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高等動物及び人間には第一に意識なるものが発生しているが︑従来これは或る特殊の観察の下に︑特別な霊魂の財産と 見做されて来た︒ 併しながら今日に 最早 斯様なものでなく︑頭脳及び神経系統の優良な組織︑並びに之に伴う豊富なる刺撃や︑之が為めに喚起せられた表象等から︑永い間に段々発達して来たものであることが分った︒ 尚お又意識と云うものは︑ 矢張り他の精神的性質と同様に︑物質上の約束又は状態に支配せらるるものなることが知られて来た︒それで意識は精神器官に於ける無数の物質的影響の強い連鎖の下に︑或は来り︑或は去り︑或に消え︑或は生ずるものなのである︒ルードウィッヒ・ビュヒナー   自然現象としての意識 霊魂の現象の中で︑意識と云うものが一番驚く程 区々な説明を附加されている︒此心の機能の性質や︑之と身体との関係や︑之と他の有機界との交渉や︑及び其起源発達等に関しては︑二千年来種々雑多な説が吐かれ︑今日も 尚お幾多の矛盾した説が並び行われている︒﹁非物質的の霊魂﹂と云う謬説や︑﹁個人の不死﹂と云う信仰等の発する大原因は︑他の心の機能よりも︑主として此意識と云う機能にあるのである︒ 尚お又今日の文明社会に残存せる重大な迷信は︑多くこれに其源を発しているのである︒故に私は此意識を﹁心理学に於ける秘密の核心﹂と呼ぼうと思う︒実に意識は一切の神秘的及二元論的謬説の 立籠っている堅固な城壁であった︒此堅城の前には︑ 周匝

緻密を極めた理智の攻撃も︑ 屡々撃退されて 了う︒此事実は 偶々以て︑吾人が一元哲学の見地から︑意識に対して特別の批評的研究を試みんとするの理由を説明して餘りあると信ずる︒吾々の立場は意識を以て︑ 矢張り他

の精神上の性質と同じように︑普通の自然現象であって︑他の一切の自然現象と同一の﹁本質の法則﹂に支配されるものだと云うにあるのである︒意識の定義 意識に対する根本の観念や︑其内容範囲等に関しては︑多くの哲学者科学者等の見解が皆甚だしく相異っている︒思うに意識の真の意義は︑之を内的知覚と見るのが一番 可いので︑其働きは之を鏡に比較すべきものであろう︒ 而して吾人は此働を分って客観と主観との二つとする︒即ち吾以外の世界の意識と︑吾の意識との二つである︒吾人が意識的活動の大部分は︑ショーペンハウアー(Schopenhauer)が言うように︑外界の意識︑即ち吾以外のものに属する︒此世界意識と云うのは︑吾人の心に受容し得らるべき 有ゆる種類の外界の現象を抱含するものである︒自意識︑換言すれば吾々自身の心的活動の鏡︑即ち一切の表象︑感覚︑意志等の範囲は︑これに比すれば一層限られた 狭隘なものである︒多くの大思想家︑ 例えばヴント(Wundt)︑チーヘン(Ziehen)等︑特に生理学の立場から観察した人々は︑意識と心的機能とが同一物であると云う見解をとり︑﹁一切の心的活動は皆意識的である﹂と論じ︑﹁心的活動の範囲は意識の範囲と合致するものである﹂と主張する︒けれども私の見解に依れば︑ 斯の 如き定義は︑意識の意味を不相当に残したもので︑幾多の誤謬と誤解とを 惹起する 虞がある︒故に吾々は︑ロマネス(Romanes)︑フリッツ・シュルツェ(FritzSchultze)︑パウルゼン(Paulsen)等の他の哲学者の説に従って︑吾々の無意識的表象︑感覚︑及び意志等も︑亦等しく心的生活の領分であって︑此等の無意識的活動の領分︵即ち反射運動等︶は︑意識的活動の領分よりは遥かに広汎に 亘っていると云う説を主張する者である︒それで此意識的無意識的の両世界は︑共に密接な関係を有していて︑是の境界線は無いのである︒無識的の表象は︑何の瞬間にか意識的表象と成ることもあり︑又吾々の注意が他物の為めに奪われれば︑それと共に吾々の意識も亦消失して 了うこともあるのである︒

吾々が︑意識について知ることの出来る唯一の知識の根元は︑即ち意識それ自身である︒これ実に意識を科学的に研究するに当って最も困難なる事情である︒此研究に於ては︑之を研究せんとする主体も︑研究する対象も︑共に同一物であるのである︒知覚する主観的の鏡其者の本質が︑即ち吾々の研究の目的物なのである︒ 斯様にして吾々は︑他人の意識に対して︑完全なる客観的確実性を把握することが出来ぬ︒吾々は唯他人の精神状態を吾々自身の精神状態と比較して︑其研究を進むるの外は無い︒此比較が健全な人間だけに限られていた間は︑吾々は意識の堅実性は決して侵されぬものであると云う結論を是認していたのである︒ 併しながら不健全な個人︑ 例えば天才とか︑ 畸人

