第1節 合衆国における思想的価値学習の概要
本章では,合衆国社会科における諸々の思想的価値学習論に基づいた教材やプ ロジェクトの分析を通して,思想的価値学習の価値学習としての固有の特質を解 明する。ここで言う「思想的価値」とは,第2章で述べた通り,倫理や人間哲学 などに関わる価値を指す。また「思想的価値学習」とは,こうした思想的価値を 取り扱った学習一般を指す。
第2章で見てきたように,見田によると思想的価値は,自己本位的で現代適応 性・革新性重視という固有の性質を持つとされていた。つまり,ある社会的価値
が思想的価値として人々に認識され存在するための条件として,その社会的価値 の内容が,ある複数の人間にとっては,日常で生活するために有効と思われるよ うな何らかの指針(基準)を提示できるが,別の人間には何の指針も提示しえな いような個々の単位のものであること,そしてその内容は時代の要請や環境の変 化などで絶えず変化を続けていることの2つがあるとされる。
アメリカ合衆国では,価値を社会科から排除しようとする流れの中で,こうし た思想的価値もほとんど取り扱われてこなかった1960年代にフェントン
(EdwinFenton)が開発したホルト社会科において, 『三つの都市における人文
学』で扱われている形跡があるが1),これは例外であると言って良い。
こうした傾向は今日でも続いている。1970年代に入って合衆国の社会科では価 値を積極的に取り入れようとする動きが高まったが,殊にこの思想的価値に関し てはあまり当てはまっていない。アメリカ合衆国においては,日本でいう『倫理』
に該当する科目が今日まで存在しないことも,そうした一因となっている。
しかし,わずかだが近年になって,思想的価値を取り扱った教材やプロジェク トも開発をされるようになってきている。そこでは,多様な思想を比較・検討で きるようにテーマ別に編成された「テーマ別構成・比較型」 2)と,実際に思想的 価値が生み出されていく過程,そこで巻き起こされた論争から内容を編成し,こ れの反省的吟味を試みた「問題別構成・議論型」 3)の2つを見ることができる。
本章ではこの内,前者「テーマ別構成・比較型」の一例としてレオーネ(Bruno Leone)が開発した"ISM シリーズを,また後者「問題別構成・議論型」の一 例としてスタール(Robert.J.Stahl)が開発した『思考への扉』を取り上げたい。
なお,アメリカ合衆国においては,日本の『倫理』用教科書の多くに見られる, 著名な思想家の思想内容を個別に淡々と思想家の誕生順に並べて叙述しただけの,
「個別配列・理解型」の教科書は全く見ることができない4)。日本とアメリカ合 衆国とでは,社会科において同じ思想的価値を扱うにしても,その手法が大きく 異なる点は,大変に興味深いところである。
第2節 テーマ別構成・比較型思想的価値学習:"ISM シリーズの場合
1.内容編成‑イデオロギー別・発間別の配置‑
"ISM シリーズ(グリーンヘブン・プレス(GreenhavenPress)社刊, 1978 年(1983年一部修正))は,レオーネが1978年から開発を始めた思想的価値を 取り扱った社会科用教材である。そして1983年版はその改訂版にあたる5)。こ のシリーズは,レオーネが今日に渡っても開発を続けている"対立視点シリーズ
(OpposingViewpoints Series)" 6)の一部に属している。
レオーネは,合衆国内で特に論文を書いた形跡がないため,彼の思想的価値教
育論を詳細に確認することは難しい。しかし彼は,自らが開発した教材"ISM"
シリーズを始め,開発した教材全てに"対立視点シリーズ"と名乗らせているこ とから伺えるように, 「対立視点」を教材内に取り入れて学習者に不協和を生み出 し,否応無く学習者が自らの意見を述べ議論に参加してなくてはならない状況に 追い込むことにこだわりを持っている。レオーネは「対立視点」を取り入れる理 由として次のように言っている7)。
「物事の事態について最もよく知る手段とは,その物事について最もよく知る人 物や専門家と思しき人たちの主張を分析することである。真実を決定するため
には,多様な意見全てを考察していくことが大切になってくる。社会の主流と なっている意見を調査することは当然である。しかし,少数派であったり,急 進的,反動的とレッテル付けされているような意見についても考察していくこ とが大切である。 ‑ (中略) ‑この本("ISM シリーズの教材)を活用するに あたって読者は,この本が示す議論,論争に基づいて自らの意見を導き出すこ とになる。しかしこの時,自らがより良い視点を持つためには,自分とは同意 ができていない人の主張を理解することが必要となる。自らとは違う視点を十 分理解ができていない人は,結局のところ自分の考えも十分に理解できていな いと言うこともできる。 ‑ (中略) ‑こうした対立視点の考察を避けることに よる隠れた危険としては,自らの意見が常識であり,合理的であると考えるよ うになり,他の人の視点は常に間違っていると考えるようになってしまうこと がある。相手の方が正しく,あなたが間違っているかもしれないのに,である。」
(括弧内は筆者が加えた)
