-山東問題を中心に-
はじめに
1915 年 5 月 25 日、対華 21 ヵ条に調印を了した後、袁世凱は権益返還に関して「外交 上で何とかならないのか」と外交総長陸徵祥に尋ねたところ、陸は「参戦して、戦後の講 和会議で解決するしかない」ことを袁に開陳した1。21 ヵ条受諾後、北京政府は戦後国際 会議での権益返還を目指して、参戦のために奔走してきた。第 1 次世界大戦終焉後の 1919 年 1 月、パリ講和会議が開催された。それは山東権益の返還を求めた北京政府にとって、
好機会であった。21 ヵ条の中では、山東権益の処分を日独間協定に委ねること、膠州湾 租借地を商港として開放すること、日本専管居留地を設置することなど、様々な条件をつ けて膠州湾を中国に還付することが規定された2。1918 年 9 月、外務大臣後藤新平と中国 駐日公使章宗祥との間で「山東省諸問題及山東満蒙両地方鉄道借款に関する交換文書」(中 国では中日密約と呼ばれている)が結ばれた。1918 年 12 月、陸徵祥がパリ講和会議の中 国全権としてパリへ赴く途中、日本を訪問した時、内田康哉外相に山東問題を中日条約の 交換公文(対華 21 ヵ条と 1918 年の中日密約)の規定通りに解決することを伝えた。パリ 講和会議で北京政府は中日間の各条約交換公文が中国の大戦参加により一切失効すると 主張したが、日本は中日密約を根拠として北京政府が山東省におけるドイツ権益の日本へ の帰属に同意したと反論し、中国の立場を著しく悪化させた。本章では今までの研究では あまり述べていなかった陸・内田会談と中日密約を中心に、山東問題をめぐる中日両国の 対抗過程を追いながら、当時の北京政府外交実態を明らかにしていく。
第 1 節 北京政府の準備
1羅光『陸徵祥伝』真理学会出版社、1949 年、187 頁。
2山東問題は対華 21 ヵ条に関連して 1915 年 5 月に締結された山東省に関する条約があっ た。21 ヵ条により山東権益の処分が日独間協定に委ねされた。同時に交わされた膠州湾 租借地に関する交換公文には、膠州湾租借地を商港として開放し、日本専管居留地を設置 することを条件として、膠州湾租借地を中国に帰すことが決定された。また 1918 年 9 月、
済南・順徳間鉄道と高密・徐州間鉄道を日本の借款によって建設する旨の交換公文が交わ された。英仏露等国は 1917 年 2 月から、日本の参戦代償として山東半島や南洋諸島での 権益獲得への支持を相次いで日本に伝えた。(服部龍二(『東アジア国際環境の変動と日 本外交 1918-1931』有斐閣、2001 年、36 頁)。
1916 年袁世凱死後、中国は軍閥が群雄割拠する時代に突入してきた。1918 年 10 月、直 系軍閥馮国璋と皖系軍閥段祺瑞との間の争いが激化する中、混乱の情勢を安定させるため に、双方の妥協により文官出身の徐世昌3が大総統に推された。当時、第 1 次世界大戦が いよいよ幕を閉じるところになり、徐は大総統の座に就き、困難な戦後講和会議問題に直 面した。パリ講和会議に備えるために、北京政府は陸徵祥(外交総長)、顧維鈞(駐アメ リカ公使)、王正廷(南方政府代表)、施肇基(駐イギリス公使)、魏宸組(駐ベルギー 公使)を中国全権に任命した。
その後、北京政府は中国全権にパリ講和会議の基本方針を伝えた。要約すると「勢力範 囲と領事裁判権に関する問題、庚子賠償の廃止、鉄路管理の統一、外国軍隊の撤退、関税 の自主」4ということである。奇妙なことに、山東問題は含まれていなかった。当時、財 政総長曹汝霖の回顧によれば「出発を前に、総統は方針を商議するために会議を開き、関 係当局、段祺瑞参戦督弁とともに余も列席した。段は参戦が遅すぎるのを理由に多大の要 求を提出すべきではなく、独墺租借地の回収、中国における治外法権の廃止のほか、庚子 条約中の駐兵権の廃棄、税関法則の改定を提議することを語った。山東問題に関しては、
