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平城京左京二条二坊五坪 の「樋殿 」遺構

ドキュメント内 1 訟削 (ページ 32-36)

A  東二坊々間路西側溝 SD4699に おける寄生虫卵 と花粉

左京二条二坊五坪 と二条大路 およびその周辺の調査 に伴 って花粉分析 を行 ったが、寄生虫卵 分析 の研究が進展す る過程 において、 その花粉分析用プレパ ラー トか ら寄生虫卵がやや目立 っ て含 まれ る層準が見 いだ された。特 に東二坊々間路西側溝SD4699の下位 の層位 では、寄生虫 卵が多か ったため、改 めて寄生虫卵 の定量分析 を行 った。他地点 については後 になって寄生虫 卵 の定量分析 を行 ったが、南濠状遺構SD5100中の粘土層試料21で やや多か つたほか は、注 目 すべ き密度 を示 した ものはなか った。以下、東二坊々間路西側濤SD4699の下位 の層位 につい て検討 を行 う。

試料 と方法

  

東二坊々間路西側清SD4699では、下位 よ り、砂層、粘土層、砂質土層が堆積 す る。分析対 象 としたのは、花粉分析用プレパ ラー トで寄生虫卵 の 目立 った下位か らの

4点

で、

砂層か ら粘土層 にか けてである。

分析 は、試料l cm3に フッ化水素酸処理 を施 し、プレパ ラー トを作製 した。 l cmaぁた りの出現 数 (密

)は

計数比 か ら算定 した。結果 は寄生虫卵 の分類群 の出現数および花粉 との対比 を、

それぞれダイアグラムにして示 した(Fig。 135。 136)。

結果

  

検 出された寄生虫卵 には回虫類や鞭虫類が ほ とん どで、肝 吸虫、異形吸虫類(横川吸虫を含む)、 肝 蛭類が出現 した。

寄生虫卵 の含有密度 は、下位砂層の試料

9で

試料1

cm9中に約100個で あ り、試料 8と 粘土層下部 の試料7 で200個以上 を示 し、上位 は少 な くなる。寄生虫卵 の

 

埜 組成で は回虫類 と鞭虫類が多い。

       

寄生虫卵 と花粉 (Color ph 10)  回虫類、鞭虫類、肝

 ̲

吸虫、異形吸虫類(横川吸虫を含む)とい う寄生虫卵 の分

 

砂 類群 の構成 か らみて、人 の糞便 に起因す るもの と判断

 

され、回虫類 と鞭虫類 は人体寄生虫の回虫(■s翻お 励物‐

― ι力εοゲ″

a)と

鞭虫 (多売力筋広 筋θ吻 筋)とみなされ る。

わずかに検 出 されている肝蛭類 は、草食獣 に起因す る。

東二坊 々間路西側濤SD4699の下部 で は、他地点 と

分析 の経緯

 

♂ 翻 調 虫︲ 類︲

H

0     1x1021固 nS

Fig。

135 

寄生 中卵分析結果 比較 して も、寄生虫卵 の出現数がやや多い。花粉の出現数 と,ヒ較 して も、下部 は多い といえる。

寄生虫卵 の出現数 は、花粉の出現数 と挙動が一致す る層準 もあ るが、そうでない部分 もあるた め、発生源が異 なることが考 えられ る。ただ し、水流 による分別 な どの堆積要因の異な りもそ の原因 とな る。 これ らの ことか ら、東二坊々間路西側溝

SD4699の

下部 の時期 に、寄生虫卵 の

発生源 とな る人 の糞便が この溝 に投棄 された り流れ込むような状況があった と推定 される。寄

 

汚染の原因 生虫卵 の分類群 において も、やや大 きな回虫類 と鞭虫類が多 く、水流 による分別 を受 けている

とみな され る。 よつて、発 生源 が分 析 地 点 よ り上 流域 に あ った と推 定 さ れ る。

花粉 分析 結果 で は、 ベ ニバ ナ花 粉 を除 けば、有用植物 や食 用植 物 の花 粉 は反映 され てお らず 、 周 辺 の植 生 を反映 してい る。ベ ニバ ナ花粉 は虫 媒 花 として はやや 高 い 出現 率 を示 す が、 出現数 において は全般 的 な花粉 と挙動 を伴 にす る。ベ ニバ ナ花粉 は 寄 生 虫卵 の少 ない試 料 4・

