1939年8月28日、「欧州の天地は複雑怪奇」のことばを残して平沼内閣は総 辞職し、阿部内閣となった。9月4日、新内閣は、欧州戦争に介入せず日支事 変の解決に邁進する、と声明した。
9月30日、アオイ書房の豪華日記ならぬノート・ブックに、 野季吉は季 節を記録する。
木犀の香小庭に満つ。かすかにして且つ強く、不思議な陶醉を味はせ る。この樹は私が歸宅直後一種の記念として妻が植木屋より求めしもの なり124。
保釈出獄したこの5月に植えられた木犀が、香ったのである。保釈中の 野 は、当局の監視下におかれ、執筆も含めて担当検事に定期的に報告をする身 におかれていた125。
大戦勃発を受けて特輯記事を組んだ『セルパン』10月号は、竹内てるよの 小品、三つを掲載した。「萩咲く」「もくせい」そして「アルゴン 星」から なる「秋三題」である。そのひとつ、「萩咲く」である。
むさしのの秋は萩の花から來る。
あるかなきかの風にゆれつつ 小さい葉裏をかへす
このしなやかなる枝をみよ
萩は さからはず 全生を 天地にまかせて かく うるはしく花ひらく126、
「秋三題」に「近頃になく心を引きつけられた」長谷川は、編輯長の春山 に「竹内さんといふ方は何ふいふ人ですか」と問いあわせた。「なんでも長 い間胸を惡くして貧困の中に病と闘ひながら詩を書いて來たプロレタリアの 詩人です」との答えであった。彼は春山に彼女の詩篇を取りよせてもらうこ とにした127。
翌月、11月号の『セルパン』に、長谷川は「鵠沼海岸だより」を寄せた。
10月6日付である。彼はいらだっていた。
石炭が不足し、電氣が不足し、パルプが不足し、從つて紙の減産やむ なく、それが眞に國策であるならば、國策に添ふ爲めに僕は明日からで も仕事をやめる位の覺悟はもつてゐる。今日の如く商工省が減産に減産 をもつて用紙を統制してゐるのに、これと關係の深い文部省が手をこま ぬ
ママ
いて高見の見物をしてゐることは許されないであらう。
文部省もすでに動いていたが、さらなる方策は、長谷川によれば、教科書を 毎年新しく購入させることをやめ、使用済みのものを消毒して新学年の児童
にゆずり渡すことであった。彼はつづける。
紙の減産、それが眞に國策に添ふことなら雜誌も新聞も皆な合同させ、
徹底的に統制するがよろしい。僕は休業、廢業、いつでも覺悟してゐる。
その代り底ぬけ統制は承服しない。人間の世界にあれも不要これも不要 と云ひ出したら後には自分自身も不要と云ふ所まで行かなければなるま い。呵々。
しかしながら、秋は進んでいた。
鵠沼海岸は秋色たけなはである。あたり一面どこを見ても僕の感覺を 愉しくしないものはないのだ。朝夕の散策にも聲とりどりの蟲の音が、
道端の草むらからオーケストラの合唱で送り迎へする128。
この11月号に、竹内の小さな二つの作品が掲載された。春山は「執筆者の 椅子」に、「竹内てるよ氏にもういちど詩を書いていただいた」129と記して いる。送られた20数篇の作品から選ばれたのであろう。そのひとつ、「初霜」
である
枝をかしげて
七つの花をもつたいぢらしさよ 山茶花の純白に 朝日あかるく
大氣は音立てるほど 澄んでつめたい。
戰捷の報 街にきこえつゝ
けさ はじめて東京に霜が來た130。
『セルパン』が発売される頃、 野も季節を記録していた。
十月二十一日(土)晴れなれど雲の往來繁し。附近の畑には掛稻もあり、
山茶花も散る。眞紅のダリアもやうやく輪を小さくし、咲き殘つた朝顔 もさびし。
十月二十六日(木)冷雨斷え間なきに、砲聲斷續す。けふは防空演習第 三日なり131。
春山が日満中央協会主催の日本雑誌記者団満州団調査隊の一員として旅立 ったのは、その26日である。近藤東は旅立つ詩人を唄った。
眼鏡ヲカケテヰル ソノ上複眼ダ
詩人ハ一匹ノ蝶ニナル 海峽ヲ渡ル
乳色ノ河ヲ遡航スル 國際列車ノ窓ヲ閉メル 電報ヲ打ツ
高梁ノ種ヲミル132
新聞販売店からもらった例の「特選新聞記者用」を携えていたかどうか不明 だが、春山は手帳とカメラを携えて海峡を渡った。しかしその「カメラは主 として樹木や廣告や建築物を撮る目的」133であった。複眼の春山はジャーナ リストであり詩人であり、観察の人であった。彼は、「手帳」と題した随筆 に、こうも記している。