とか︑痴呆とか︑狂人とかを︑普通人と比較して見た曉に於ては︑﹁意識の不可侵性は全然危険なる謬見である﹂と云う事を悟るに至った︒更に又吾々が人間の意識を動物の意識︵高等動物でも 可いが︑殊に下等動物の意識︶と比較して見た時には︑此事は一層明瞭に知れて来る︒此場合に遭遇する大なる困難は︑此問題に対する生理学者と哲学者との意見が極端に相矛盾していることである︒吾人は此等の見解の相違について︑重要なものだけを極く簡単に述べて見よう︒一︑人類意識論 此論は﹁意識が人間だけに限られている﹂と主張するものである︒此説の主唱者デカルト(Descartes)は﹁意識と思想とは人間に限った特権で︑不死の霊魂を有しているのは人間のみである﹂と云う説を唱道し︑之が世間普通の定説に成って 了った︒哲学者にして数学者なるデカルト(Descartes)は元来ローマ旧教派の学校で教育された人だけに︑人間の心的作用と︑動物の心的作用との間に︑ 截然たる差別を設けた︒彼の意見によれば︑﹁人間の霊魂︑即ち思考力を有する非物質的のものは︑広がりを有する物質的の身体とは︑全然別物である﹂と云うのである︒ 然れども︑﹁此非物質的の霊魂は︑外界の印象を受け入れて筋肉の運動を起させる目的の為めに︑身体の一部分︑即ち脳に於て︑物質と合一しているの

である︒動物は思想を有せず︑従って霊魂をも有していない︒彼等は唯の自働機械である︑彼等の感覚や︑表象や︑意志は純機械的で︑普通物理的の法則によって起るのである﹂と︒此説を以て見れば︑デカルト(Descartes)は︑人間の心理に対しては二元論者であり︑動物の心理に対しては︑一元論者である︒此明晰で鋭敏な思想家が︑ 斯んな矛盾を持っていたと云うのは︑極めて驚くべきことである︒故に之を説明する人が︑﹁デカルト(Descartes)は其本当の意見を 匿しているので︑其真の発表は之を自由の立場に居る独立の学者に任せたのである﹂と言うのも︑ 敢て無理ならぬ次第である︒デカルト(Descartes)はジェスイット派の学徒であるから︑自分の知識を無視して真理を拒否するように教え込まれていた︒恐らく彼は教会の権力と︑其 火焙の酷刑とを怖れたのであろう︒ 尚お又︑彼の懐疑主義︑即ち﹁真理に到達せんと欲せば︑ 先ず最初から因襲的の教権を疑って 蒐らねばならぬ﹂と云う説は︑既に彼の身上に不信心家だの無神論者だのと云う狂熱的の 呪咀を 被らせた︒デカルト(Descartes)が後代の哲学に及ぼした影響は︑極めて著しく︑そしてこれは彼の﹁複式項目の簿記法﹂と全く相調和したものである︒十七八世紀の物質論者は︑其一元論的心理説を主張するのに︑デカルト(Descartes)の動物霊魂及び純機械的運動の説を引用するが︑唯心論者も亦他方に於て︑﹁其霊魂不滅説︑及び霊魂が身体と独立して存していると云う独断説が︑デカルト(Descartes)の霊魂説から確立されている﹂ことを主張するのである︒此説は今日 尚お神学者及び二元的哲学者の間に行われているけれども︑十九世紀に至って建設された科学的自然観は︑生理的心理学及び比較心理学等の実験的進歩によって︑全然此説を否定して 了ったのである︒二︑神経意識説 此説は﹁意識は単に人間のみでなく︑中枢神経系統と感官とを有している動物には皆備わっている﹂と云う説である︒﹁大多数の動物︑少なくとも高等哺乳類は︑人間と同様に思考的霊魂と意識とを与えられている﹂と云う確信は︑厳正なる生理学及び一元的心理学に於て 夙に唱えられた説で

あった︒それで今日生物学が各方面に 亘って長足の進歩を遂げた結果︑此重要なる真理は︑大に諸方面に承認せられて来た︒それで吾々は︑現在のところでは︑意識の存在を高等有脊椎動物︑殊に哺乳類に限って置く︒高等な発達をなした有脊椎動物中の最も怜悧なる種類︱︱︱殊に猿や犬等︱︱︱が︑其精神状態に於て人間に酷似していることは︑既に数千年来認められて来た事実である︒彼等の表象や︑感覚や︑感情や︑欲求等の能力が︑人間とよく以っていることについては︑特に証明を要せぬ程に明瞭である︒ 併しながら︑頭脳の他の高等なる活動︑即ち判断の構成︑推理の連続︑狭義の意識等に於てすら︑彼等は人間と同一の様式に於て発達し︑其相違は唯程度の上に止まっている︒更に又吾々は︑比較解剖学及び組織学の上から見て︑緻密なる頭脳の組織︵全体に於ても部分に於ても︶が︑哺乳動物に於ては皆人間と本質的に同一であることを発見したのである︒之と同一の原理は︑心的器官の起源に関する比較発生学上の研究によって見ても︑全然同一なのである︒比較生理学は亦︑意識の各状態が︑高等胎盤類にありては皆人間と同一なることを教示した︒ 而して吾々は外形の刺撃に対する反応が︑又両者相等しきことを経験上から確かめたのである︒高等動物は︑よく 酒精︑クロロホルム︑エーテル等によって麻酔せられ︑又人間と同一方法によって之を催眠状態に入れることが出来るのである︒けれども動物の 何の段階から︑始めて 斯様な意識と云うものが発生したかと云うことを︑教理的に決定するのは不可能である︒或動物学者は︑此境界線を極めて高い所に置き︑或る動物学者は極めて低い所に置く︒ダーウィン(Darwin)は︑高等動物に於ける意識や︑理智や︑感情の段階を極めて明細に区分し︑漸進的進化の理によって之を説明したが︑それでも﹁此高等なる心的作用の起源を下等動物について明確に極めることは到底不可能である﹂と言っている︒私一個の意見を云えば︑種々の異説の中で﹁神経系統の統一が意識発生の條件である﹂と云う説が一番真に近いと思う︒中枢神経器官︑感官の発達︑表象の精確なる聯合︑此等が意識の統一を生ずるに当っ

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