(1920 年 1 月から 1921 年 11 月まで)
はじめに
前章で検討したように、1919 年に開かれたパリ講和会議において、山東におけるドイ ツ権益は日本に帰属すると決定された。中国ではそれを機に「五四運動」が勃発し、中国 全権も講和条約の調印を拒否した。日本政府はパリ講和条約に基づき、山東善後措置を講 ずるために、1920 年 1 月から北京政府に山東問題の中日直接交渉を申し入れた。日本政 府が数回に渡って山東問題の直接交渉を北京政府に呼びかけたが1、北京政府は直接交渉 拒否方針を堅持し続けてきた。しかし、このまま棚上げにすると、山東は日本に占領され たままとなり、山東問題も永遠に解決できなくなる。強硬な姿勢を貫かずに何とかして交 渉に突破口を見出そうとした北京政府は、1921 年 1 月から、外交部交渉員と陸軍部参事 を個人名義として日本へ派遣させ、日本政府の山東問題に関する譲歩限度を打診した。本 章では、今までの研究ではあまり触れられていなかったパリ講和会議後からワシントン会 議開催前の間における、山東問題に関する中日両国の交渉過程を追い、北京政府の打診行 動と中国世論の影響を検討することを通して、同政府の外交実態を明らかにしていく。
第 1 節 日本の山東問題直接交渉の申出
1919 年のパリ講和会議において、山東におけるドイツ権益は日本に帰属すると決定さ れた。北京政府はパリ講和条約の調印を拒否し、山東に関する条約の無効を主張し続けて きた。パリ講和条約に基づき、山東善後措置を講ずるために、日本政府は 1920 年 1 月か ら、数回に渡って山東問題直接交渉を北京政府に呼びかけた。
山東問題の中日直接交渉に対して、中国国民から多数の反対意見が出された。上海国民 大会から「日本の通牒を見ると、我々は一致して日本要求の拒否を主張する。直接交渉す ると山東権益が奪われるのみならず、中日密約2の有効性を承認することにもなってしま
1日本は 1920 年 1 月 19 日、4 月 26 日、4 月 30 日、6 月 14 日、北京政府に山東問題を直接 交渉するよう照会した。
21918 年 9 月、中日両国間で締結された「山東省における諸問題処理に関する交換公文」
と「済順高徐両鉄道に関する交換公文」のことである。パリ講和会議で中国は中日間の各 条約交換公文が中国の大戦参加により一切、失効すると主張していたが、日本はこの密約 を根拠として中国が山東省におけるドイツ権益の日本への帰属を認めていると反論し、中 国の立場を著しく悪化させた。(第 2 章第 3 節)。
う」という内容の電報が北京政府外交部に送られた3。北京大学国際公法教員萬兆芝は『晨 報』で日本の直接交渉申出を拒否する理由を論じ、山東問題の直接交渉拒否を力説した4。 3 月 23 日、ヨーロッパ旅行を終え、北京に到着した中国全権代表団顧問梁啓超は「国権 を守るために、直接交渉を断固として拒否しなければならない」との態度を表した5。当 時、パリ講和会議の中国全権であった陸徵祥は帰国途中、黄浦江埠頭を通過した時、民間 団体の商業公団連合会及び商業総連合会の代表者達と面会した。代表者達は山東問題の対 日直接交渉はしてはいけないことを陸に訴えた。陸は「我政府は必ず民意に従い、諸君の 期待を裏切らないようにする」と回答した6。北京政府外交部の外交次長陳籙は山東省議 会代表杜星北、張鈞軒らとの会談で政府の苦しい立場(強硬な拒否政策では山東問題の解 決はどうにもならない)を説明し、交渉してもよいという見解を表明した。これに対して、
代表者達は極めて不満であり、「山東問題の直接交渉を断固として反対する」と述べて、
かなり強硬な態度を取った7。
沸騰した世論を目の前にした北京政府は対日回答に窮した。対日直接交渉をめぐって、
内部からも様々な意見が生まれた。1 月 29 日、南方政府の汪兆銘の宴会に参加した『益 世報』駐上海記者は「宴会で山東問題について汪は『日本と直接交渉しても何の効果もな い。一番適切なのは国際連盟に提出すること。あるいは英米仏諸国の調停を求めること』
