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戦後の⽇本ファッション写真

ドキュメント内 ⽇本ファッション写真の成⽴ (ページ 154-200)

4-1 『装苑』の時代:1946-1959年 4-1-1 戦後の社会・ファッション事情

第⼆次世界⼤戦が終わり、⽇本は戦争には負 けた。しかし、戦勝国からの賠償要求がそれほ ど多くなかったこともあり、経済的にも体制的 にも順調に新しいスタートを切っていた。終戦 時には国⼟は⼀⾯の焼け野原と化しており、家 も⼯場もない状態であったが、経済⺠主化や、

1950(昭和25)年6⽉に勃発した朝鮮戦争によ る「朝鮮特需」などを受け、終戦からたったの 10年で戦前と同程度の⽔準まで経済状態を持ち

直していた。⼥性のファッションは、戦後間も無くは物資不⾜のために、戦中 のミリタリールックの影響を受けた、肩が張った男性的なシルエットの洋服が 中⼼であった。しかし、統制と貧窮からの解放を受けて、戦前のような⼥性ら しいシルエットを求める声が増えていく。そうした中、1947(昭和22)年にク リスチャン・ディオール(Dior, Christian 1905-1957)が、コルセットなどでウ ェストを絞り、⼤きくスカートを膨らませたアフタヌーンドレスやスーツなど を発表した(写真  60)。後に「ニュールック」と名付けられるこのファッシ

写真  60  ウィリー・メイワルド 

「Dior」  1954 

ョンスタイルは、世界中に⼤きな影響を与え、⼥性らしいフォルムの洋服が復 活する。⽇本でもこうしたパリ・オートクチュールファッションが紹介される や否や、多くの⼥性の憧れの的となった。

⼀般の⽇本⼥性達の間では、こうしたファッションから派⽣して⽣まれた、

「更⽣服」と呼ばれたロングスカートスタイルが、戦後初の流⾏となってい る。これは、「パンパン」と呼ばれたアメリカ⼈相⼿の売春婦が着⽤していた

ことにも起因しており、彼⼥たちは戦 後ファッションの最初の⼿本となっ た。タバコをふかす姿や、ショルダー バックの着⽤、ネッカチーフを頭に巻 くスタイルなどが彼⼥たちの洋装の特 徴であった。

戦中に休業などで数を減らしていた オートクチュールブランドも復活し、

1954(昭和29)年にはココ・シャネル(Chanel, Coco 1883-1971)もメゾン を再起させるなど、ファッション⽂化が再興してきた。⽇本ではニュールック の流⾏とともに、ファッションへの関⼼が⾼まり、1950(昭和25)年には総額 500万円を投じた本格的なファッションショーである「三越ファッションショ ウ 秋と淑⼥」が⽇本橋三越で開催され、⼤勢の⼈々が殺到した(写真  61)

199。また、戦中からの物資不⾜と洋服への渇望から、⽂化服装学院やドレスメ

199 千村典⽣『戦後ファッションストーリー1945‐2000』(増補版)、平凡社、2001年、p.33

写真  61  「三越ファッションショウ  秋と淑女」  1950 

ーカー⼥学院などを筆頭とする洋裁学校も多数開校・再開し、⽇本のファッシ ョンに⼤きく貢献することとなる。1953(昭和28)年11⽉には、⽂化服装学 院が創⽴30周年を記念して、ディオールを招聘してファッションショーを⾏

い、⼊場料を取っていたにもかかわらず、東京・名古屋・京都・⼤阪の会場で

⼤変な賑わいを⾒せた200

また、50年代はマリリン・モンロー

(Monroe, Marilyn 1926-1962)やソフィア・ロ ーレン(Loren, Sophia)などのグラマラスな映 画⼥優がセックスシンボルになった。⽇本で も欧⽶の映画⼈気の⾼まりに合わせて、外国 映画のスターたちの「シネモード」201に影響 を受けたファッションが多く⾒られた。こう した外国の映画⼥優のルックは雑誌でも紹介 され、ファッション誌のモデルも⽇本⼈映画

