工学寮設立間もない諸規則(1874 年 2 月)に「学期中終ノ二年ハ在寮中修学スル所ノ 学課ヲ実地ニ就テ煉磨セシメ而55)」とあり,最後の 2 年間に実地研修を行うことは設立 当初から変わっていない。機械工学科 5 年生の場合,「各所ノ機械工場特ニ横須賀,神戸,
及ヒ長崎造船所或ハ神戸東京ノ鉄道機関工場ニ於テ実地ノ課業ニ従事」させる。この 1 年 間は学生にとって「絶タ貴重ナル学期ニシテ」,実地研修先から「帰校スルヤ一般ニ著シ
表 9 1883 年(上段)と 1885 年(下段)の学科別・学年別実地研修派遣人数と派遣日数 応用(製
造)化学 機械工学 鉱山学 造家学 造船学 電気工学
(電信学) 土木学 合計 合計比率
3 年生 人数 1 3 2 6 7.1
日数 3 9 6 18 0.3
4 年生 人数 9 2 3 1 11 26 30.6
日数 48 180 16 137 44 425 7.1
5 年生 人数 2 3 5 8 22 40 47.1
日数 60 1095 1697 410 1616 4878 81.4
6 年生 人数 4 3 6 13 15.3
日数 240 270 163 673 11.2
合計 人数 6 13 7 17 3 39 85 100.0
日数 300 1146 1877 705 143 1823 5994 100.0 合計比率 人数 7.1 15.3 8.2 0.0 20.0 3.5 45.9 100.0
日数 5.0 19.1 31.3 0.0 11.8 2.4 30.4 100.0
3 年生 人数 2 11 13 10.5
日数 7 7 14 0.4
4 年生 人数 2 3 1 6 2 16 30 24.2
日数 2 326 14 267 55 53 717 21.1
5 年生 人数 4 2 36 42 33.9
日数 18 610 1760 2388 70.1
6 年生 人数 7 10 9 13 39 31.5
日数 69 61 74 82 286 8.4
合計 人数 11 14 5 1 15 2 76 124 100.0
日数 87 70 936 14 341 55 1902 3405 100.0 合計比率 人数 8.9 11.3 4.0 0.8 12.1 1.6 61.3 100.0
日数 2.6 2.1 27.5 0.4 10.0 1.6 55.9 100.0
出所: 工部大学校編(1884)『工部大学校第二年報』(朝倉治彦解題(1981)『明治初期教育関係基本資料』其之三,湖 北社)。文部省編(1886)『文部省第十三年報』,462 〜 476 頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。
注: 1883 年 6 月 27 日,造船学科 5 年生の 2 人が長崎工作局に「日限不定」で派遣されたが,同年 10 月 22 日に横須 賀造船所にやはり「日限不定」で派遣されている。大雑把だが,前者について派遣期間を 6 月 27 日〜 9 月 30 日
(夏期休業終了日)の 96 日間と想定した。後者についても同期間と見なしたが,近隣であるためもっと少ないか もしれない。
キ学歩ヲ現ハスヲ常トス」という。6 年生夏期においても原則として実地研修を続けるが,
必要に応じて学校で講義を受けることもある。また学生は研修報告書を学科教授に提出 しなければならず,報告書提出は 6 年生の 12 月まで続けることとなっていた。
表 9 は 1883 年と 1885 年の工部大学校年報に記された実地研修実施状況である56)。前 者は本来の 4 月から翌年 3 月までのものであるが,後者は 1 月から 12 月までのものであっ た。1885 年 12 月 22 日に工部省が廃止されるに伴い工部大学校が文部省に移管されたた め,変則的記載となった。1885 年について学年別に見ると,派遣人数では 5 年生がもっ とも多くの 33.9%を占めるが,派遣日数では 5 年生への集中が 70.1%と一層顕著になり,
1883 年では 81.4%を占めた。上記のように「絶タ貴重ナル学期」であったことがわかる。