と述べた」と記録した8。吳佩孚は「国土の保護、主権の回収のため、日本の提案を断固 拒否し、国際連盟の公正判断を待つべきである」と主張した9。
だが、北京政府内部では、直接交渉しても良いとの意見が大半であった。外交部参事刁 作謙は「日本の提案に関して、頻りに回答を延長させようとしたら、現在中国が進退窮ま る窮地に陥るというマイナスなイメージを世間に与える恐れがある」と述べて、日本との 交渉を肯定した10。当時、パリ講和会議の中国全権であった顧維鈞も日本と交渉する態度
3中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-33-155-03-033。「收上海国民大 会電」1920 年 2 月 1 日。
4「山東問題与国際連盟」『晨報』1920 年 2 月 18 日。
5「梁啓超抵京後対魯案表示」『申報』1920 年 3 月 23 日。
6「陸専使回国過沪紀」『申報』1920 年 1 月 23 日。
7「魯政客回済後之談話」『申報』1920 年 1 月 31 日。
8「汪精衛君之魯案意見」『民国日報』1920 年 2 月 3 日。
9 中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-33-152-01-096。「收衡州吴佩孚 等電」1920 年 2 月 22 日。
10中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-33-152-01-055。「收院交府交抄 刁作謙説帖」1920 年 2 月 7 日。
を示した。顧は「1915 年と 1918 年の中日条約11のもとで交渉することはまず回避しなけ ればならない。また日本軍隊の山東撤退も不可欠な前提である」ことを外交部に建言し、
「もし日本が我国の還付条件を受け入れなければ、国際連盟で仲裁を求める覚悟を固めな ければならない」と述べた12。段祺瑞も顧と似たような考え方を持っていた。『益世報』
駐北京記者の取材に応じて、段は「膠州湾の回収、主権の保全はまず最優先とすべきこと である。拒否することが却って日本に口実を与え、山東問題も永遠に解決できなくなる」
と述べた13。また、前述した外交次長陳籙も直接交渉しても良いとの意思を山東省議会代 表者達に洩らした14。『晨報』は「政府偏重直接交渉」と題する記事で「我政府は直接交 渉する傾向である。しかし、現下一般民意は交渉拒否の態度である。激昂した世論の元、
我政府も敢えて日本の申出を受け入れることができないであろう」と述べた15。
北京政府は対日交渉をしてもよいとの態度であったが、中国世論が直接交渉に反対した。
それゆえ、北京政府は結局日本政府の申出に何らの反応も与えず、回答を延長する作戦に 出た。北京政府の遷延策に対して、日本政府は苛立ちを隠さなかった。内田康哉外相は駐 華公使小幡酉吉宛の電報で、北京政府が山東問題を国際連盟に提出することを警戒し、「日 支両国ノ紛争ニシテ永続スルニ於テハ自然同問題ノ解決ニ対シ何等外国側ノ提言ヲ惹起 スルカ如キ事態ヲ招クノ虞ナシトセス(中略)国際連盟協会等ノ問題トナルナキヲ保セサ ルニ付此ノ点ヨリ観ルモ速ニ本問題ノ解決ヲ図ルコト得策ト思考ス」などを述べて、交渉 開始を中国に督促させようと小幡に訓令した16。
一方、パリ講和会議で山東問題が解決されていなかったため、該問題を国際連盟に提出
111915 年の対華 21 ヵ条は、山東権益の処分を日独間協定に委ねること、膠州湾租借地を 商港として開放すること、日本専管居留地の設置など、様々な条件をつけて中国に還付す ることを規定した。前掲注 2、1918 年 9 月、中日両国は済順鉄道(済南から順徳まで)、
高徐鉄道(高密から徐州まで)の借款契約及び山東問題処理に関する取り決めを締結した。
12中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-33-152-01-026。「收法京顧専使 電」1920 年 1 月 28 日。
