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寺内内閣における日本対華政策の形成

はじめに

大隈内閣(一九一四(大正三)年四月一六日〜一九一六(大正五)年一〇月九日)は第 一次世界大戦の勃発をいわゆる「大正新時代の天佑」283、つまり千載一遇のチャンスと捉 え、対中国に二十一か条の要求を突きつけた。また、後の反袁世凱政策などによって日中 の関係が悪化し、列国の猜疑を招き、漸次元老、軍閥、官僚等から不評されるようになっ た。次いで大正四年四月大浦事件の勃発により、内閣改造が行われたが、ついに頽勢を挽 回できず、退陣することになった。後継の寺内内閣(一九一六年一〇月九日〜一九一八(大 正七)年九月二九日)は、対華外交方針の刷新を目指し、中国の段祺瑞政権への積極的な 支援を通して、日中の親善をはかった。寺内内閣の援段政策は、主に政治借款や実業借款 などの形で実現した。これらの多額の借款の成立は西原亀三という人物が大きな役割を果 たしたため、西原借款という名で世によく知られている。

西原借款を中心に、寺内内閣の対華政策については従来多くの先行研究が蓄積されてき た。284これまでの研究は主に西原亀三のアジアにおける自給自足経済圏の構想を中心に、

西原と寺内正毅・勝田主計・坂西利八郎の関係や、寺内内閣の援段政策確立の経緯、そし て西原借款の経済思想などが注目されてきた。そして西原の構想を中国の統一・独立の強 化を目指す「援助=提携」政策とする285ほか、中国が制度的経済的構造を改造することを 目的としていたことも指摘されてきた。286つまり、従来の研究は「援助」を通した日中の 提携を重視してきたと言える。

これらの諸研究は、寺内内閣の対華政策の様相を明らかにしたが、この「援助」の対華

283井上馨伝記編纂会『世外井上公伝』内外書籍、一九三四年、第五巻、三六七頁。

284 波多野善大「西原借款の基本的構想」、『名古屋大学文学部創立一〇周年記念論文集』一九五九年。勝田龍夫

『中国借款と勝田主計』ダイヤモンド社、一九七二年。大森とく子「西原借款について」、『歴史学研究』第四 一九号、一九七五年四月。谷寿子「寺内内閣と西原借款」、『東京都立大学法学会雑誌』第一〇巻第一号、一九 七五年四月、波形昭一『日本植民地金融政策史の研究』早稲田大学出版部、一九八五年。北岡伸一『日本陸軍 と大陸政策』東京大学出版会、一九七八年。小林道彦「世界大戦と大陸政策の変容」、『歴史学研究』第六五六 号、一九九四年三月。山本四郎「大隈内閣末期の西原亀三」、『ヒスとリア』第八九号、一九八〇年一二月。山 本四郎「寺内内閣初期の対華政策」、『史窓』第三七号、京都女子大学文学部史学会、一九八〇年。山本四郎「寺 内内閣時代の日中関係の一面—西原亀三と坂西利八郎」、『史林』第六四号、一九八一年一月。斎藤聖二「西原亀 三の対中国構想—寺内内閣期対中国政策の前提」、『国際政治』第七一号、一九八二年八月。斎藤聖二「寺内内閣 と西原亀三—対中国政策の初期段階」、『国際政治』第七五号、一九八三年。斎藤聖二「寺内内閣における援段政 策確立の経緯」、『国際政治』第八三号、一九八六年。西川潤「日本対外膨張思想の成立」正田健一郎編『近代 日本の東南アジア観』アジア経済研究所、一九七八年。『森川正則「寺内内閣期における西原亀三の対中国「援 助」政策構想」、『阪大法学』第五〇号、二〇〇一年。

285北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』東京大学出版会、一九七八年、一九六〜二三二頁を参照。

286 ピーター・ダウス(浜口裕子訳)「日本/西欧列強/中国の半植民地化」、『岩波講座・近代日本と植民地』(二)

岩波書店、一九七二年)、七三頁を参照。

政策が形成された過程や対華政策実施の過程などについては、従来の研究が十分行ってき たとは言えない。よって本章は寺内内閣成立後、中国における復辟問題、中国の参戦問題、

対外政策の討議決定機構としての臨時外交調査委員会に目を配り、寺内内閣の援段政策の 登場した背景を検討する。

第一節 中国における復辟問題

一九一七年一月、鄭家屯事件の解決交渉において寺内内閣の警察権問題及び軍事顧問採 用問題の譲歩によって、事件はようやく最終的な解決に至った。これにより、宗社党らの 主導による二回の満蒙独立運動がともに失敗した。一方、袁世凱の帝政が失敗した後、籌 安会の一派が旧武派軍人張勲の盤踞する徐州に移り、そこを根拠地として陰謀を企ててい た。一九一六年九月張勲は唐紹儀の入閣を反対し、第二次徐州会議を開き、ついに復辟実 施の決議を出した。しかし、袁世凱の帝制失敗を鑑み、復辟は日本の援助がなければ、成 算が見えなかった。張勲は一九一三年九月の南京事件287で、激しく日本から攻撃され南京 督軍を罷免された。その後、長江巡閲使に遷されたため、日本との間に齟齬がずっと存在 していた。

