今回紹介する調査は、高齢者の中でも 特に障害を持った人たちを対象にし、こ れらの人々に歯科治療が、どのくらい必 要で、またどのような変化をもたらすか を検討したものです。
まず、高齢者は、若い人たちに比べて個 人個人の差が大きい人たちだという点に
高齢障害者は、病気などによって日常生活活動(ADL)が困難な状態
(能力低下)にあり、しかもその原因となった麻痺などの機能障害を持っ ていて、社会的に不利な環境の中で暮らしています。
こうした高齢障害者の歯科的問題の頻度と歯科治療がADLに及ぼす影 響について調査しました。その結果、入院中の高齢障害者の 9 割で歯科 治療が必要と考えられ、高齢障害者の口腔環境は極めて劣悪であること が分かりました。また、高齢障害者に対する歯科治療は、歯科的問題の 解決はもちろん、口腔機能の改善、A D L の改善、ひいては生活の質
(QOL)の改善をもたらしました。
留意しておくことが必要です。例えば、
20 〜 30 代の若い人たちは個々の差の少 ない集団ですが、高齢者では元気で歯に 関して全く問題のない人もいれば、65 歳 でも90歳代のような体力しかなく歯の状 態が不良な人もいます。また、老衰で亡く なる人はごく少なく、何らかの疾患に よって亡くなる人のほうが多いことから、
高齢者が病気を持つことは特別なことで はないのです。
障害を持った高齢者は歯科
治療にアクセスできない
● 要旨
高齢障害者は、病気などによって日常 生活活動(ADL)が困難な状態(能力低 下)にあり、しかもその原因となった麻痺 などの機能障害を持っていて、社会的に 不利な環境の中で暮らしています。その ような中、高齢障害者にとって最も楽し い活動が食事です。そして、食事に必要な 器官が口腔であり歯なのです。
こうした高齢障害者の歯科的問題の頻 度と歯科治療がADLに及ぼす影響につい て調査しました。
医科と比べ歯科治療を受ける高齢者の 割合は低くなっています。しかし、われわ れの調査では、入院中の高齢障害者の9割 で歯科治療が必要と考えられ、高齢障害 者の口腔環境は極めて劣悪であることが 分かりました。つまり、高齢障害者は歯科 的問題があるにもかかわらず、訴えにく く、またバリアによって歯科にアクセス できない状態にあると考えられます。
また、高齢障害者70人に対する歯科治 療の効果を、治療前後の歯・口腔状態、口 腔機能、ADL 状態、QOL 状態により検討 したところ、歯科治療は、歯科的問題の解 決はもちろん、口腔機能の改善、ADL の 改善、ひいては QOL の改善をもたすこと が分かりました。
この調査は、歯科以外の介入効果を除 外でき、高齢障害者における歯科治療の 有用性を示すものとして注目されていま す。また現在、大規模でより精緻化した調 査を行っていますので、後日、その結果を 報告できると考えています。
病気や障害を持った高齢者であっても 歯科治療によって口腔機能が改善すれば、
食事が楽しくなり、元気も出てくる、気持 ちも前向きになれるという可能性があり ます。同時に、食事は高齢障害者の尊厳を 守るために必要な活動で、そのための生 活環境への配慮や柔軟な対応が大事だと 思います。
これらを前提として考えますと、高齢 障害者が歯科受診に積極的かどうかとい うよりは、その治療の結果何が変わるの かに注目して対応を考えるべきだと思い ます。
医科と比べ歯科の治療を受ける年齢層 は若年から中年までの元気な人々である ことが明らかになっています。医療費の 年齢層別構成をみますと、医科では 65歳 以上の割合が最も大きいのに対し、歯科 ではその割合の小さいのが際だった特徴 です(46 頁のグラフ参照)。
この大きな差は、患者の状態と患者が 置かれている状況を考えると理解できま す。高齢者は歯科的問題の訴えがしにく く、また入院中であったり、物理的、心理 的バリアによって歯科にアクセスできな い状態にあるのです。特に障害を持った 高齢者にとって、この問題は大きなもの となっています。
身体の障害が歯に
影響を与える
高齢障害者151人の調査
(藤田保健衛生大学附属病院調べ)
国民医療費構成割合
(グラフは左から平成4年〜9年を示す)
歯科医療費構成割合
藤田保健衛生大学関連病院の 3 つのリ ハビリ病棟において全患者 151 人(平均 年齢 80.8 歳)を対象に、高齢障害者がど のくらい歯科疾患を持っているかを調査 しました。歯科医が歯科治療を必要と判 断した患者は 139 人(92%)にも及びま したが、このうち本人から歯に問題があ ると訴えたのは 81 人にとどまり、実際に 治療を受けていたのは何と 3 人だけでし た(右の表参照)。
高齢障害者のうち、歯科治療が必要な 患者は実に多いのです。歯周病を含めて、
歯の病気に関わるリスクファクターの一 つとして障害(disablement)は極めて重 要なのです。つまり、障害があるために身 の回りのことができなくなり、それに よって口の中の汚れた状態が続き、その 結果、歯周病やむし歯になるのです。そし
