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懇
壺型土器
口径Hcm、 底径Z4cm、 器高20.lcm。 胴部下半 に最大径 を持 ち、頸部 か ら回 縁部 にかけては さほどくびれず、ゆるい立 ち上 が りを示す。口縁部 か ら底部 にかけて縄 文 を施文。
甕形土器
口径12.5cm、 頸部 か ら口縁部 にかけて曲線 状 にゆるく外反 し、4のような壺 形土器に近 い特徴 を持つ。回唇部下端 に小刺突 を持 ち、口縁部 から頸部 にかけて
6本
1単位の櫛描沈線 が波状 に数段施文。頸部 から胴部 に移行す る部分 には同様 は櫛描沈線 が 横位 に施文 され、それよ り下位 は縄文 を施文。
甕形土器
口径22cm、底径7cm、 器高30cm。 単純 口縁 を呈 し、頸部 から口縁部 にかけて 強 くくの字 に外反す る。口唇部 には,夫い小刺突 が残 る。口縁部 から頸部の屈曲す る部分 にかけて半裁竹管 による連弧文 が
6段
施文 され る。 これより底部 にかけては付加条縄文 を施文。底部 には本葉痕。大腐遺跡
遺跡 の立地 、概要 につ いては第1節と重複す るため、 ここでは後期 に属す る遺構 、遺物 に関 関 してだけを記載す る。
検 出 される遺構 はすべて竪穴住居址で、20軒 を数 える。 これは中期の遺構総数の約半分であ る。内訳 は、久 ケ原 期 10軒 (12軒)、 弥生 町期
2軒
、前野 町期8軒
で、この他 に正確 な判 断はむず か しいが、宮 ノ台期 か久ケ原期のいずれかとも決めがたい住居址 が7軒
ほど挙 げられ る。 あるいは古墳築造の際 に消滅 した竪穴住居址 も考 えられるが、いずれに して も30軒前後の 存在 が考 えられる。これ ら各時期 の竪穴住居址の台地 における占地 は、非常 に興味深い事象がい くつかあげられ るとともに、これ らの竪穴住居址 を考 える意味 において中期の占地 を切 り離 して考 えることは 不可能 なことで ある。
久ケ原期の竪穴住居址
(Y‑14・
15・ 18・ 19・ 20・ 21・ 23・ 33・55)は
記述 された範囲で理 解 されるのは9軒
で、 この うち7軒
が東西 に伸 びた台地 の中央部 よ りやや西側 に集中 し、他 の2軒
は東側の中期集落址の中に地点 を異 に して位置す る。Y‑15号
址のよ うに長辺 が10mを
測 る大形の もの もあるが、概 ね4〜 6m前
後 の楕円形、不整円形、隅丸方形 を呈 し、 この中で も 不整円形、隅丸方形 を呈す るものは前時代 には見 られなかったもので、やや新 しい形態 に属す るものであると指摘 している。遺構分布図 によれば、地点 を異 に したY‑33・
55号址 は、はた して他 の集 中 した同時期 の住居址 と同一視 すべ きかどうか判断 に迷 うが、これ ら2軒
を除外視 すれば、久ケ原期の住居址 を続 る環濠 は存在 しないよ うで ある。ただ、遺構分布 を観察す ると、中期宮 ノ台期 に比定 される
2軒
(あるいは1軒)の
可能性 も考 えられる。周溝(V字
溝)は
、 南側台地縁辺の3号
墳付近で不明瞭 とな り、本来の竪穴住居址 を包括す る部分の限界 まで を理 解す ることは不可能である。 あるいは西側 のE‑4・ E‑5号
址のよ うな溝 に連 なる可能性 も105
考 え られ るが、 む しろ
3号
墳 付 近 で消滅‐して しま うか、
2号
墳 に向 か つて伸 び るかの いず れ か と考 えるの が妥 当で あろ う。弥生町期 の竪穴住 居址
(Y‑8・ 10)は
、 わず か に2軒
を数 えるだ けで 、久 ケ原期 よ りも さ らに西側 の前野 町期 の住居址群 に囲 まれ るよ うに占地 してい るの が特徴的で あ る。形態 は隅丸 方形 を呈 し、炉 址 ・貯 蔵穴 以 外 には柱 穴 ・ 壁 溝 は見 あた らない。前野町期の竪穴住居址 (Y‑1・ 2?・
4・ 5・6?・ 9?・
11・12)は 9軒 を数え、前述 した弥生町期の竪穴住居址と同 じ占地を示 し、やや南
1ビに連なるように位置している。これら は
3〜4軒 を
1単位 とするグループが弧状に3グ ループに分かれて配置されていることが指摘
されている。平面形態 は隅丸方形 を呈 し、柱穴・炉址・貯蔵穴等 を付帯す るが、主柱穴 を完備 す るものはY‑11号