⼥優が主に務めていた202。プロフェッショナ

200 1953年11⽉24⽇に丸の内の東京会館ローズルームの会場にて⾏われ、観客は1000⼈程度で⼊場料

1000~4000 円。招待費⽤に 1000 万円かかったことが⼊場料の理由であった。東京では、東京会館のほか、

帝国ホテル孔雀の間、⽂化服装学院講堂などでも⾏われた。ディオール⽒は来⽇せず、モデルが 7、8 ⼈くらい、

作品は 83 点だったと⾔われている。これ以降、⼀般にもディオールがブームとなった。

201 当時、映画から⽣まれたファッションスタイルを「シネモード」と呼んでおり、流⾏を作っていた。シネモード

の始まりはイギリス映画の『⾚い靴』(1948)からとされており、これを受けて⾚い靴が流⾏した。他にも、

⽇本映画の『君の名は』(1953)から⽣まれた「真知⼦巻き」や、『ローマの休⽇』(1953)『麗しのサブリナ』

(1954)などから⽣まれた⼀連の「ヘプバーン・スタイル」などが有名。

202 城⼀夫・渡辺直樹 2007 『⽇本のファッション 明治・⼤正・昭和・平成』 株式会社⻘幻舎 p.270

写真  62  「伊東絹子」『アサヒグラフ』

1953 年 7 月 15 日号  1953 

ルとしてのファッションモデルは、1951(昭和26)年に毎⽇新聞社の雑誌であ る『英⽂毎⽇』(1922)203が主催した「ティナ・リーサ賞」の発表会のために 公募から選ばれた、「毎⽇ファッション・ガール」が始まりとされている204。 2000⼈の応募からわずか20⼈が選ばれ、1953(昭和28)年に第2回ミス・ユ ニバース世界⼤会で3位に⼊賞した伊東絹⼦(写真  62)や岩間敬⼦、そして伊 東や岩間と共に「ファッション・モデル・グループ」(FMG)を1953(昭和 28)年に結成した相島政⼦など、その後も活躍するプロフェッショナルモデル がここに誕⽣した。

203 後の、『毎⽇デイリーニューズ』

204 千村、前掲書、pp.33-34

4-1-2 ファッション雑誌の隆盛

こうしたファッションの流⾏に⼤きく貢献したのが、ファッション雑誌であ った。ニュールックという名称も、カーメル・スノーが誌⾯上で語った⾔葉か ら⽣まれ、そのスノーがファッションエディターとしてスカウトし、伝説のフ ァッショニスタと呼ばれたダイアナ・ヴリーランド(Vreeland, Diana 1903-1989)が『Harperʼs BAZAAR』や『VOGUE』で新しいルックを⽣み出すなど、

ファッション雑誌は多くの流⾏の起点となった。そうした流⾏を効果的に伝え たのが、⽂字だけではなく写真の⼒であった。当時『Harperʼs BAZAAR』には アートディレクターのアレクセイ・ブロドヴィッチと写真家のリチャード・ア ヴェドンが、『VOGUE』には同じくアートディレクターのアレクサンダー・

リーバーマン(Lieberman, Alexander 1912-1999)と写真家のアーヴィング・ペ ンが在籍して鎬を削っており、彼らの類稀な才能がパリ・モードの魅⼒を余す ことなく引き出し、世界中を虜にしていた。

⽇本でもファッションを扱う雑誌は急速に普及し、戦後すぐの1946(昭和 21)年には『装苑』や『スタイル』の復刊、『私のきもの』、『ソレイユ』、

『⼥性』、そして後に『暮しの⼿帖』(1948)へと繋がる花森安治(1911-1978)の『スタイルブック』などが創刊されている。また『ドレス・メーキン グ』(写真  63)が創刊された1949(昭和24)年には、『アメリカン・スタイ ル全集』が創刊され⼀世を⾵靡した。中でも、当時、⽇本版のファッション・

