II. 研究の実施内容
1. 序論-生態系サービスの持続的利用と経済価値 生態系サービスとは
1.1.1. 生態系と生物多様性
1992年のリオ・デ・ジャネイロにて地球サミットが開かれ、生物多様性条約が締結され た。それ以降、生物多様性に対する関心は世界的な高まりを見せている。現在、生物多様 性の务化はもうひとつの地球サミットの成果である気候変動枠組み条約と並び、環境に関 する現代の二大重要課題とされている(図 1.1.1)。しかし、これら 2 つの課題は異なる性 質を抱えている。
気候変動は温室効果ガスにより引き起こされる世界的に共通の課題であり、その排出量 を削減するという目標を設定することで対応することができる。これに対し生物多様性の 务化は様々な要因により生じる地方・国家・地域・世界レベルの多様な次元に跨る課題で あり、その対策手法も遺伝子の保存から種の保全、保護区の設定まで多岐に亘るものであ る。植林を具体例として両者の相違を表現するならば、気候変動対策の観点からはどのよ うな樹種でも生育が早いものが好まれるのに対し、生物多様性保全の観点からはその土地 の固有性に応じた樹種でなければならないという制約がある。つまり気候変動対策よりも 生物多様性保全は理解されにくく、複雑であるという特徴がある。
生物多様性は複雑な課題であるが、まずはその定義を正確に認識することが理解を深化 させる一助となる。生物多様性は、生物多様性条約第 2 条において「すべての生物(陸上 生態系、海洋その他の水界生態系、これらが複合した生態系その他生息又は生育の場のい かんを問わない。)の間の変異性をいうものとし、種内の多様性、種間の多様性及び生態系 の多様性を含む」と定義されている。すなわち生物多様性とは遺伝子、生物種および生態 系の多様性を表わすものであり、より厳密にはそれらが多様であるという「状態」を表現 するものである。一方で類似のものとして捉えられる傾向にある生態系とは、「物理的な環 境とそこに生息する生物群集の相互作用から構成される複雑なシステム」であり、「エネル
図1.1.1 生物多様性と気候変動に関する国際的取組
1992年 地球サミット
(国連環境開発会議)
気候変動枠組条約 生物多様性条約
名古屋議定書
愛知目標 京都議定書
ギーや物質の固定、生物体の再生産、物質の生産・循環・分解を基本として、さまざまな 生態系機能を有する」と定義される(巌佐他、2003、pp.317)。すなわち生態系とは「構造」
であり「機能」であることから生物多様性とは異なるものであり、この生態系の多様性が 生物多様性の一部を成すという関係にある。
一般に生物多様性という言葉は種の多様性を連想させ易い。それは種が比較的明確に区 別された概念であり、また我々に馴染みの深い観念だからである。例えばアフリカゾウと インドゾウの相違は専門的であるにしてもゾウとサイは容易に見分けのつくものであり、
またニホンタンポポとセイヨウタンポポの見分けは困難であるにしてもタンポポとサクラ の相違は認識が容易である。これら種と生態系の関連性については、種が多様であるほど 生態系の生産性や安定性が上昇するとともに(Tilman et al., 2005)、生態系が攪乱を受け た際の耐性および回復速度が高まると言われている(Elmqvist et al., 2003)。ところがそ の関係性は必ずしも線形とは限らず、リベット仮説などによる上方硬直性が指摘されてい る(Ehrhich and Ehrhich, 1981)。これは飛行機がいくつかのリベットを逸しても飛行を 継続できるが、ある一定のレベルを超えた時点で飛行が不可能になることに例えたもので あり、生態系もいくつかの種が絶滅してもその機能を継続できるが、ある一定のレベルを 超えると崩壊することを示したものである。これより推論されることは生態系の機能を保 つためには必ずしもすべての種を保全する必要はないということである。但しどの種なら ば絶滅の影響が小さいか明確であるとは限らず、いまだに記録されていない種が極めて多 く存在することや種同士の関係性は把握しきれないほどに複雑であることに鑑みると、安 易に種の絶滅を容認すべきではないことは明らかである。
生物多様性をどのレベルにおいて保全するかは議論が続いている。遺伝子資源は新薬開 発において重要な要素であるが、各個体において異なる遺伝子をすべて保全することは不 可能である。同様に現状の資金制約下において一千万とも一億とも言われる種を各個保全 することは極めて困難であり、仮に特定のキーストーン種やアンブレラ種を保全するにし てもそのためにはそれらの生息地を保全することが絶対条件となる。このように考えると 生物多様性を保全するにあたり優先的に考慮されるべきは生態系である。生態系は極めて 複雑で他の生態系との区分が困難であることから政策の対象としづらい側面があることは 事実であるが、生態系の保全なくして種や遺伝子の保全が難しいことに鑑みるとその重要 性は一目瞭然である。生態系アプローチとして生物多様性条約において謳われているよう に、生態系に注目した保全政策が生物多様性保全の効率的および効果的な実施の鍵となる と考えられる。