日本が再三に膠州湾を我国に還付することを声明したため、約束を守るはずである。先方 が何か提議するに応じて適切な手段を取って良いということであった。段の発言に異議を 唱える者がいなかったため、そのまま決定された」5という経緯であった。
1918 年 11 月 28 日、北京政府は中国全権にパリ講和会議に関する趣旨を伝えた。すな わちアメリカと歩調を揃え、国際平等地位を図ることである。訓令の中では山東問題をパ リ講和会議に提出することが言及されていなかった6。とはいえ、北京政府は山東問題に 関して何も準備していないわけではなかった。当時、駐アメリカ公使館において情報組を 創設した顧維鈞は早くから講和会議の議案準備に着手し、山東問題に関する情報収集に取 り組んできた。対華 21 ヵ条が提出された時、外交部参事及び袁世凱の英語秘書を兼ねた
3袁世凱の友人。辛亥革命の後、袁世凱が中華民国政権を掌握したが、徐世昌は自らが清 朝旧臣であることを理由に要職への就任を避けた。1916 年 6 月に袁が死去すると、徐世 昌は袁世凱の故郷である河南省に赴き、数ヶ月間服喪した。その後も政権から距離を置い たていたが、馮国璋の要請で第 4 代中華民国大総統に就任した。在任中、徐世昌は軍閥内 部の内紛解決に努め、孫文ら南方勢力との和解をも試みたが、いずれも順調ではなかった。
1922 年の直奉戦争で、勝利を得た直隷派の圧迫によって大総統を辞任させられた。
4黄尊厳『日本与山東問題 1914-1923』斉魯書社、2004 年、203 頁。
5曹汝霖『曹汝霖一生之回憶』春秋雑誌社、1966 年、188 頁。
6中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-13-067-01-001。「発法京中国使 館電」1918 年 11 月 28 日。
顧維鈞は職位の低さのため、北京政府の外交決定に直接関わることができなかった。21 ヵ条受諾後、顧は「中日交渉における我政府の立場及び 21 ヵ条が日本の武力による脅迫 の結果などの実情について声明すべきである」ことを袁世凱に建言した7。1918 年 5 月 14 日、顧はパリ講和会議の議案準備を北京政府外交部に報告した。電報の中で、顧は会議に 関わる問題を(1)諸国が我国に対する政策、(2)大戦から生じた問題、(3)我国が解 決を望む問題、(4)各項国際公法問題、(5)世界平和の維持に関する問題、(6)欧州 各国に関わる特別問題、という 6 つに分けた。その中で山東問題が第 2 項目(大戦から生 じた問題)に属した。「第 2 項目に関しては、我国の権益と深く関わっていたため重要視 せざるべからず」8と顧は論じた。
1918 年 12 月、パリに着いた顧維鈞はアメリカで収集した情報に基づいて、(1)21 ヵ 条と山東問題、(2)租借地の還付、(3)在華領事裁判権の廃棄、(4)在華租界の還付、
(5)外国駐軍の撤退、(6)在華外国郵電機構の廃棄、(7)中国関税自主権の回復、と いう 7 つからなる講和会議の議案を練り上げた9。中国全権が手分けして議案を準備する ことになり、顧は自ら 21 ヵ条と山東問題を引き受けた。12 月 29 日、顧は施肇基、胡惟 德(駐フランス公使)とともに「膠州湾及び山東各問題、1915 年の各条約公文は大戦終 結以前で締結された暫行協定であり、しかも我国の主権を損なうようなものがかなり多か ったため、講和会議に提出すべきである」との意見を北京政府外交部に打電し、21 ヵ条 の廃棄と山東問題の解決を力説した10。
山東問題は 21 ヵ条と深く関わっていたため、中国世論も山東問題の会議提出にかなり 熱心な態度で臨んだ。1918 年 12 月 1 日、『晨報』は「パリ講和会議に備えるため、本社 は国民から会議に関する意見の寄稿を大歓迎しております。我々は政府の後援者であり、
