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年間を修了した学生で,卒業後は海軍に勤務することが義務づけら れていた(東京帝国大学編前掲書(1932),669 頁)。この時,山崎(理学部工学科第二年

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学生),本文表 1 に掲げた小幡文三郎(理学部第一年学生)ら 3 人が応募したが,合格した のは小幡だけであった。山崎は視力が弱かったため不合格となったが,翌年,再び応募し,

「適スル者甚タ僅少」であったこと, 「乗艦武官」ではないこと, 「技術士ノ養成ハ最モ急務」

であったことを理由に,造船学科への編入が許された(国立公文書館アジア歴史史料セン ター所蔵資料,レファレンスコード

C11019116600・C11019116550・C11019446600(いず

れも明治 17 年,明治 18 年の資料で,資料名が長文にわたっていたので省略した))。山崎 と小幡は「造船学修行ノ為」,1886 年 6 月 15 日に「仏国巴里府ヘ到着」した(C10123969100

(明治 19 年資料))。1893 年の氏名録には,学士名,卒業年,卒業学科,氏名,住所や勤務 先もしくはどちらか 1 つが縦書きされている。たとえば山崎の記載の前には「理学士(一七 土木) 山崎鉉次郎 神奈川県久良岐郡・・・・・・」とある。次に続く山崎甲子次郎の場 合,学士名,卒業年,卒業学科を書き込むべき個所が空欄で,そこに小さな文字で「アン シャン,エーレブ,リーブル,ド,レコード,タツブリカツシヨン,ヂュ,ジエニー,マ リチーム」と書かれていた。住所の記載はなく,勤務先として「広島県呉鎮守府造船部」と ある。1901 年の氏名録では勤務先・住所が一番上に置かれ,以下,学士名,卒業年,卒業 学科の順となっているが,それらの個所に,「エレーブ」を除いて 1893 年の氏名録と同じ カ タ カ ナ が 記 さ れ て あ っ た。 こ れ は「Ancien élève livres de Ecole dʼapplication du

Génie Maritime」のことで,エコール・ポリテクニクの上位進級学校のフランス海軍工兵

応用学校であった。同校には自由聴講生(élève livres)の制度が設けられ,ポリテクニク を卒業しなくても,海軍省の許可があれば国籍を問わずポリテクニク出身者と同様の教育 を受けることができた(堀内達夫(1997)『フランス技術教育成立史の研究−エコール・ポ リテクニクと技術者養成』多賀出版,237 〜 241 頁)。Ancien élève は卒業生という意なの で,山崎は 2 年半の過程を修了したことになる。『大日本博士録』(140 頁)にも,小幡の 項に上記の「アンシャン,エレーブ・・・・・・」と同一の肩書きが見いだせた。同書で は「仏国巴里造船学校」という名称が使用されていた。2 人ともに 1889 年に帰国し,同年 11 月,横須賀鎮守府造船部計画主幹に任じられている(横須賀海軍工廠編(1915)『横須 賀海軍船廠史』第 3 巻,原書房(1979 年復刻版),55 頁)。山崎は 1893 年段階で上記のよ うに呉鎮守府造船部に勤務していた。

6 )技術移転という観点から分類したもので,従来の分類方法に修正を加えた。省庁勤務の場

合,本来であれば公務に分類されるが,前稿や本稿では工学士の配属部署などの業務内容

を基準に分類した。また本来なら研究や産業振興に分類される勤務先については,関連技

術が移転したと見なせる産業に分類した(植村前掲論文(2017a))。

7 )工学会編(1931)『明治工業史』火兵・鉄鋼篇,工学会明治工業史発行所,342 〜 345 頁。

8 )成長率計算は,当該年とその前の 2 か年,合計 3 か年の平均値を算出して, (

YY10

n1

−1(Y

1

は期末値,Y

0

は期首値,n は経過年数)を計算。

9 )植村前掲論文(2017b)。

10)沢井実(2015)『帝国日本の技術者たち』(吉川弘文館)では,植民地における技術者につ いて詳細で網羅的な分析が行われている。

11)植村前掲論文(2017a),31 頁。

12)大阪市では都市計画法施行後に従来の市区改正部を都市計画部とした(田中清志(1925)

『大阪の都市計画』日下和楽路屋,28 頁)。

13)以下,池田宏(1919)『現代都市の要求』(都市研究会),中邨章(1980)「大正八年・都市 計画法再考」(『政経論叢』第 49 巻第 1 号),石田頼房(1987)『日本近代都市計画の百年』