このように宗社党が満蒙独立運動に失敗し新たな活動をしようとした時期に、張勲は復 辟の決議を宣言した。このことにより両者が結合する機会が生まれた。一二月二日、天津 駐屯軍司令官石光真臣の張勲訪問を進めていた謝介石(徐州定武軍営務会弁、天津都督朱 家寳の幕友)は天津に戻った。天津領事館は池辺を派遣し張勲の動きを尋ねた。謝の話に よれば、張勲は袁世凱の帝制に賛成しており、前清復辟を最大事業と決め、粛親王、恭親 王、鉄良はじめ其他前清忠臣の宗社党一派と緊密な連絡をとり、大事を画策していた。288 実際には、宗社党は張勲と接近するばかりでなく、復辟に興味を持つ日本人も張勲に接 近していった。第二次満蒙独立運動が失敗した後、二回の満蒙独立運動、日本国内の対支 同志連合会、国民外交同盟会などで活躍していた佃信夫は、北京に入った。この頃はちょ うど張勲復辟の噂が流れていた九月であった。佃は張勲の復辟主義に対し、非常に大きな 興味を持ち、復辟の実現に大いに期待を寄せ、日本に戻り活動をしていた。帰国した佃は 早速寺内首相を訪問して意見交換した。佃の復辟論に対して寺内は賛同し「誰か強力なも のが居て復辟を断行すれば、吾々の理想に合致する」と洩らした。寺内の激励を得た佃は 再び中国に向かい、李経邁(李鴻章幼子)の紹介により、単身で徐州に行った。時は一九 一七年一月初旬であった。佃は復辟には日本の援助がないと実現できないと張勲に力説し、

287 本稿第一章「辛亥革命後日本対華政策の出発」を参照。

288「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050224800、各国内政関係雑纂/支那ノ部/復辟問題 第一巻 (1-6-1-4_2_11_001)(外務省外交史料館)」

遂に認められた。289

これより少し前の一九一六年一二月一九日、謝介石の斡旋のもと、天津日本駐屯軍司令 官石光真臣は徐州に至り、同地で二泊し、張勲と面会した。張は同司令官の来訪を喜び、

胸襟を開き、復辟の秘密を打ち明けた。そして日本側の援助を得ることを同司令官に懇請 した。そして張は袁世凱の没後直ちに復辟を実行する計画だったが、日本の意向が不明で あるため中止したと言明し、もし日本の援助を得ることができれば、日支両国間における 積年の誤解を一掃し、復辟を断行すると伝えた。290

一方宗社党は、張勲と緊密な連絡をとりつつ、青島在住の恭親王及び升允(清末陝甘総 督、辛亥革命後宗社党領袖)は上海の宗社党員と連絡をとり、秘密通信を受けとった。こ の通信によれば一二月一六日上海に帰来した宗方小太郎と会見した結果、寺内内閣は大隈 内閣と異なり党人を匪賊と見做すことはなく、復辟について賛意を表していたことが分か る。291

他方、張勲の信任を得た佃は、早速張勲に特使を任じられ、日本政府の復辟に対する真 意を打診するため、升允とともに日本に赴くことになった。そして、一月一三日、上海松 井中佐が参謀総長に宛てた電報によると、上海滞在中の升允は同日東京に向けて出発し、

その目的が日本政府の対支方針の意向を確かめることであることが分かる。292

一九一七年二月二日、寺内は日記に「佃信夫来訪復辟ニ就キ談アリ。渋沢男来訪(中略)

張勲及升允ノコトニ談及セリ」と書いている。293佃が升允とともに寺内首相に謁見したの は、この日だろうと考えられる。そして会見で升允は第二次徐州会議の十三督軍の連名宣 誓書を寺内に差し出した。寺内は張勲から申し込まれた内容について、かかる十三督軍の 連名宣誓の趣旨に基づき張らが復辟を実行することに対して、日本が不同意を唱える理由 はないと答えた。294

一方北京の動向は、袁世凱の帝制失敗後、帝制の残党が張勲を煽動し、種々の計画を立 てた。その中では陸建章(北京警衛軍統領、北京軍政執法処処長)と、段芝貴等の活動は 特に注目に値する。九月中旬、段は徐州で張に対して、精兵五千を率いて上京して国会を 解散させるよう勧めたが、張はまだ時機ではないと考え、これに応じなかった。その後、

陸は京津間を頻繁に往復し、ある画策を練っていた。この画策とは、当時北京にある第十

289 黒龍会編『東亜先覚志士記伝』(中)、原書房、一九六六年、六九二〜六九五頁。

290 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050224900、各国内政関係雑纂/支那ノ部/復辟問題 第一巻 (1-6-1-4_2_11_001)(外務省外交史料館)」

291 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050225000、各国内政関係雑纂/支那ノ部/復辟問題 第一巻 (1-6-1-4_2_11_001)(外務省外交史料館)」

292 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050225000、各国内政関係雑纂/支那ノ部/復辟問題 第一巻 (1-6-1-4_2_11_001)(外務省外交史料館)」

293山本四郎編『寺内正毅日記』京都女子大学、一九八〇年、七二九頁。

294黒龍会編『東亜先覚志士記伝』(中)、原書房、一九六六年、六九六頁。