ともに会議に備えなければならない」と国民に呼びかけた11。12 月 22 日、『民国日報』12 は中国留日学生のパリ講和会議に関する意見を掲載し、その中では膠州湾の無条件還付と
7顧維鈞『顧維鈞回顧録』(第 1 冊)、中華書局、2013 年、118 頁。
8中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-12-008-02-011。「致外交部報告 研究講和情形函」1918 年 5 月。
9前掲、顧維鈞『顧維鈞回顧録』(第 1 冊)、161 頁。
10中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-13-067-02-001。「法館二十日電」
1918 年 12 月 29 日。
11「启事」『晨報』1818 年 12 月 1 日。
12国民党の機関紙、1916 年上海で創刊された。創刊者は陳其美である。『民国日報』は袁 世凱政権を批判し、北洋軍閥の統治に反対する立場になっていた。
山東鉄道問題がかなり重視された。21 ヵ条の受諾を「最大の恥辱」と見なしていた留日 学生達は、今回の機会を以て中国が失った権益を取り戻すようと北京政府に呼びかけた13。
北京政府も世論の力を以てパリ講和会議で山東問題の解決を目指してきた。1918 年 11 月 14 日、元財政総長梁啓超は北京政府にパリ講和会議参加申請の書簡を送った。数日後、
大総統徐世昌は梁を呼び、パリ講和会議に関する意見を交換し、講和会議の中国代表団顧 問及びジャーナリストとして梁をパリに向かわせ、彼の世論誘導の力に期待を寄せていた
14。袁世凱死後、梁は段祺瑞を支持してきた。1917 年夏、総理段祺瑞の要請で梁は北京政 府の財政総長になった。しかし、その後内閣内紛で梁は孤立させられ、辞職することにな り、政界から遠ざかった。1918 年 10 月、徐世昌が大総統に推された。とはいえ、国会は 段祺瑞をはじめとした安福派に操られ、徐は段と対抗するために梁啓超を起用しようとし た15。
パリへ赴く前、梁啓超は駐華臨時代理公使芳澤謙吉に対して「我国はドイツに宣戦した ため、ドイツとの間の条約が無効になるはずである。だから山東におけるドイツ権益に関 して、日本がそれを継承する道理はない」と主張した16。上海で開かれた国際税務法会議 で、梁は「外交の実行は政府にある。我々国民のやるべきことは国内外情勢を見極め、我 政府に有利な世論環境を醸成し、政府の後援になることである」と述べた17。1919 年 1 月 12 日、北京政府外交部は中国全権陸徵祥に梁啓超のことを伝え、「今回梁は個人名義と してパリへ赴き、国内世論を策動して交渉を我国有利の面へ誘導する(中略)梁は 2 月中 旬頃パリに着き、彼とできるだけ協力する」ようと中国全権に訓令した18。こうして、北 京政府は山東問題の解決を目指して、国内世論を動員する作戦を練った。
第 2 節 陸・内田会談と山東問題
13「留日学生救国団対于欧州和議之意見」『民国日報』1918 年 12 月 22 日。
14中国第二歴史档案館編『北洋政府档案』(第 48 輯)、中国档案出版社、2010 年、609-611 頁。
15張朋园「安福国会選挙-論腐化為民主政治的絆脚石」『中央研究院近代史研究所集刊』
(第 30 期)、1998 年 12 月。
16「欧遊心影録・欧行途中」。梁啓超『飲氷室合集』(専集 23)、中華書局、1989 年、
39 頁。
17「梁任公在国際税法平等会之演説詞」『東方雑誌』第 16 巻 2 号。
18中央研究院近代史研究所所蔵「外交档案」館藏號:03-13-006-01-001。「収国務院来電」
1919 年 1 月 12 日。