学科別に見ると,応用化学科,電気工学科,造家学科学生については人数,日数ともに 少ない。前 2 者については近代工場が少なかったこと,後者については東京府内に工部 大学校校舎57)は勿論のこと紙幣寮製造場,上野博物館など多くの近代建築物58)があった ことによろう。1885 年の応用化学科学生の派遣先は岩鼻火薬製造所,埼玉県下製紙所,栃 木県下染藍所などであったが,電気工学科では 4 年生 2 人が熱海・下田間の電信線建設 現場に派遣されたにすぎない。日数は 55 日間であった。造家学科では,4 年生 1 人だけ が助教授曽祢達蔵に随行して安房・上総・常陸に派遣され沿道諸工事を見学した。
もっとも多いのは土木学科で,1885 年では人数の 61.3%,日数の 55.9%を占め,派遣 先も全国各地にわたる。愛媛県や高知県の新道開鑿工事などの道路関連もあるが,鉄道 工事現場が主要な派遣先であった。程ヶ谷(保土ヶ谷)戸塚間,高崎碓氷峠間,大宮栗 橋間,高崎松井田間の鉄道工事など,また北海道幌内鉄道工事にも派遣されている。機 械工学科の場合,1885 年の派遣人数では 11.3%であったが,日数は 2.1%と応用化学科よ り少ない。彼らの派遣先のほとんどが近隣の横須賀造船所だったので派遣期間は 2 〜 7 日 と短期間であったが,6 年生 1 人だけは 1 か月半におよんだ。横須賀造船所以外には 6 年 生 2 人が新町紡績所と「富岡製絹所」に 1 週間派遣された。1883 年年報では学生氏名が 判明するので,機械工学科学生氏名と彼らの派遣先を表 10 に掲げた。4 年生は 3 人在籍 し,3 人ともに 3 回ずつ横須賀造船所に派遣されている。4 月 1 日からの派遣が 10 日間,
他は 3 日間にすぎなかった。5 年生も 3 人在籍し 3 人とも 1 年間にわたって兵庫工作局に 派遣された。その中の 1 人菊池恭三はのちに綿糸紡績業に大きく関与することになる。
6 年生冬期には「本校ノ書房図学室及ヒ試験場ニ在リ,或ハ近傍ノ諸工場諸工事ヲ巡視」
して卒業論文・設計図・仕様書の作成や,卒業試験の準備をしなければならなかった。こ れらの準備は「大抵生徒ノ事業各自ノ趣向ニ任」されたが,研修内容に関する「本科教
授」の質問に対して「速ニ答弁スル」ことを要請された。卒業試験は 6 年生の 2 月に 1 週 間実施し,卒業論文は 3 月末までに提出しなければならなかった。卒業論文の「論題ヲ 撰ムハ生徒各自ノ意ニ任スト雖トモ,予メ本科ノ教授ニ告テ承認ヲ得テ,教示ヲ受クヘ シ」とし,さらに設計図,仕様書も同時に提出しなければならなかったが,必ずしも卒 業論文の論題と同じでなくてもよかった。機械工学科卒業論文論題の参考として「定置 機関,舶用機関,鉄道機関,水車,水圧機関,機具及ヒ諸工業ニ用ル機械等」が掲げら れている。
お わ り に
経済成長に対する技術進歩の寄与率が年代経過に伴い減少していったことが統計的に 検証されてきた。これは,近代経済成長の過程において鉱物資源利用技術そのものの進 歩と,鉱物資源利用技術による非鉱物資源利用技術の代替が同時進行していたのが,代 替が完了した後は鉱物資源利用を前提とした技術進歩のみが経済成長を支えたためと想 定する。生産関数から検出された残余の中には両技術の代替進行による寄与が含まれて いたであろう。非鉱物資源利用が一般的であった後発国では特に,近代工業技術を一挙 に借用し,一定の懐胎期を経験しなければならなかったであろうが,先発国に比し急激 な代替進行により高い経済成長率を達成した。
前著で紹介した製糖技術のように江戸時代においても技術進歩はあり,幕末段階の製
表 10 1883 年における機械工学科学生の実地研修派遣先
学年 氏名 出発日 往復日数 目的地
