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﹃ 安

ドキュメント内 真宗研究48号全 (ページ 55-104)

楽 集

の三身説に関する一考察

ーーー陪代諸師の三身解釈との比較を通して||

龍谷大学

長 谷 川

岳 史

問 題 の 所 在

本研究は︑道縛撰﹃安楽集﹄にみられる三身説を︑慧遠・智顕・吉蔵の所説との比較を通して︑中国仏教におけ

る仏身観の展開史上に位置づける研究の一環である︒

従来︑﹁安楽集﹄の三身説については︑阿弥陀仏︵無量寿仏︶の身・土観を介在させなければ見えてこない部分

もあることから︑純粋に三身の構造を検討することはあまりなされていない︒

また︑阿弥陀仏︵無量寿仏︶の身・土の問題となると︑報身・報土を主張する﹃安楽集﹄は︑阿弥陀仏︵無量寿

仏︶の身・土を最低位の応身・応土であるとみた︵蔑んだ︶︑隔代を中心とする聖道諸師︑具体的には慧遠・智

顕・吉蔵に対時するものという見方のために︑慧遠・智頭・吉蔵の阿弥陀仏︵無量寿仏︶観が︑一括されてきた側

面もあるように思う︒中国仏教研究の傾向からいっても︑慧遠・智顕・吉蔵という枠内に︑道紳や﹃安楽集﹄を取

り入れた研究はまだまだ少ない︒

﹁安楽集﹄の三身説に関する一考察

﹁安楽集﹄の三身説に関する一考察

 

