• 検索結果がありません。

1.18世紀末から19世紀半ばまでの刑事訴訟法改革の動き

――糺問から弾劾へ 1 18世紀に発達した啓蒙思想を基盤にドイツは改革へと動き始める。フ

刑事手続における 原則(1)(松倉)

ランスの二月革命から大きな影響を受け三月革命へと向かうドイツ民主主 義の潮流は,刑事手続にも及んだ。まず,ドイツ刑事手続が採用する糺問 訴訟に対する欠点が認識されはじめた。ドイツの糺問訴訟の「内部からの 原理的変革,徹底的変革は,その歴史的な基本形態の否定と新しい基本形 態の援用なしには…もはや不可能」であると認識された145)。被疑者・被 告人の主体性および権利の確立,裁判官の権力を制限することが求められ た146)

糺問主義の克服は,啓蒙思想の影響を受けており,その主たる関心事は,

①権力による抑圧に対する権利の確保,②執行権の介入に対する司法の独 立の保障,③国家の絶大な力と国家の権力の担い手の恣意からの人格の保 護であった147)

ドイツの刑事手続改革は,当時の政治的リベラリズムによって支えられ た148)。ドイツにおける絶対主義体制が崩壊し,政治的リベラリズムに よって特徴づけられた国家観によって国家が変化したとき,いわゆる「改 革された刑事訴訟」立法改革の運命は決定づけられたと評価されてい る149)。つまり19世紀半ばには,ドイツ社会は,立憲国家へと展開し,か つ,基本的自由を尊重しようとした。犯罪訴追において犯罪関係者個人は 容易に利用されえないと考えられるに至る150)。川崎英明教授によると,

「自由主義の政治理念は,口頭・公開の弾劾訴訟の導入の主張を支えた。

絶対主義政治体制の下で権力の客体とされてきた臣民を公民として権力の 主体とすることを主張したドイツ自由主義は,糺問訴訟における糺問判事 と被疑者・被告人との主体客体関係ないし支配服従関係を,絶対主義ない し警察国家の思想の刑事手続的反映として批判し,その放逐を要求した。

すなわち,政治的関係における市民の権利主体性の承認は,刑事手続に対 しても市民たる被疑者・被告人の権利主体性の確立を求めるものであって,

このことは糺問判事の手続支配と被疑者・被告人の権利主体性の否定とい う糺問訴訟の基本構造の排斥を意味した」151)

ドイツ初の帝国統一的な近代刑事訴訟法であるカロリナ刑事法典の制定

に続く,この「ドイツ刑事手続の第二の画期的大変革」152)は,改革され た刑事訴訟法期と呼ばれる。改革された刑事訴訟法とは,ドイツ自由主義 思想による要求により,1848年以降ほとんどのドイツ各領邦によって,素 人裁判官(陪審員あるいは参審員),検察制度,公開主義,口頭主義,自 由心証主義,さらに一部では予審判事による事前手続の指揮を導入された 新しい刑事訴訟法をいう153)

このような自由主義に基づく刑事手続改革において,

Nemo tenetur

原 則は,どのように現れたのであろうか。また,その際の意味づけはどのよ うなものであったのだろうか。本節では,18世紀末から19世紀半ばまでの 改革された刑事訴訟期におけるドイツ刑事訴訟の

Nemo tenetur

原則の位 置づけと意義について概観する。

なお,改革された刑事訴訟期は,国家,政治,思想,社会等あらゆる面 において変動期であり,この変化の要因を特定することは困難である。ま た,法原則や法的基本思考は,時代や論者によって意味が変化し続けるも のであると考える。それゆえ,本節では,できる限り当時の文献に依拠し,

Nemo tenetur

原 則 お よ び そ の 周 辺 の 議 論 を 描 き 出 し,今 日 の

Nemo

tenetur

原則の確立のための要素を明らかにする一助としたい。

2 フランスでは,啓蒙思想による合理主義と人道主義の志向に基づき,

秘密かつ書面主義の糺問訴訟が廃された154)。1789年に始まったフランス 革命直後,フランスの刑事手続は,イギリス法にならって訴訟主義,公開 主義,口頭主義,陪審制度を採り入れたが,やがて大陸の糺問手続を加味 して予審制度を創設するに至った。この訴訟形態を完成させた法律が,

1808年のナポレオン治罪法典(Code d'Instruction Criminelle)である。

しかし,ドイツでは,拷問廃止後も,糺問訴訟が維持された。このよう な状態において,被疑者・被告人の法的地位は改善されず,単なる客体に 貶められていた155)。ドイツの諸領邦において,秘密かつ書面主義の糺問 主義刑事訴訟を改革し,口頭かつ公開の弾劾訴訟を導入しようとする動き は,19世紀前半に起こり,特に1830年から1840年代に高まった156)