5で

も比 較 的多 く、必 ず し も寄 生 虫卵 と挙 動 を伴 に しない。流水域 にお いて は大 きさや比重 に よる分別 も考 え られ る た め、同 じ発生源 に起 源 す る ものか 否 か は判 断で きな い。 今後 、各 溝 で 分 析 を行 う必 要 が あ ろ う。

5 6

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Fig。136 寄生 虫卵 と花粉 の 出現密度

掴 卿

べ ニ バ ナ

0 □ 5 ︒

式 所

殿

便

参考文献

奈文研編 F平城京

 

長屋王邸宅 と木簡』吉川弘文館

,1991

奈文研 『藤原京跡 の便所遺構』1992

金子清俊・ 谷 口博一 『新版臨床検査講座』

8,医

動物学医歯薬出版

,1987

Peter Jo WarnOCk and Karl Jo Reinhard (1992)Mehods for Extraxting Pollen and Para‐

site Eggs from Latrine Soils  」ounal of Archacological Science  19.

B 「樋殿」遺構

古代便所の考古学的調査 は、藤原京右京七条一坊西北坪 の調査 を担当 した黒崎直 によって研 究の途 につ き、

7世

紀 の藤原京 にすでに汲み取 り式の便所が存在 した ことを証明 した。その後、

各地でさまざまな遺跡で古代便所 の存在が明 らかになって きた。今 回報告す る「樋殿」式便所 も古代都市の便所 として新 しい知見 をもた らせた ものである。

松井章 は、金原正明か ら花粉分析用 に採取 した二条大路 との交差点付近 の東二坊坊間路西側 清SD4699で採取 (Fig。

137)し

た堆積土壌 に、糞便特有の寄生虫卵や植物残澄が見 られ る との 連絡 を受 けた。平城京の条坊 の側溝 には、多かれ少 なかれ、寄生虫や植物残澄の糞便 の堆積物 が流入 していた ことが金原正 明・ 正子 の研究か ら明 らかにな りつつあ るが、SD4699はなかで も密度の高い ものであった。 そ こで松井 は過去 に調査 した周辺の便所 の可能性 のある遺構 の検 討 を行 った。その結果、左京二条二坊五坪 にある遺構が、

SD4699上

流の東二坊々間路西側清

SD

0

・ 卜

コ  コ

 

 ″`

50

5021か ら築地基壇 に木樋 を通 した暗渠 をもうけ、屋敷内に水 を引 き込み、 さ らに築地 に平行 して木樋 を通 して流す 遺構が水洗式便所であるとの確信 を持

った。

 

構 (Ph.67・ 68, Fig。43・ 44。 138)

この遺構 は、長屋王邸宅の後身建物 の一角で、藤原麻 呂の邸宅、 もしくは さらにその後 の官衛的要素 を持つ建物 群 の導水施設である。東二坊々間路側 溝SD5021か らの暗渠

SX5034へ

の水 の 取 り入 れ部 に は、幾本 か の杭 が打 た れ、 この部分 に堰 を設 けて、屋敷内で 流水が必要 な場合 に側溝 の水位 を上 げ て屋敷 内 に水 を導 く構造 にな って い る。暗渠SX5035は 木樋 で あ り、築地 基壇 の損傷 を防いでいる。側溝 に対 し て約60度の角度で取 り入れ られた水流 は、側清か ら約 3メ ー トルの ところで 築地 に平行 して流れ る構造 になってい る。 この木樋 を埋 め込 んだ溝が築地雨 落 ち溝 を切 っているところか ら、 この 部分 には蓋 の あった こ とを想定 させ る。築地 に平行 して埋 め込 まれた木樋 の側板 は、厚 さ10cm以上の板材 をもち い、発掘 区内において約 5メ ー トルを 検 出 したが、発掘区域外 に延 び

ているため、元来の長 さは不明 である。 この木樋 は側板だけで 底板がない。側板の残 りが良い ので、底板が腐朽 し消滅 した こ とは考 えられない。

2枚

の側板 を落 とし込 む底板が何 らかの理 由で この木樋 を埋 める場合 に撤 去 した ものか、元来底板がなか ったのか は不明である。両側板 の下 には高 さを調節す るためか 角材 を