筆者はすでに︑慧遠・智頭・吉蔵・道縛という括りで︑彼らの三一身説を検討したことがあるので詳しくはそれに

譲り︑紙数の制限上︑四師の﹁観経﹂に対する解釈を中心に︑そこにみられる三身三土中の弥陀身土観を検討して

一︑

慧遠

︵五

二三

1

五九

二︶

﹃観

無量

寿経

義疏

慧遠は︑﹁観経﹂の性格を﹁五要﹂︵五項目︶に分類し︑簡潔に説明する︒

第一﹁教之大小﹂では︑﹁教﹂に﹁声聞蔵﹂と﹁菩薩蔵﹂がある中︑この経が菩薩蔵に収められることを述べる︒

第二﹁教局漸及頓﹂では︑この経が﹁頓教﹂であることを述べ︑その理由として凡夫に対して説かれたものであ

るか

らと

述べ

る︒

第三﹁経之宗趣﹂では

諸経所弁宗趣各異︒如浬繋経浬繋為宗︒如維摩経以不思議解脱為宗︒大品経等以慧為宗︒華厳法華無量義等三

昧 為 宗

︒ 大 集 経 等 陀 羅 尼 為 宗

︒ 如 是 非 一

︒ 此 経 観 仏 三 昧 為 宗

︵ 大 正 三 七

︑ 一 七 三 上

と述べ︑この経の宗が﹁観仏三昧﹂にあるという︒なお﹃安楽集﹄第一大門第四﹁宗旨不同﹂には︑これとほぼ一

致する文があり︑周知のとおり道紳もこの経の宗を﹁観仏三昧﹂とみている︒

第四﹁経名不同﹂では

諸経立名差別不等︒或有就法如浬繋経般若経等︒或復就人如薩和檀太子経等︒或有就喰如金剛明大雲経等︒或

有就事如枯樹経等︒或復就処如彼伽耶山頂経等︒或復就時如時経等︒或人法為名如勝室経等︒或事法双挙如彼

方等大集経等︒或法輪並陳如法華経法鼓経等︒如是非一︒今此経者人法為名︒仏是人名説観無量寿是其法名︒

大正三七

と述べ︑この経は﹁人﹂︵仏︶と﹁法﹂︵観無量寿︶による得名であることを述べる︒引用中︑右線部分は﹁安楽

集﹄の目目頭で第一大門中の九門を説明する中︑第五﹁得名各異﹂の文との一致をみる︒

慧遠は続けて﹁諸経列人凡有四種﹂として︑説人・問人・所説人・所為人をあげ︑﹁仏﹂が﹁説人﹂であること

を述

べる

第五﹁説人差別﹂では

諸経起説凡有五種︒如龍樹弁︒一仏自説二聖弟子説三神仙説四諸天鬼神所説五変化説︒此経五中是其仏説︒

︵大

正三

一七

三中

とこの経が﹁仏説﹂であることを確認する︒この文は﹁龍樹﹂の弁によるもので︑後の吉蔵﹁観無量寿経義疏﹂も

ほぼ同文を載せているが︑土口蔵は﹁大智度論﹄の所説としている︒また︑﹃安楽集﹄の冒頭で第一大門中の九門を

説明する中︑第六﹁説人差別﹂にも︑出拠は示されないものの︑ほぽ同文がみられる︒

無量寿者是所観仏︒観仏有二︒ つぎに経名の釈に入る︒その中﹁無量寿﹂を釈するにあたり︑次のように述べる︒

一真身観二応身観︒観仏平等法門之身是真身観︒観仏如来共世間身名応身観︒ 慧遠はこの﹁五要﹂を述べて︑

︵大

正三

七︑

一七

三中

ここでは︑﹁無量寿﹂とは︑所観の仏であるとし︑

と﹁応身観﹂︵観仏如来共世間身︶をあげる︒ さらに﹁観仏有二﹂として︑﹁真身観﹂︵観仏平等法門之身︶

続いて﹁真身観﹂について︑﹁維摩経﹄を引いて﹁観身実相﹂とし︑﹁応身観﹂について︑

其応身観如彼観仏三昧経︒取仏形相繋想思察名応身観︒:::応身観中有始有終︒:::以如是等箆浄信見名之為

始︒以大神通親往礼親或復往生面暗供養名真実見此以為終︒:::今此所論是応身中食浄信観点矢︒

﹃安楽集﹄の三身説に関する一考察

﹁安

楽集

﹂の

コ一

身説

に関

する

一考

︵大

正三

七︑

一七

三下

と述

べ︑

﹃観

仏三

昧海

経﹄

を引

いて

︑﹃

観経

の観仏が﹁応身観﹂にあたり︑応身への魚の浄信によるものであるこ

とを

述べ

る︒

慧遠は次に︑﹃観仏三昧海経﹄を引いて︑﹁応身観﹂に︑個別の仏を観ずるのではない

の個別の仏を観ずる﹁別観﹂があることを示し︑ ﹁通観﹂と︑弥勅や阿閃等

今此所論是其別観︒別観西方無量寿仏︒

︵大

正三

七︑

一七

三下

として︑﹁観経﹂は応身﹁西方無量寿仏﹂を別観するものであることを表明する︒

また仏の名号についても通︵如来・応供・正遍知等︶・別︵釈迦・弥勅等︶

を分

け︑

ついで仏の寿命について述

べる

然仏寿命有真有応︒真如虚空畢寛無尽︒応身寿命有長有短︒今此所論是応非真︒故彼観音授記経云無量寿仏命 ︒

雄長久亦有終尽︒故知是応︒此仏応寿長久無辺非余凡夫二乗能測故日無量︒命限称寿︒

ここでは︑仏の寿命は︑真身であれ︑応身であれ︑﹁有り﹂とするものの︑宣︵身の寿命は﹁無尽﹂に有るとし︑

︵大

正三

七︑

一七

三下

応身の寿命には﹁長短﹂が有るとして︑応身の寿命の有限性を示す︒そして︑この経の仏は﹁無量寿﹂という名で

あっ

ても