址1軒だけである。出土遺物 は、土器の他 に石斧、土製紡錘車、石製・土製勾玉等 が出土 しているが、土器 を除 いたものは明確 に後期 と断定 されるものは少 なく、扶入石斧、扁平片刃石斧 などの豊富 さを考 慮す るとむ しろ中期 に属す るものがほ とん どだと考 えられる。
土器は、Fp椿・手賀沼系式土器は全 くなく、すべて南関東の編年で捉えられる土器ばかりで ある。壺形土器、無頸壺形土器、鉢形土器、甕形土器 と器種 に富 むが、壺形土器は比較的少 な く、む しろ甕形土器、鉢 (浅鉢
)形
土器が多い。壺形土器の複 合口縁 を呈す る部分は、縄文 が 施文 される他 に棒状浮文 を伴 うもの、竹管状工具 による円形浮文の組み合わせ に円形赤彩文 を第48図
大厩 。菊 間・ 南向原遺跡 出土甕形 土器分類 (%)
︲ B a
︲ A b
IAa
HB
第
3表
甕形土器一覧表住居址番
[\
\\[
IAa lAb
IAcIBa IBb
ⅡA
ⅡB菊 間
10号
住 ○菊 間
18号
住 ○菊 間
25号
住 ○菊 間
28号
住 ○菊 間
34号
住 ○菊 間 1号周溝 △ ○ ○
大厩
Y‑4号
住 ○ ○大厩
Y‑lo号
住 ○大厩
Y‑15号
住 ○ ○大厩
Y‑19号
住 ○ ○ ○ ○大厩
Y‑20号
住 ○ ○ ○ △大厩
Y‑23号
住 ○ △大厩
Y‑24号
住 ○ ○ △ △ ○大厩
Y‑31号
住 ○大厩
Y‑33号
住 ○ ○ ○ ○ ○大厩
Y‑35号
住 ○大厩
Y‑36号
住 ○ 大厩Y‑55号
住 ○大厩
Y‑59号
住 ○大厩
Y‑60号
住 ○ ○ ○ 大廟Y‑72号
住 ○大厩
6
号 墳 ○ ○大厩
7
号 墳 ○南 向 原
1号
住 ○南 向 原
3号
住 ○ハ υ
伴 うもの (第
2図
参照)な
どがある。又文様手法 に関 しては、Y‑14。
44号址出土土器の よ う に沈線 を持 たない羽状縄文の土器や、山形沈線文の土器は、南関東の編年 に対比 して も明確に 後期 と断言す るの を躊躇す るよ うな土器で あ り、宮 ノ台期 から久 ケ原 期に移 行 す る過 渡的 な 様相 を含む土器 と受 けとれる。鉢形土器は脚部 を付帯す るものはな く、複合口縁 と平口縁 を呈 す るものだけで、前者 には羽状縄文 と刻 目を持つ ものの他 に何 ら施文 を持 たないもの とがある。平 口縁の ものは口縁部上部の沈線で区画 された部分 か ら回辺部 にかけて羽状縄文が施文 される。
甕形土器は高台部 を持 たないものがほとん どを占め 、高台部 を付帯す るものはわずか
2点
にす ぎない。報文中ではこれ らの甕形土器は形態的 にい くつてかの種類 に分類 されるが、大 きく分 け て、日縁部 が波状 を呈 し、輪積痕の末端 に刻 目を持つ もの、回縁部 が波状 を呈 し、輪積痕 を残 さず に末端 に刻 目を持つ ものの口縁部 が波状 を呈 し、接合部 の稜 だけを残す もの、の3種
に分 類 されると述べ られている。第3表
は大厩遺跡 とさほ ど距離 を隔て ない菊間遺跡 、南向原遺跡 を合めた3遺
跡のほぼ器形の窺 える後期の甕形土器 を抽出 したものである。 これ らは他 の共伴 す る土器は無視 しているため、必ず しも土器形式 に順拠 していない。従 ってI Aaか らⅡBの 7 形態 に分 けた根拠 は、輪積痕 による成形技法 が装飾価値 を持つ とい う形で土器 に反映していることを重視 し、 このよ うな手法 がどのよ うな形で推移 して行 くかを便宜上形態的 に分類 したも ので ある (第48図参照)。
ここでは25個体 を抽出 しているが、 この うち△印は口縁部 を欠損す るもので、
IBaに
類似す るが、よりIBbに
近 いもの と推定 したものである。 この表 から、大厩 遺跡出土の土器はIAa、IAbの
グループとIBb、 ⅡAの
グループとに大 きく分 けられ、IAC、
IBaの土器は非常 に少ない。菊間遺跡10号住 の
IAcl点
はIAbとの区別 がつ きにくいが、総体 的 にIAa、IAbの
土器が主体的 な位置 を占めるよ うで ある(IBbが 1点
あるが、やや刻 目の形 態が他 と異なるのが疑間である)。 南向原 出土の土器は住居数、遺物 とも少 なく、消極的であるが、器形的 にも大厩、菊間遺跡 とはやや異 な り、 どちらかと言 えば両者の中間 に位置す るよ うで あ る。
