である。
数学教育において,「文化化(enculturation)」に着目したのは,Bishop(1988)で ある。「数学的文化化(Mathematical Enculturation)」とは,「形式的な数学的文化 化の目標は,子どもに,記号化,概念化,そして数学文化の価値を伝えること である 」(p.89)と述べている。そして,数学的文化化に対する観点として、
次のものを挙げている。
《第一の観点は,数学的文化化への参加者の非対称性である。これによって,
その過程はダイナミックなものとなり,意図的な現実の過程となる。教師と学 習者は,対等な関係ではないし,同じ役割をもっているのでもない。》(p. 12)
教師は,学級を経営する責任と権限をもっている。算数・数学の授業において も同じである。ただ,授業において教師が,児童・生徒と対等な学習態度をとる 場面はある。しかし,それは学習という場面におけるものであって,学級経営 における一つの役割なのである。
しかし,非対称性は,教師が権威主義によって学級を経営することを勧めて いるのではない。むしろ,そうならないために,Bishop(1988)は,次の 3つの
原則を示している。
《第一の原則は,教師の指導は,理に適ったものでなければならないというこ とである。
第二の原則は,学習者が構成的で協同的に数学的文化化に取り組めるように,
教師は指導しなければならないということである。
第三の原則は,教師の指導は支援を中心としたものでなければならない。数 学的知識を学習者に押しつけてはならないということである。》(pp. 130-135)
これらの原則は,構成主義の立場に近い指導のあり方である。Bishop(1988) は,そのような立場をまえて,教室における学習指導を考察した。そしてさら に,次のような第二,第三の観点を示している。
《第二の観点は,数学的文化化には意図や目的があり,目標に則した過程とな っているということである。》(p. 135)
《第三の観点は,数学的文化化は概念についての過程であり,考え方や意味を 具体化したものであって,行動や技能ではないことである。》(p. 151)
これらの観点は,数学的文化化が数学の概念形成に対する合目的的な過程で あることを示している。
1.3.教室文化の文化化におけるデザイン
機械論的教室文化から生命論的教室文化への文化化について,デザイン科学 の観点から考察する。「教室文化の文化化」は,数学的文化化をより焦点化した 部分である。数学的文化化は,数学教育そのものを視野に入れた広い概念であ る。したがって,Bishop(1988)が述べる数学的文化化の過程を教室文化に適用 するだけでは,「教室文化の文化化」を究明できない。
なぜなら,「教室文化の文化化」は,複雑な学習指導の過程から成り立ってい るからである。教室における児童・生徒の学習は,Vygotskyの観点から,数学 的概念が児童・生徒の生活的概念へと内化している過程を含んでいる(柴田義
松,2006)。つまり,「教科内容の材料」としての教材は,数学的文化を生活の
文化へと変容させるための材料という見方ができる。もちろん同時に,教材は 生活の文化を数学的文化へと,児童・生徒を文化化するための材料である。
そこで,教師は,算数・数学教育のデザインを念頭においていく必要がある。
つまり,教室文化に対して,「デザイン科学(Wittmann, 1995; ビットマン他,2004;
山本,2009)」の観点が必要となる。デザインとは,「現在の状態をより好まし いものに変えるべく行為の道筋を考案 (山本,2009, p. 61)する」ことである。
つまり,人為的に教室文化における数学的文化化をデザインすることを考慮し なければならない。
教室文化に対するデザインは,二つの数学教育学的観点からとらえられる。
一つは,Chevallard (1992, 平林一榮[訳]; 2007)の「知識の人類学」である。こ れは,社会における知識がどのような機能を持っているかを,文化人類学的に 考察するものである。
《文化が知識を取り扱う様式は、どんな効果を生ずるかを、見なければならな い…。知識の生産は、正面に押し出されてもてはやされるが、知識の利用は、
不透明で、無視されたままである。知識の教育は、利用よりも文化的に…見え るが、劣化され、偶発的で、余り必要のない企てとみなされる。…
教えられる知識はどこから来たのであろうか。…それは生産の施設…である。
それはいかにして、教授学的施設にまで運ばれたか。それは、教授学的変換の 手続きによってである。》
現代社会は「知識基盤社会」と述べられるように,資本主義における資源で あった資本と労働力が,知識に取って代わられる社会となっている(ドラッカ
ー,1993)。Chevallard (1992, 平林一榮[訳])によれば,知識の社会的な機能
には,次のようなものがある。
・知識をつくる
・知識を応用する
・知識を教える
そして,これらの中で,従来「知識をつくる」機能が,最も重視されてきた。
知識の応用は劣ることとされ,「知識を教える」ことは,さらに軽視されること が多かった。これは,教育学部の教員の間にある,次のような会話からわかる。
《あるディスコース》
ある教科教育学者:教育学部では,教員を目指す学生の手本となるような教師 教育を目指さなければならない。
ある科学者:教育,教育というが,教育はだれでもやっていることでないか。
私は,大学で教育を受けたし,現に学生を教育をしている。それ とどこが違うというのか。
Chevallard (1992, 平林一榮[訳])が主張するのは,「教授学的変換」の重要
性である。これは,「生産された知識」を「教えるための知識」として変換する 機能である。教授学的変換とは,カリキュラムや授業の開発を知識人類学とし てとらえたものである。
知識人類学における教授学的変換は,教室文化が,教育の実態や社会制度,
科学や歴史における文化から規定されていくことを示している。つまり,教室 文化のデザインは教授学的変換であり,文化変容の観点に立つことになる。