それは﹁観音授記経﹄にいうように︑凡夫や二乗には測ることのできない寿命という意味で︑﹁無量寿

仏﹂は応身であるから︑寿命は﹁長久﹂であっても﹁終尽﹂︵分段︶があるという︒

また︑慧遠は

仏具

三身

一者

真身

謂法

与教

︵報

?︶

︒二

者応

身八

相現

成︒

一二

者化

身随

機現

起︒

︵大

正三

七︑

一八

一中

と三身の別を述べる︒この三身を﹁真身﹂と﹁応身﹂に分類すると︑﹁大乗義章﹂によれば真身︵法身︶・応身

となるが︑おそらくここでは︑真身︵法・報︶・応身︵応・化︶とみている︒

︵応

・化

二身

以上が︑慧遠の﹃観経﹄や﹁西方無量寿仏﹂に対する解釈である︒

浄土

につ

いて

は︑

又復魚国通有分段凡夫往生︒妙土唯有変易聖人︒弥陀仏国浄土中島︒

大正

一一

一七

と述べ︑弥陀の浄土が﹁魚﹂であり︑分段生死の凡夫が往生することが示される︒

さらに︑ここで﹁大乗義章﹄巻一九﹁浄土義﹂を援用すれば︑慧遠は︑仏土には﹁事浄土﹂︵凡夫人所居土︶・

﹁相浄土﹂︵声聞縁覚及諸菩薩所居土︶・﹁真浄土﹂︵初地以上乃至諸仏所在土︶

の三

種あ

り︑

さらに﹁事浄土﹂に

﹁凡夫求有浄業所得之土﹂と﹁凡夫求出善根所得浄土﹂の二種あるとする︒そして後者を釈してこのようにいう︒

是其相似出世果故︒故論宣説︒無量寿因不属三界︒彼無貧欲故非欲界︒以在地故不名色界︒有形色故非無色界︒

大正

四四

︑八

三問

中︶

また︑法・報・応の三土を説明する中の﹁応土﹂の因について︑

一同類因︒還以応行而為応因︒諸仏如来︒得土巳久︒現修諸行︒荘厳国︒如弥陀仏国現修四十八弘誓

願 及 諸 所 行

︒ 荘 厳 西 方 世 界

︒ 如 是 等 也

︵ 大 正 四 四

︑ 八 三 六 中

と述べ︑﹁凡夫求出善根所得﹂の﹁事浄土﹂である﹁無量寿国﹂が三界に属さないことと︑﹁応行﹂をもって﹁応

因﹂とする﹁弥陀仏国﹂は︑その果としての﹁応土﹂であることが述べられる︒

因二

種︒

三︑智顕︵五三八

1

五九

七︶

﹃仏

説観

無量

寿仏

経疏

この﹃仏説観無量寿仏経疏﹄に関しては︑従来︑後世の偽作説が有力であるが︑その内容を注意深く読めば︑智

顎説として扱って差し支えない要素を抽出することは可能である︒そこでここでは︑﹁維摩経文疏﹄と﹃金光明経

﹃安楽集﹄の三身説に関する一考察

﹃安楽集﹄の三身説に関する一考察

文句﹄との一致点を確認しながら論を進めたい︒

筆者はすでに智顕と道締の三身の構造の近似︵法身を﹁理﹂︑報身を﹁智﹂︑応︵化︶身を﹁智の用﹂とする点︑

慧遠の法身﹁如来蔵﹂︑吉蔵の法身﹁仏性﹂とする見解とは一線を画する︶について指摘しているが︑この阿弥陀

仏の内容に対する見方は︑智顕独自のものがある︒

智顕﹁疏﹄は﹃観経﹄の﹁宗﹂と﹁体﹂について︑

以下

のよ

うに

述べ

る︒

此経心観為宗︒実相為体︒

︵大

正三

一八

六下

また

今此経宗︒以心観浄則仏土浄︒為経宗致︒四種浄土︒謂凡聖同居士︒方便有余土︒実報無障碍土︒常寂光土0

・:

:安

養清

浄︒

池流

八徳

樹列

七珍

︒次

於泥

一但

皆正

定爽

︒凡

聖同

居上

品浄

土也

︒:

::

方便

有余

者︒

::

:出

三界

有浄

土︒

受法

性身

非分

段生

︒:

::

実報

無障

碍者

︒:

::

純菩

薩居

無有

二乗

︒:

::

常寂

光者

︒:

::

諸併

如来

所遊

処︒真常究寛極為浄土︒

︵大

正三

七︑

一八

八中

1下

といい︑﹁心観﹂に主体をおき︑﹁心観浄則仏土浄﹂︵﹁維摩経文疏﹄新纂担続一八︑四六九中︶と述べる︒この説は

﹁安楽集﹄第二大門第二﹁破異見邪執﹂の第三﹁破繋心外無法﹂において︑﹁有人一言﹂として破斥の対象となって

い ヲ 匂 ︒

文は続いて四種浄土を述べるが︑この内︑凡聖同居土が阿弥陀仏の浄土︵応土︶であること

︵﹁

維摩

経文

疏﹄

六六

上︶

と︑三界の内にあることが︑一二身を述べる以下の記述︵﹁金光明経文句﹂大正三九︑五三中

1

下︶によっ

て知

られ

る︒

法身者︒:::此身非色質亦非心智︒:::此寿非長量︒亦非短量︒無延無促︒:::無寿之寿︒不量之量也︒報身

者︒修行所感︒:::如如智照如如境︒主口提智慧︒:::強名無量為量也︒応身者︒応同万物為身也︒応同連持為

ドキュメント内 真宗研究48号全 (ページ 55-104)

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