以上の ことから総合 して、大厩遺跡 と菊間、南向原遺跡 とはやや様相 を異 に し、特 に前
2者
とでは形態的 な差異 が大 きい と言 える。単 に時期差 によるもの と考 えられなくもないが、む しろ 巨視的 に同 じ後期 に属 す る文化 を持つ とす るならば、何 らかの意味で両遺跡の時間的 な差異 を 無視す ることはで きないのかも しれない。請西遺跡
遺跡 は小櫃川の河口に発達 した砂洲上 に立地 す る。木更津市街地の東側、西流 して東京湾 にそ そ ぐ矢那川南佃1に展開す る標高
50m前
後の丘陵上 に位置す る。矢那川北部 を西流す る小櫃川 か ら矢那川流域 にかけては多 くの追跡数 を誇 り、祗園貝塚 をは じめ として菅生遺跡 などの著名な 遺跡 が多いが、 とりわけ金鈴塚 や、手古塚古墳 に代表 されるよ うに多数の古墳群 の存在 力滋旨摘される地域で もある。
0 20clll
第49図
請 西遺跡 出土土器
(%)(請
西遺跡発掘調査団資料)請西遺跡 は、これ らの古墳群 を
A〜 H群
に分 けた うちのF群
に該当す る。昭和48年か ら49年 にかけての予備調査では、A・BoC地
点 か ら竪 穴 住 居 址、方形周構 墓、古墳 などが確 認 さ れ、隅丸方形 を呈 した久ケ原期 に属す る竪穴住居址3軒
がC地
点で確認 されている。昭和49年 の調査では第I〜Ⅲ群 に分 けた古墳群の他 に竪穴住居址5軒
、方形周構墓 などが確 認 され、第Ⅱ地点のマウン ドを持つ方形周溝墓 か らは頸部 に刺突文 を持つ土器の他 に、周溝内の
2基
の土 療 からガラス玉6個
が検 出 されている。出土遺物 (第49図)
1
壺形土器口縁部欠損。底径6.9cm、 現高30.7cm。 大形 の土器で最大径 を胴中央部 に持 つ ものであろう。頸部 か ら胴部 にかけて文様帯 を構成す るが、頸部文様帯 と胴部文様帯 とではやや趣 を異 にす る。頸部 は沈線で上下 を区画 し、山形状沈線 が施文 された中に縄 文 が施文 される。胴部 は頸部 から胴部 に移行す る部分 と胴 中央部 やや下位の部分 に羽状 縄文 ない しは単一斜行縄文 を伴 う平行沈線 で区画 し、その間 に鋸歯状、綾杉状、十字状 の平行沈線文 が施文 される。沈線文間は一様 に縄文 が施文 され る。現存す る頸部上端 か
ら胴下半 にかけての施文 されない部分 と頸部内面 に赤彩 が施 される。
2
壺形土器口径16.8cm、 器高31.9cm、 底径6.8cm。 複合口縁 を呈 し、胴部 は九味 を持つ。
複合口縁部 は羽状縄文 が施文 され、回縁部 内面 にも
S字
状結節文 を伴 う縄文 が施文 され る。頸部 から胴上半部 にかけては、無文帯 をは さんでS字
状結節文で区画 された2ない し3段
の羽状縄文帯 が形成 される。器表面の頸部 か ら胴下半部 にかけて と、内面の頸部 上半部 にかけての施文 されない部分は赤彩 が施 されている。3
壺形土器口径11.5cm、器高19.4cm、底径6 cm。 複合口縁 を呈 し、下端 に刻 目を持つ。
頸部 か ら胴部 に移行す る部分の肩 口に刺突文 を施文。
4
壺形土器口縁部欠損。底径Z4cm、 現高18.4cm、 最大胴部径19.5cm。 胴下半部 に稜 を 持 ち、安定 した形態的特徴 を持つ。頸部下端 に
2段
のS字
状結節文が施文 される。5
無頸壺形土器口径12.5cm、 器高14.2cm、 底径6.lcm。 球形 に近 い胴部 を持 ち、日縁部 は著 しく内傾す る。日縁部 は複合口縁状 を呈 し、下端 に連続 した刻 目を持 ち、
3段
の縄 文 が施文 されて羽状縄文 を構成す る。6
鉢形土器口径20cm、 器高10.4cm、底径6.7cm。 ,支鉢形 を呈 し底部 か らほぼ直線的 に外 反 して口縁部 にいたる。日縁部 は
S字
状結節文で区画 され羽状縄文 が施文 される。7
鉢形土器口径19.4cm、 器高10.2cm、底径5.6cm。 胴部 はゆるく外反 し、回縁部 はやや 内傾す る。複合口縁 を呈 し、下端 にヘ ラ状工 具 による連続 した刻 目を持つ。底部 は若干 上 げ底 ぎみ となる。
8
甕形土器口径20cm、器高17.3cm、底径5.4cm。 日縁部 か ら頸部 にかけてはゆるくくの 字状 に外反す るの に対 し、胴下半部 はやや直線状 となる。頸部 から胴部 に移行す る部分
と口唇部 に連続 した刻 目を持つ。