13張一志『山東問題匯刊』(下)、文海出版社、1986 年、234 頁。1920 年 1 月 22 日、『益 世報』記者は段祺瑞と面会して、段の山東問題に関する意見を聴取した。
14前掲注 7。
15「政府偏重直接交渉」『晨報』1920 年 1 月 28 日。
16外務省編『日本外交文書大正九年第二冊』(上)、外務省、1972 年、42 頁。「山東問 題交渉速ニ開始方中国政府ニ申込済ノ旨及之ニ対スル中国側ノ態度ニ関シ報告ノ件」。小 幡公使より内田外相宛、1920 年 4 月 26 日。
すべきであるという声が、中国民間から起こってきた17。しかし、北京政府は結局山東問 題の国際連盟への提起を断念した。顧維鈞はアメリカ要人との会見で、アメリカが山東問 題の国際連盟提議に関して、中国を援助する意思があまりなかったことを北京政府外交部 に報告した。顧は外交部宛の電報で「アメリカ元国務長官ランシングは『国際連盟に提出 しても、良い結果が出るかどうかわからない』ことを明言し、連盟提議を見合わせる意思 を私に伝えた」などといった中国にとって極めて不利な実情を指摘した18。10 月 23 日、
顧維鈞より外交部宛の報告によると、山東問題に関して、中国を援助できるのはアメリカ しかなかった。しかしアメリカはまだ国際連盟に加入していない。アメリカ国内の連盟加 入反対論もアメリカ政府の立場を難しくさせ、中国を援助するどころではなかった。その ため、山東問題の連盟提議を見合わせた方が中国にとって得策であるというのである19。 すると、北京政府は直接交渉拒否の旨を日本政府に通告したのみならず、該問題の国際連 盟提議をも見合わせることにした20。
前述したように、内田外相は北京政府が山東問題を国際連盟に提出することを警戒した。
日本外務省亜細亜局は「山東問題管見」で「山東問題ニシテ国際連盟ニ付議セラルルトス ルモ日本ニ対シ不利ナル裁決ニ終ルヘシ」と記していた。現下、世界世論の趨勢は日本が 不利な方面に傾き、時間の推移により世界各国は山東問題の根本に対して日本の誠意を疑 い、日本の国際的立場を困難にさせる恐れがある。局面展開のために山東措置案を講ずる ことが肝要であることと述べた21。外務省政務局は連盟総会を前にした 1920 年 9 月、パ リ講和会議以来の還付条件22を緩和させた山東問題処置案を起草した。内容は「(1)膠
171920 年 5 月 15 日、山東各界(商議会、商会、学生連合会、教育会等)の請願団は北京 に到着し、「直接交渉拒否、連盟提出」を掲げて政府に訴えた(「山東請願団抵京」『申 報』1920 年 5 月 15 日)。
18中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-33-159-01-012。「收駐美顧公使 十八日電」1920 年 10 月 20 日。
19中央研究院近代研究所『中日関係史料-山東問題』(上)、1987 年、277-278 頁。「收 駐美顧公使電」1920 年 10 月 22 日。
205 月 22 日、北京政府は直接交渉拒否の覚書を小幡公使に提出した。JACAR(アジア歴史 資料センター)Ref. B07090868800、山東懸案解決交渉一件/華府会議二至ル迄ノ経過 第 二巻(5.2.6)(外務省外交史料館)。「1920 年 5 月 22 日付支那政府覚書」。
21JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090869500、山東懸案解決交渉一件/華府会 議二至ル迄ノ経過 第三巻(5.2.6)(外務省外交史料館)。「山東問題管見」亜細亜局第 一課、1920 年 9 月稿。
22パリ講和条約により、山東におけるドイツの権益を日本は獲得することが決定された。
日本は山東における居留地設定権利、山東鉄道の所有権・管理権など、様々な政治的権利