つまり, 「対立視点」を取り入れることは,学習者の見解を広めるだけではなく, 自らの見解をよりよく理解するためにも役立ち,自らの見解をより深いものとす るためにも有効であること,そして「対立視点」を取り入れないことは,自らの 見解を「常識」で「合理的な」ものとして考え,他人の見解を見下すようになり, それを聞き入れようとする態度が育たない課題が生じることをレオーネは指摘し て, 「対立視点」を取り入れることの必要性を説いているのである。
レオーネはまた,学習者が「対立視点」を分析して自らの見解を構築するため
には,批判的思考が不可欠となることを指摘し,その批判的思考に必要な手続き 的知識として,次のものを挙げている8)0
「①情報資料の評定‑多様な資料から信用の置ける適切な資料を取捨選択できる 能力のこと
②事実と意見(価値観)の分類‑証明可能な事実的側面と証明が困難な価値的 態度的側面を分類できる能力のこと
③偏見の発見‑情報の不足や誤った情報などに基づいた,人種,宗教集団,政 治集団などに向けられた言及や人々への誇張された表現を 発見できる能力のこと」
(括弧内は筆者が加えた)
そして,レオーネは,こうした手続き的知識は, 「対立視点」を取り入れた学習を 経験していくなかで育成されていくものであるとしている9)。
こうした「対立視点」を教材に取り入れるというレオーネの考え方は,もとも との"ISM シリーズにすでに見て取ることができる。 "ISM シリーズ(1983 年版)の内容編成を示したものが表4‑1である。"ISM"シリーズは『ナショナ
リズム(国家主義)』(第1巻),『インターナショナリズム(国際主義)』(第2巻),
『キャピタリズム(資本主義)』 (第3巻), 『ソーシャリズム(社会主義)』 (第4 巻), 『コミュニズム(共産主義)』 (第5巻), 『フェミニズム』(第6巻), 『レイシ
ズム(人種主義)』 (第7巻)の7つのテーマからなる.各テーマが「ルイズム」
となっている共通性からもわかるように,各種のイデオロギーがテーマとして取 り上げられている。これらは大きく3つに分けることができる。『ナショナリズム』
(第1巻)と『インターナショナリズム』 (第2巻)は政治思想として, 『キャピ タリズム』 (第3巻)と『ソーシャリズム』(第4巻), 『コミュニズム』 (第5巻) ほ経済思想として, 『フェミニズム』(第6巻)と『レイシズム』(第7巻)は,社 会思想として分類することができる。
各巻はそれぞれ, 4‑5の章から構成されている。幾つかの巻の章のタイトル は発問形式をとっており,それは各巻のテーマとなるイデオロギーと関連した内 容の発間である。第1巻『ナショナリズム』は4つの章からなり, r19世紀のナ
表4‑1 "ISM シリーズの内容編成
恩題額域 教科書名 章 立■ て 小 単 元 小単元で取 り扱う見解 (view points) 政 治
第 1 巻、■ ナ シ ヨナ リ ズム
第 1■章
19 世紀のナシヨナリ ズム‥古きものと新し きもの
導入
ナショナリズム
見解 1 ‥ナショナリズム :個人の称揚
■G ■マツツイーニ
見解 2 ‥ナショナリズム ‥国家の称揚
‑ H ■トライチユケ 国家と民族
見解 3 : ヨ一口ツ^O:国家による一つの家族 ーW .グラツドストン
見解4 : ドイツ ‥諸国家を超えた一つの国家 l P.ロールバハ
第2 章
P 20 世紀のナシヨナリ ズム :紛争のルーツ
導入
ボスニア併合
見解1 :ボスニアの併合
‑ ヨーゼフ1 世
見解2 ‥併合に関するセルビア人の回答
‑ N ●オドプラナ パレスティナ
見解 3 :ユダヤ人の故郷
■℃ハーツル
見解4 :アラブ人の故郷ー第一回アラブ学生会議
南アフリカ
見解 5 :アフリカーナ側の言い分
‑ R E ボ夕ー
見解 6 ‥アフリカ黒人側の言い分
■N ●マンデラ
第3 章
ナショナリズムと革 命
導入
ハンガリー暴動
見解 1 ‥ハンガリーのナショナリズムは正当である ーⅠ●ナギー& コワク= ベラー
見解2 :ハンガリーのナショナリズムは不正手段だ
‑ プラウダ& E .M バザリナー
チェコ事件
見解3 :チェコの社会主義改革は国家の名誉を回復する だろう ーL .ヴアツリク
見解4 ‥チェコの社会主義改革は国益との妥協を図るも のである
‑ I.アレクサンドロフ& P.N .デミチエフ 日本の軍備弓針ヒ
見解5 :日本のナショナリズムには一つの危険が残つて いる ‑ H .S.ス トークス
見解6 ‥日本は軍国主義を廃棄している
‑ 中曽根康弘
第4 章
導入
パレスティナ問題
見解 1 :パレスティナはユダヤ人に生得権がある ーM ●カハネ
見解2 :パレスティナはユダヤ人に生得権がない
】W ハリデイ 現代中東におけるナ 見解 3 ‥P L0 古事テロ組織である
ショナリズム ■S●ベレス
見解4 ‥イスラエルはPL0 を承認せねばならない
‑ N イ スマイル
見解 5 ‥イスラエルとパレスティナは妥協せねばならな い ‑ T.L .フリー ドマン
第 2 巻 イ ン ター ナ
第 1章 国際連盟
導入
国際連盟の機能
見解 1 :戦争に対抗するための保障
シ ョナ リズ ‑ W ウイルソン
ム 見解 2 ‥諸外国の加盟国の集合体
‑ H .C.ロッジ