1.1.2. 生態系サービスと人間の福利
生態系は相互に複雑な関係性を有するとともに土地に応じた独自性を内包することから 明確な分類が困難である。しかしそのような中においても類似性を持つ生態系を整理する
ことは可能であり、かつ政策決定や保全活動において生態系の分類が一定の意義を有する ことから、生態系をいくつかのカテゴリーに分類する取組が様々に実施されている。ここ
ではMA(2005a)による区分を紹介する。
これはまず地球表面を大まかなシステムとして捉えた上で、それより詳細な生態系をそ れぞれのシステムへと分類したものである(表1.1.1)。例えば陸水と呼ばれるシステムは、
沿岸域や内陸に存在する永続的な水域を中心としたシステムと定義され、河川、湖沼、氾 濫原、貯水池、湿地、塩湖などの生態系がこれに含まれるとされている。このようなカテ ゴリー分類は農林水産業などに関する各国政府の省庁の管轄区分と対応すること、および 生物多様性条約においても採用されていることから有用であると考えられている。但しす べての地表・水面がその特性に応じてこのうちのひとつのみに分類されるとは限らず、ア グロフォレストリーが行われている土地などは森林システムおよび農耕地システムの双方 に属するとされることに留意が必要である。
このように様々に分類される生態系は、それぞれのその本来的な機能において栄養塩固 定や水質浄化、大気調節などの環境維持活動を行うとともに、自然資源を生産する。これ らは人間にとって極めて重要な生活基盤であり、経済活動との類似性を基に捉えるならば、
前者はサービスの提供、後者は財の提供に他ならない。MA(2005a)はこれらを総称して
「生態系サービス」と呼び、4つの区分に基づく31のサービスに分類している(表1.1.2)。 供給、調整、文化、基盤の 4 つに区分された生態系サービスは、食糧供給から気候調整、
レクリエーションから土壌形成まで広汎であり、その与える影響の範囲も洪水抑制などの 地方レベルから大気調整などの世界レベルまで多層的である。様々な生態系が多種多様な サービスを提供し、そこに存在する種が生態系の機能に影響を及ぼすことに鑑みると、生
表1.1.1 生態系の分類
システム 含まれる生態系
1 海洋 大陸棚、大陸斜面、海山、深海など
2 沿岸 マングローブ、サンゴ礁、海草地、干潟、河口、塩性湿地、砂丘など 3 陸水 河川、湖沼、氾濫原、貯水池、湿地、塩湖など
4 森林 熱帯湿性広葉樹林、熱帯針葉樹林、温帯広葉樹林・混交林、温帯針葉 樹林、寒帯林など
5 乾燥地 低木地、灌木地、草原、半砂漠、砂漠など 6 島嶼 火山群島、環礁島、大洋島など
7 山岳地 乾性亜高山帯、乾性熱帯丘陵、湿性温帯高山帯、湿性温帯低山帯など 8 極地 氷山、永久凍土、ツンドラ、極地砂漠、極地沿岸域
9 農耕地 農地、水田、牧草地、果樹園、森林農業地、養殖地など 10 都市 居住地、商業地、工業地など
出典:MA(2005a)およびMA(2005b)
表1.1.2 生態系サービスの分類
供給サービス 文化的サービス
1 食糧 17 文化的多様性
2 繊維 18 精神的・宗教的価値
3 燃料 19 知識体系(伝統的・
慣習的 4 遺伝子資源 20 教育的価値 5 生化学物資、自然薬
品
21 インスピレーション
6 装飾品の素材 22 審美的価値
7 淡水 23 社会的関係
調整サービス 24 場所の感覚
8 大気質の調節 25 文化的遺産価値 9 気候の調節 26 娯楽とエコツーリズ
ム 10 水の調節 基盤サービス 11 土壌浸食の抑制 27 土壌形成 12 水の浄化と廃棄物の
処理
28 光合成
13 疾病の予防 29 一次生産 14 病害虫の抑制 30 栄養塩循環 15 花粉媒介 31 水循環 16 自然災害の防護
出典:MA(2005a)
態系サービスは生物多様性に支えられたものであると言える。
これらの生態系サービスは人間の福利を構成する五つの要素、すなわち豊かな生活に必 要な基本資材、健康、良好な社会関係、安全、選択と行動の自由と密接に関係する(MA, 2005a)。豊かな生活は衣食住の安定により支えられることから供給サービスにその多くを 依存し、栄養や疾病予防、精神的健全性などの観点から供給サービスや調整サービス、文 化的サービスは健康に強い影響を及ぼす。また特定の生態系に基づく文化的サービスの共 有は良好な社会関係の基盤となるとともに、供給サービスなどの务化は社会的な不和を招 く可能性がある。安全は生命や財産の保障であり、洪水抑制などの調整サービスはこれに 対して重要な役割を果たすとともに、選択と行動の自由はすべての生態系サービスの影響 を受けうるものである。
すべての人は生態系サービスの受益者であるが、その依存度は個人の状況やサービスの