(自治体研究社)を参考にした。

14) 京都市では 1920 年 7 月にそれまでの調査課を拡充して都市計画課を置いた(京都市市政史 編さん委員会編集(2009)『京都市政史』第 1 巻,京都市,374 頁)。

15)植村前掲論文(2017b),図 9(6 頁)。

16)警視庁や地方庁警察部に建築監督官が置かれたのは,市街地建築物法が施行された 1920 年 12 月以降なので,1920 年氏名録にはこのポストに就いた工学士はあらわれない。

17)産業分類としては金融・保険・不動産業に分類したが,特殊銀行であったので監督官庁の 大蔵省に所属していると解して省庁に分類した。

18)日本銀行統計局編(1966)『明治以降本邦主要経済統計』並木書房(1999 年復刻版),106 頁。

19)宇田川勝「新興財閥−日産を中心に−」,桂芳男「財閥化の挫折−鈴木商店−」,安岡重明 編(1976)『日本の財閥』(『日本経営史講座』第 3 巻,日本経済新聞社)所収。宇田川勝

「破綻した企業家活動」,宇田川勝編(1999)『日本の企業家活動』(有斐閣)所収。

20)同社は 1887 年に佂石鉱山田中製鉄所として発足し,1918 年,田中鉱山株式会社に改組さ れた。第一次世界大戦後の不況のため経営難に陥り,1924 年,三井鉱山の子会社・佂石鉱 山株式会社となった(三枝博音・飯田賢一編(1957)『日本近代製鉄技術発達史』東洋経済 新報社。佐藤昌一郎「佂石製鉄所」,『国史大辞典』吉川弘文館(ジャパンナレッジ))。工 業之日本社編(1909・1919・1930)『日本工業要鑑』(明治 43 年度用・大正 9 年度用・昭和 6 年度用(工業之日本社))のいずれにおいても鉱業もしくは採鉱に分類されていたので,

本稿でも同社を鉱業の金属鉱業に分類した。

21)氏名録には,勤務先所在地もしくは工学士の「宿所」が記されている。

22)従来の分類では研究は公共サービス業に含まれるが,本稿では研究技術と関連する産業に 分類した(植村前掲論文(2017a))。

23)このことを検討するために,工部大学校において人,物,文献を利用した授業がどのよう

に行われたかを跡づけた。すべての授業科目について検討することはできなかったので,工

学系カリキュラムの中で専門基礎科目にあたる物理学(当時は理学とも称された)を例と して取り上げた。当時,物理学は生産技術にとって重要性の高いものであると考えられて いたし,実際に,その中の電磁気学は鉄道業,電力業,通信業などにとって不可欠の科目 であった。以下の文献で検討した。植村正治(2010)「明治初期工学教育機関の設立」, 『社 会科学』第 40 巻第 3 号。同(2012)「工部大学校理学研究棟について−研究ノートに代え て−」, 『同志社商学』第 63 巻第 5 号。同(2012)「《研究ノート》工部大学校(工学寮)に おける博物場・器具室と実習用諸器具について」, 『社会科学』第 42 巻第 2・3 号。同(2013a)

「工部大学校書房と図書分類」,『流通科学大学論集』経済・情報・政策編,第 21 巻第 2 号。

同(2013b)「工部大学校書房所蔵の理学図書−研究ノートに代えて−」,『流通科学大学論 集』経済・情報・政策編,第 22 巻第 1 号。同(2014a)「《研究ノート》シラバスを通して 見た工部大学校の理学教育」, 『社会科学』第 43 巻第 4 号。同(2014b)「工部大学校(工学 寮)における理学シラバスの変遷」,『流通科学大学論集』経済・情報・政策編,第 23 巻第 1 号。同(2014c)「工部大学校(工学寮)における理学の実験実習−研究ノート−」, 『流通 科学大学論集』流通・経営編,第 27 巻第 1 号。同(2015)「工部大学校における重力加速 度に関する教育−覚書−」,『流通科学大学論集』経済・情報・政策編,第 23 巻第 2 号。

24)1920 年段階で海軍造兵廠製造部に勤務していた有田平一郎は,1901 年氏名録に川口平一郎

とあったので別人として集計したが,卒業学科などを見直すと同一人物であったことが判

明した。また 2 人の東京大学理学部出身者を誤って入力していたこと,脚注 4 のように,東

京大学理学部化学科出身の理学士で後に工学博士号を取得した石藤豊太が漏れていたこと

により,5 か年の氏名録にあらわれた人々は 9,978 人(前稿までは 9,980 人)となった。前

稿では,勤務先の産業まで判明した延べ人数を 15,499 人としたが,今回,上記のような修

正や別の細かな修正により 15,509 人となった。

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