イラストレーターである「スタイル画家」として⼈気を誇った中原淳⼀

(1913-1984)が創刊した『ひまわり』(1947) や『それいゆ』(図  17)といった雑誌は、オ ートクチュール感覚を取り⼊れたファッション を紹介し、⼤変な⼈気を博した。また、前述し たように、洋裁学校を⺟体とした『装苑』や

『ドレス・メーキング』も、洋裁ブームを背景 に同様の⼈気を誇っており、海外のファッショ ン情報をいち早く発信していた。1950年代後半 になると『装苑』、『ドレス・メーキング』、

『服装』(1957)、『スタイル』の4誌が他誌を圧 倒し始める205。1955(昭和30)年に⾏われた

「⽇本の⼥性は流⾏をどうとり⼊れている か?」という調査における、20代⼥性の「服装 専⾨の雑誌」を⾒る割合は実に60%を超えてお り、1957(昭和32)年には『装苑』が35-40万 部、『婦⼈画報』16万部、『ドレス・メーキン グ』が15万部、『スタイル』12万部、そして創

205 井上雅⼈「⽇本における「ファッション誌」⽣成の歴史化ー『装苑』から『アンアン』まで/『ル・シャルマン』

から『若い⼥性』まで ー」『都市⽂化研究 Studies in Urban Cultures Vol. 12』所収、⼤阪市⽴⼤学⼤学院

⽂学研究科都市⽂化研究センター、2010 年、p.129

写真  63  『ドレス・メーキング』1956 年 6 月号  1956 

図  17  中原淳一『それいゆ』No.37 1956 

刊されたばかりの『若い⼥性』(1955)が25万部と、多くの雑誌の発⾏部数が 増え、⽇本に欧⽶のファッション⽂化が定着した206

1957(昭和32)年にはこれらの雑誌を「おしやれ雑誌」と呼ぶようになり、

翌年の1958(昭和33)年には「スタイル雑誌」・「スタイル誌」と呼ばれるよ うになった207。総称して「スタイルブック」と呼ばれるこれらの雑誌の中で、

『VOGUE』などのファッション雑誌に⾒られるようなアート性の⾼い写真が 掲載されることは、少なかった。『an・an』の創刊スタッフであり、編集者の

⾚⽊洋⼀は「⽂化服装学院の『装苑』と、ドレスメーカー⼥学院の『ドレスメ ーキング』が⼆⼤ファッション誌で、読者は誌⾯の海外モードや有名デザイナ ーの「作品」を参考にしながら⾃分たちの服を「仕⽴てる」のであった」208と 述べており、「スタイルブック」は本来の「スタイルを掲載する雑誌」という 役割以上に、洋服を「仕⽴てる」ための雑誌であった。故に、「写真を⾒ただ けでわからなければ、その洋服は作れない」209という考えが根強くあり、全⾝

写真をきちんと撮っているということがスタイル雑誌の写真としての最優先事 項であった。そうした理由で、曖昧なイメージや、部分だけをクローズアップ するような写真は、「スタイルブック」には極端に少ない。その後、1955(昭

206 井上雅⼈「洋裁⽂化の構造
── 戦後期⽇本のファッションと、その場・⾏為者・メディア(2) ──」

『京都精華⼤学紀要』38 号、京都精華⼤学、2011 年、p.12

207 井上雅⼈「⽇本における「ファッション誌」⽣成の歴史化ー『装苑』から『アンアン』まで/『ル・シャルマン』

から『若い⼥性』まで ー」『都市⽂化研究 Studies in Urban Cultures Vol. 12』所収、⼤阪市⽴⼤学⼤学院⽂学 研究科都市⽂化研究センター、2010 年、p.131

208 ⾚⽊洋⼀『「アンアン」1970』、平凡社、2007年、 p.41

209 今井⽥勳『雑誌雑書館』、書肆季節社、1980年、p.231

ドキュメント内 ⽇本ファッション写真の成⽴ (ページ 154-200)

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