て、こうした状態が栄養摂取を阻害した り、やる気を損なわせることは容易に考 えられます。さらに、それが病状を悪化さ せる悪循環に発展する可能性さえあるの です。
では、歯科的問題を抱えた高齢障害者 に歯科治療を行うと、どのような効果が 得られるのでしょうか。われわれの調査 の一つを紹介します。なお、この調査の対 象者数は 70 人と少ないため、これをもっ て確定的な結論を導くわけにはいきませ んが、高齢障害者への歯科治療の意義は 示し得たと思っています。
愛知、熊本、仙台の歯科医師会の先生方 の協力を得て、歯科治療が必要な高齢障 害者の歯科治療前・後で、歯・口腔状態、
口腔機能、ADL 状態、QOL 状態を比較し ました。対象者は 70 人(愛知県35 人、熊 本県 27 人、仙台市 8 人)で、男性 22 人、
女性 48 人、平均年齢 80.8 歳でした。
高齢者の口腔状態は歯科 治療で改善できる
日本の年齢別国民医療費と歯科医療費の推移
ADLの 改善
食事の 改善 QOLの
改善
口の中を清潔にする
その結果、歯・口腔状態の指標の多くが 有意差をもって治療後に改善しているこ とが分かりました。
つまり、前述したような訴えの少ない 高齢障害者においても歯科的問題は高頻 度に存在し、これらの患者への歯科治療 により本来の適応である口腔状態の改善 が得られることが分かったのです。
さらに、咀しゃくなどの口腔機能が向 上し、食事や起居動作などの ADL の改善 がもたらされ、その結果、QOL の改善も 認められたのです。
つまり、歯・口腔状態が改善されたこと によって、口腔機能が改善し、食事内容や 食事に関連したその他の項目を含む ADL が向上し、食事満足度や生活満足度など QOLの改善が生じました。この調査では、
歯科治療以外の介入は十分統制されてお
り、この変化は専ら歯科治療によっても たらされたと考えられました。
歯科的問題を抱えた高齢障害者は、口 の中が汚れていて、しかも歯ぐきから出 血しているために、食べにくい、食べても おいしくないという状態にあるのです。
そのために慢性的に低栄養状態にあり、
元気が出ない、身の回りのこともできな い、できないから体力が落ちてくる、と いった悪循環になってしまっているので す。皆さんも空腹状態で全然元気が出な いという経験をお持ちのはずです。歯科 的問題を抱えた高齢障害者では、この問 題が慢性的に続いていると理解できます。
この悪循環を改善するには、まず口の 中を清潔にし、噛んでも痛くない状態に することが必要です。そのことによって 食べられる、食べると元気が出てきて身 の回りのことができる、できると「やれば できるではないか」と思うようになり、そ して動けるようになる――これが最も望 ましい改善方法であろうと思います。
口腔状態の改善はADL・QOL
の改善につながる
歯科治療
咀しゃく能力改善
食事機能改善
ADL 改善
QOL 改善
これからの半世紀は高齢者が増え、そ れに伴い高齢障害者が急増します。です から、高齢者の尊厳を守るために何をす べきかが医療の大きな課題となります。
その中で、食事は極めて重要な位置を 占めるはずです。愛知県医師会が調査し た結果によりますと、高齢障害者の楽し みのトップは食事、次いで家族との団ら ん、テレビを観ること、の順でした。高齢 者にとって食事こそ最後まで保証されな ければならない活動であり、食事を楽し く摂れるようにすることが、とりもなお さず尊厳を守ることにつながるのです(上 図参照)。
ところが、障害を持った高齢者は食事 も思うように摂れず、しばしば自分の主 張もままならない状況にあるのです。多 くの人々に世話になっている、身の回り のことを任せているといった社会的な弱 者だからです。こうした人々にこそ、食事 を楽しんでもらうための柔軟な対応が求 められており、その中心的役割を担うの が歯科ではないでしょうか。
歯は食べるためにあると考えれば、当 然、咀しゃく機能では舌や口唇との協調
的働きを理解しなければなりませんし、
飲み込む機能を含めて広く摂食・嚥下機 能を考える必要があります。しかし、広く
「食べる」という視点から人間の活動を考 える医療は始まったばかりです。食べる 機能の専門家としての歯科分野が確立さ れれば、社会的にも益が大きいはずです。
高齢障害者の「食べる」問題は、現在、
歯科と医科の狭間にあって解決を求めら れている課題です。リハビリテーション 医学は、A D L 問題や嚥下障害からこの テーマに近づいてきました。歯科からは、
高齢障害者の歯科治療という観点から発 展して、このテーマを掘り下げてくれた らと思います。
いずれにしても、身体を口とそれ以外 に分けることにあまり意味があるとは思 えません。人間の体は、口だけが別に存在 しているわけではないのですから。特に
推定される歯科治療効果