刑事手続における 原則(1)(松倉)

3 糺問訴訟に対する主な批判点は,手続の書面主義と秘密主義,法定証 拠主義,同一人が訴追官と弁護人と裁判官を兼ねるという職業裁判官の無 限の権限,被疑者・被告人の法的地位や権利の脆弱さであった。特に,公 判裁判官が証拠に直接接しえないことは,真実発見にとって危険であると 認識された157)。三月革命期には,「ドイツの刑事手続には一定の基本的な 欠陥があり,被告人に対する不法な圧迫や実体的に不正な判決に対する不 可欠の保障を欠いている」という認識158),そして「判決を下す裁判官の 面前での直接主義と糺問手続の憂慮すべき方向性を除去することが不可欠 である」という改革の必要性159)について,学説および実務は一致してい た。特に告発者の役割と裁判官の役割が結びついていると,糺問官は「偏 見のない冷静な真実発見」をすることが難しくなる。被疑者・被告人の法 的地位に関しては,被疑者・被告人は,事前手続において弁護人をつける ことができず,虚言罰を含めあらゆる策を用いて何とかして被疑者・被告 人から自白を獲得しようとする糺問官のもとに置かれた160)。さらに被疑 者・被告人は,長期の「隔離」という拷問に耐えなければならなかっ た161)。被疑者・被告人は,第一審判決によって初めて自身がいかなる罪 で処罰されたかを知ることができる状態にあったため,第一審判決までは 十分な防禦を行うことができず,控訴審段階において初めて防禦を行うこ とができたという。さらに,犯罪行為がいかなる罪にあたるか判断が難し い場合,糺問官も安定せず,取調べは長期化した162)

ドイツの刑事訴訟の糺問主義の欠陥の除去が試みられるにあたり,「実 体刑法の領域よりもずっと激しく,刑事手続法に関して,法治国家的―リ ベラルな要請の意味での新法を獲得しようと努力」された163)。つまり,

ドイツの刑事訴訟改革は,公開,直接かつ口頭の公判手続,検察官制度の 導入,陪審裁判所による素人参加,政府による司法介入の廃止および裁判 官の独立が主たる目標とされた。被疑者・被告人に対する保障の欠如およ び被疑者・被告人に対する「ほぼ無制限といってよい糺問官の支配」が批 判された164)。特に,改革の眼目は,裁判官による真実発見とその地位の

改善にあり,裁判官・訴追者・弁護人の機能を分離すべきであるという点 は一致していた。しかし,議論が,被疑者・被告人に訴訟主体たる当事者 としてふさわしい権利を保障すべきだという要求に至ると,見解が分かれ た165)

4 ドイツの糺問訴訟には欠陥があり,それを除去しなければならないと いう認識は共通していた。しかし,新たなドイツの刑事手続が,フランス 法が採用する弾劾形式を採用するか,あるいは,イギリス法と同じ弾劾主 義を職権追行主義(

Verhandlungsmaxime

)でも採用しうるかが問題と なった166)。つまり,形式的な弁護の拡張と本質的にはなんら有用ではな い終結弁論手続とを承認して,現在の糺問訴訟の単なる補修をめざす「手 直し論」167)と,真の意味で弾劾主義に基礎を置く改革をめざす「改革論」

との対立である168)。この「糺問主義弾劾形式」と「弾劾主義」との争い は,1840年以降ますます先鋭化した169)

5 ドイツにおける改革された刑事訴訟の動きを支えた当時の背景として,

少なくとも3点指摘する必要がある。

第一は,いわゆるデマゴーグ訴追である。このデマゴーグ訴追において,

被疑者・被告人に対する圧力が最も強力に現れた170)。デマゴーグの訴追 の投入以来,糺問訴訟は,耐えられない制度であるように感じられ,国家 に左右される裁判官に対する不信感も高まった171)

第二は,学問による寄与である。19世紀の刑事訴訟改革期における法律 家らによる「素晴らしい学術的業績」は,手続法改革に決定的な影響を与 えた172)。当時,フランスおよびイギリスの刑事手続を中心とする詳細な 比較法研究が行われた173)。特に,ドイツにおける

Nemo tenetur

原則は,

特に弾劾主義に基づく被疑者・被告人の尋問の意義に関するフランス法お よびイギリス法研究の中にあらわれた。例えば,

Feuerbach

は,1821年 の著書『司法の公開主義および口頭主義に関する一考察(Betrachtungen

uber die Offentlichkeit und Mundlichkeit der Gerichtigkeitspflege)

』におい て,フランス刑事手続の欠陥を指摘し,イギリス刑事手続の長所を強調し

刑事手続における 原則(1)(松倉)

関連したドキュメント