3 福地文一郎 1883.05.31 3 日 横須賀造船所 4 渥美貞幹 1883.04.01 10 日 横須賀造船所 4 宇都宮貫一 1883.04.01 10 日 横須賀造船所 4 田中泰薫 1883.04.01 10 日 横須賀造船所 4 渥美貞幹 1883.05.31 3 日 横須賀造船所 4 宇都宮貫一 1883.05.31 3 日 横須賀造船所 4 田中泰薫 1883.05.31 3 日 横須賀造船所 4 渥美貞幹 1883.09.11 3 日 横須賀造船所 4 宇都宮貫一 1883.09.11 3 日 横須賀造船所 4 田中泰薫 1883.09.11 3 日 横須賀造船所 5 菊池恭三 1883.04.01 翌年 4 月まで 兵庫工作局 5 進経太 1883.04.01 翌年 4 月まで 兵庫工作局 5 畑精吉郎 1883.04.01 翌年 4 月まで 兵庫工作局 出所:表 9 と同じ。
糖技術は高度に洗練されていたが,明治以降に導入された近代製糖技術との間には大き な技術的キャップがあった。本稿で取りあげた綿糸紡績技術においては両者のギャップ は一層大きなものであった。技術移転を通して資源基盤の移行を進めて経済発展を促進 するためには,体系的な工学教育を行う工学系高等教育機関の設立が不可欠であった。本 稿で取りあげた工部大学校機械工学科の学生たちは蒸気機関や諸機械のメカニズム,金 属材料などの素材とその強度,機械部品相互間に発生する応力やひずみなどに関する科 学的知識を体系的に学習したばかりでなく,学内に設置された工学試験場などでの実験 実習や,学外の近代工場における実地研修を通して学習技術を確認し体得した。
注
1 )マックス・ヴェーバー著(1905)・大塚久雄訳(1989)『プロテスタンティズムの倫理と資 本主義の精神』(岩波書店)において宗教と技術進歩との関連に言及している個所があった ので引用したい。プロテスタンティズムの禁欲は企業家ばかりでなく労働者にも影響を及 ぼし,彼らは労働を天職と見なし「天職としての労働義務を遂行し,それを通して神の国 を求めるひたむきな努力と,ほかならぬ無産階級に対して教会の規律がおのずから強要す る厳格な禁欲とが,資本主義的な意味での労働の「生産性」をいかに強く促進せずにはい なかった」(360 頁)と,また「禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて,
世俗内的道徳を支配しはじめるとともに,こんどは,非有機的・機械的生産の技術的・経 済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の,強力な秩序界(コスモス)を作り上げるの に力を貸すことになった」(365 頁)とある。
2 )近代経済成長を唱えたS・クズネッツは,主要著書である塩野谷祐一訳(1968)『近代経済 成長の分析』(上・下,東洋経済新報社)や西川俊作・戸田泰訳(1977)『諸国民の経済成 長』(ダイヤモンド社)では近代経済成長の特徴を明示していないが,長谷部亮一訳(1962)
『経済成長−六つの講義−』(巌松堂出版)においてまず,「1 人当たり生産物の持続的で顕 著な上昇」と「人口の持続的で顕著な上昇」(12 頁)をあげ,さらに近代経済成長は「重 要な構造変化」をもたらし,これに応じて「1 人当たり生産物の非常な増大が達成される ような社会的・制度的諸条件の大きい変更を意味する」(14 頁)としている。その後,ク ズ ネ ッ ツ は 6 つ の 特 徴 を 掲 げ た(Kuznets, S. S.(1973)“Modern Economic Growth:
Findings and Reflections,”The American Economic Review, Vol.63, No.3, pp.248-249)。① 最近の 10 年もしくは 20 年までに 1 人当たり生産や人口に関して高い成長率を達成,②高 い要素生産性の成長率,③経済の急速な構造変化,④社会構造(都市化など)やイデオロ ギーの急変,⑤強化された技術力(特に輸送や通信技術)による他世界への接近の拡大,⑥ 近代経済成長の世界的普及は限定的で,後発国の経済的パフォーマンスは潜在的近代技術 から得られる最低水準からほど遠い状態であること。南亮進氏はクズネッツの同上論文に 依拠して,その特徴を,①人口と 1 人当たり生産がともに急成長すること,②産業構造が