觀察すること、記録を正確にとることは我々が科學者になるために必 要ではなく、文學に時代と環境の雰圍氣をできる限り忠實にとり入れる ために必要である134。
11月4日、調査隊一行と別れ、つぎの旅程までハルビンに居残った春山は、
古本と文房具を売るロシア人の店で鉛筆を買う。土産のつもりであった。こ の店に「眞鍮の金具で綴口のしまるやうになつた手帳が五六冊」135あるのを
見つけた。百貨店で手帳を探してみたがすべて日本製であることに落胆して いた彼は、おそらくその一冊を買ったのであろう。「クロースの表紙に花環 の模様」を押したものだったかも知れない136。
翌日、5日午後5時の列車で、春山はハルビンから大連に向けて出発した。
鮎川がアメリカ映画の見収めと思いこんだ『黒蘭の女』が新宿の武蔵野館で 封切りされたのは、その直後、11月8日のことである。W・H・オーデンの September: 1939 を掲載した週刊誌『ニュー・リパブリック』10月28日号 は、横浜へ向かっていた頃のことである。
竹内の古い作品が長谷川の手許にとどいたのは、おそらく、春山が帰京し た11月23日以降のことであったろう。
春山に送られた作品に添えた手書きには、切手を買う都合ができずに遅れ たとの、申しわけが添えてあったという。受けとった長谷川は、「長い間、
ことに胸を病みながら、而も貧困のどん底にありながら、よくも斯くまで純 粹に、 らかに、勇々しく、而も愛にみちた心境に詩作を續けて來られたも のだと、感激」しつつ、詩集の準備をすすめた137。12月初旬のことである。
この頃、村野の『體操詩集』の刊行が迫っていた。
村野には、すでに、昨年の春に詩集を三冊出版する計画138があったが、そ の一冊が実現することになった。8月15日に刊行された『戰爭詩集』に、彼 の「前線への手紙」と「陸軍病院にて」が掲載され、24日までの予備役召集 の終わりもあと一週間となった頃である。『新領土』9月号の「後記」である。
詩集を出す計畫だけをたてゝ、なかかな現實に進捗しないで困つてゐ る。つまらぬものを出して了つては取りかへしがつかぬという氣がする ので、作品に手を入れだすと、さてキリがないのである。裝幀にしても、
色々に迷つて了つて結局、億劫になつてしまふ。
詩集は北園克衛の協力をえて、年内中に刊行の予定であった。そして、彼は、
「後記」をこう結ぶ。
僕のデイーンストもあと一週間で解除になる。この切實な急流の中の
一ヶ月から、實に多くの新しい見解を僕は學びとつた139。
アオイ書房から『體操詩集』が刊行されたのは、12月20日である。作品の なかからスポーツに関する詩を集めたものであった。村野は記す。
私はこれを配列することによって、私の一つの面を強調してみたいと 思ふ。それが在來の憂悶詩に對抗することになれば、また望外のよろこ びである。今日ではもう、詩人が本質としてヒステリーでなければなら ないと言ふ理由は何處にもない140。
詩集の構成と造本を助けた北園は記す。
最も進歩した藝術の究極の効果がエネルギーのフオルムにあると言は れる現代藝術の原則が、的確なセンスと秀抜な技術に依つて最も切實に 示された此の詩集には、更に我國最初の造本上の新しいタイプへの劃期 的な努力が拂はれてゐる141。
北園の文章は、そのまま、『新領土』12月号のアオイ書房の広告に使われた。
その広告によれば、豪華限定版で、「四六倍判/全文寫眞植字」142であった。
「在來の憂悶詩に對抗する」詩集は、時代のヒステリーとは無縁なところで、
専門の製版工程を経て刊行されたのである。ただし、用紙の確保のために払 われた努力を思わねばならない。
豪華詩集を刊行したアオイ書房は、『新領土』11月号に、『書窓日記 昭和 十五年版』の販売を告げた143。
サスガの書窓日記も今年は出せんぢやろ―この材料キキンでは。十 人が十人かうおつしやる。ナルホド紙をはじめとして何もかにも無いも のダラケ、カガリ糸から表紙のシンのボールまでないんだから、目今贅 澤な本など作らうとするのは、サバクの眞中で水泳大會をヤラカスみた いた話しでナンセンスも甚しい形勢と相成つてゐる。