3本

敷いている。

Fig.137 土壌採取地点 図

 1:450

202‑13次

198次A区 東二坊々間路

採取地点

二条大路

Fig。

138 

樋殿 (水洗便所

)復

この周辺、特 に木樋溝 の下流部 にあた る第198次

B調

査 区において もこの溝 の延長 は見つか ってお らず、取 り入れ られた水流 は、発掘 区域か らほ どな く、 もとの東二坊々間路西側溝 に貫 流 させていた ことが想定で きる。

文献 にみ る「樋」 と便所の関係

 

岩波国語辞典 には、古代貴族の用いた持 ち運 び式便所 を「清 箱J(しのはこ

)と

呼ぶ とともに、「樋箱」(ひばこ

)と

も呼 ばれる と記す。

また、貴族 の屋敷 内の便所掃除の女官 を「樋洗童J(ひすましやわら

)と

呼ぶ用例が、

 F源

氏 物語』『紫式部 日記』 にみ られ、便所 の ことを「樋殿」 を呼ぶ ことも伝 えている。

法令 な どの公文書や公用文 には、西大寺流記資材帳や令集解み られ るように「厠」が使われ るが、文学作品では、「樋」 とい う字が便所 に結びつ くことがわか る。現代で も年輩の人々が 口にす る「御不浄」のように、「便所」である厠 とい う用語 を口にす ることがはばか られ るた 厠 と樋 殿

 

めに、厠 の隠語 として用いたのであろう。

古代都市の便所や下水施設 の問題 を最初 に取 り上 げたのは、高橋 昌明であった。高橋 は平安京 の排泄物や下水施設の問題 を取 り上 げた中で、弘仁

6(815)年

と斉衡

2(855)年

の太政官符 に注 目し、古代都城 の排泄物処理 を考察 した。松井 は、今 回検出 した遺構 を、高橋 の見解 に も

とづいて以下のように考 えた。

弘仁

6年

の 2月 9日 の太政官符(『類衆三代格』巻16貞観7年11月 4日太政官符引

)の

記載 は、

次のようである。

「京中の諸司、諸家、或いは垣 を穿ち水 を引 き、或 いは水 を塞 いで途 を浸す、宜 しく諸司 に 仰せ、みな修営せ しむべ し、流水 を家内に引 くを責めず、ただ汚枕 を培外 に露す を禁ず、 よっ て よってすべか らく穴毎 に樋 を置 き水 を通すべ し。」

さらに、斉衡

2年

の太政官符(『類衆三代格』巻

16)の

記載 は、次の ようである。

「傾年水涼 しき りに至 り、溝流路 を失 う、渠に縁す る家、 しばしば侵害 をこうむる、道 を行 く人常 に泥塗 に苦 しむ、」

「渠 に近 き家、大 いに水門 を穿ち、好 みて溝流 を絶つ、垣基 これによりて頼毀 し、道 のほ と りこれがために湿悪す、」

つ まり、 ここで描かれた光景 は、上で述べた遺構 その ままである。 この木樋 まで、屋敷内の 支配階層の排泄物 を樋箱 に入れて樋洗が持 ってきて、樋箱 の中身 をここに流 した情景が思い浮 かぶ。 また、本樋 の幅か らみて、使用人が直接 この樋上 に腰 をかがめた可能性 もある。周囲に 上屋が存在 した痕跡 は調査 区外 につづ くため検 出で きなかったが、簡単な雨水の流水 を防 ぐ建 物が存在 した ことが推定で きる。 そして、そのような建物が「樋殿」 と呼 ばれた ものの実態で あった ろう。木樋の先 には「汚械」 を浮かべて塔 の外 にたれ流 さないように、なん らかの トラ ップが設 けられていた と考 えたい。

貴族 の邸宅や役所で は、条坊 の側溝か ら水流 を引 き込 もうとして、側溝 を堰止 めるため、汚 水があふれ公共 の迷惑 になること、京の所司、所家が垣 を穿ち、側溝 の水 を堰止 めて家内に水 を引 き込む ことがあること、その水 をもとの側清 に還流 させ る場合 に「汚核」 を垣外 に垣外 に 曝す ことを禁 じることか ら、高橋 と同様 に、 この「汚械」が糞便であろうと想定 した。

1)高

橋 昌明「 よごれの京都・ 御幽会・ 武士―続・ 酒 No。 199,京都民科歴史部会,1990,pp l〜13 呑童子説話 の成立―J『新 しい歴史のために』

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