楽 集
﹄
の三身説に関する一考察
ーーー陪代諸師の三身解釈との比較を通して||
龍谷大学
長 谷 川
岳 史
問 題 の 所 在
本研究は︑道縛撰﹃安楽集﹄にみられる三身説を︑慧遠・智顕・吉蔵の所説との比較を通して︑中国仏教におけ
る仏身観の展開史上に位置づける研究の一環である︒
従来︑﹁安楽集﹄の三身説については︑阿弥陀仏︵無量寿仏︶の身・土観を介在させなければ見えてこない部分
もあることから︑純粋に三身の構造を検討することはあまりなされていない︒
また︑阿弥陀仏︵無量寿仏︶の身・土の問題となると︑報身・報土を主張する﹃安楽集﹄は︑阿弥陀仏︵無量寿
仏︶の身・土を最低位の応身・応土であるとみた︵蔑んだ︶︑隔代を中心とする聖道諸師︑具体的には慧遠・智
顕・吉蔵に対時するものという見方のために︑慧遠・智頭・吉蔵の阿弥陀仏︵無量寿仏︶観が︑一括されてきた側
面もあるように思う︒中国仏教研究の傾向からいっても︑慧遠・智顕・吉蔵という枠内に︑道紳や﹃安楽集﹄を取
り入れた研究はまだまだ少ない︒
﹁安楽集﹄の三身説に関する一考察
四 七
﹁安楽集﹄の三身説に関する一考察
四
}\
筆者はすでに︑慧遠・智頭・吉蔵・道縛という括りで︑彼らの三一身説を検討したことがあるので詳しくはそれに
譲り︑紙数の制限上︑四師の﹁観経﹂に対する解釈を中心に︑そこにみられる三身三土中の弥陀身土観を検討して
一︑
慧遠
︵五
二三
1
五九
二︶
﹃観
無量
寿経
義疏
﹄
慧遠は︑﹁観経﹂の性格を﹁五要﹂︵五項目︶に分類し︑簡潔に説明する︒
第一﹁教之大小﹂では︑﹁教﹂に﹁声聞蔵﹂と﹁菩薩蔵﹂がある中︑この経が菩薩蔵に収められることを述べる︒
第二﹁教局漸及頓﹂では︑この経が﹁頓教﹂であることを述べ︑その理由として凡夫に対して説かれたものであ
るか
らと
述べ
る︒
第三﹁経之宗趣﹂では
諸経所弁宗趣各異︒如浬繋経浬繋為宗︒如維摩経以不思議解脱為宗︒大品経等以慧為宗︒華厳法華無量義等三
昧 為 宗
︒ 大 集 経 等 陀 羅 尼 為 宗
︒ 如 是 非 一
︒ 此 経 観 仏 三 昧 為 宗
︒
︵ 大 正 三 七
︑ 一 七 三 上
︶
と述べ︑この経の宗が﹁観仏三昧﹂にあるという︒なお﹃安楽集﹄第一大門第四﹁宗旨不同﹂には︑これとほぼ一
致する文があり︑周知のとおり道紳もこの経の宗を﹁観仏三昧﹂とみている︒
第四﹁経名不同﹂では
諸経立名差別不等︒或有就法如浬繋経般若経等︒或復就人如薩和檀太子経等︒或有就喰如金剛明大雲経等︒或
有就事如枯樹経等︒或復就処如彼伽耶山頂経等︒或復就時如時経等︒或人法為名如勝室経等︒或事法双挙如彼
方等大集経等︒或法輪並陳如法華経法鼓経等︒如是非一︒今此経者人法為名︒仏是人名説観無量寿是其法名︒
大正三七
七 上
と述べ︑この経は﹁人﹂︵仏︶と﹁法﹂︵観無量寿︶による得名であることを述べる︒引用中︑右線部分は﹁安楽
集﹄の目目頭で第一大門中の九門を説明する中︑第五﹁得名各異﹂の文との一致をみる︒
慧遠は続けて﹁諸経列人凡有四種﹂として︑説人・問人・所説人・所為人をあげ︑﹁仏﹂が﹁説人﹂であること
を述
べる
︒
第五﹁説人差別﹂では
諸経起説凡有五種︒如龍樹弁︒一仏自説二聖弟子説三神仙説四諸天鬼神所説五変化説︒此経五中是其仏説︒
︵大
正三
七
一七
三中
︶
とこの経が﹁仏説﹂であることを確認する︒この文は﹁龍樹﹂の弁によるもので︑後の吉蔵﹁観無量寿経義疏﹂も
ほぼ同文を載せているが︑土口蔵は﹁大智度論﹄の所説としている︒また︑﹃安楽集﹄の冒頭で第一大門中の九門を
説明する中︑第六﹁説人差別﹂にも︑出拠は示されないものの︑ほぽ同文がみられる︒
無量寿者是所観仏︒観仏有二︒ つぎに経名の釈に入る︒その中﹁無量寿﹂を釈するにあたり︑次のように述べる︒
一真身観二応身観︒観仏平等法門之身是真身観︒観仏如来共世間身名応身観︒ 慧遠はこの﹁五要﹂を述べて︑
︵大
正三
七︑
一七
三中
︶
ここでは︑﹁無量寿﹂とは︑所観の仏であるとし︑
と﹁応身観﹂︵観仏如来共世間身︶をあげる︒ さらに﹁観仏有二﹂として︑﹁真身観﹂︵観仏平等法門之身︶
続いて﹁真身観﹂について︑﹁維摩経﹄を引いて﹁観身実相﹂とし︑﹁応身観﹂について︑
其応身観如彼観仏三昧経︒取仏形相繋想思察名応身観︒:::応身観中有始有終︒:::以如是等箆浄信見名之為
始︒以大神通親往礼親或復往生面暗供養名真実見此以為終︒:::今此所論是応身中食浄信観点矢︒
﹃安楽集﹄の三身説に関する一考察
四 九
﹁安
楽集
﹂の
コ一
身説
に関
する
一考
察
。
五︵大
正三
七︑
一七
三下
︶
と述
べ︑
﹃観
仏三
昧海
経﹄
を引
いて
︑﹃
観経
﹄
の観仏が﹁応身観﹂にあたり︑応身への魚の浄信によるものであるこ
とを
述べ
る︒
慧遠は次に︑﹃観仏三昧海経﹄を引いて︑﹁応身観﹂に︑個別の仏を観ずるのではない
の個別の仏を観ずる﹁別観﹂があることを示し︑ ﹁通観﹂と︑弥勅や阿閃等
今此所論是其別観︒別観西方無量寿仏︒
︵大
正三
七︑
一七
三下
︶
として︑﹁観経﹂は応身﹁西方無量寿仏﹂を別観するものであることを表明する︒
また仏の名号についても通︵如来・応供・正遍知等︶・別︵釈迦・弥勅等︶
を分
け︑
ついで仏の寿命について述
べる
然仏寿命有真有応︒真如虚空畢寛無尽︒応身寿命有長有短︒今此所論是応非真︒故彼観音授記経云無量寿仏命 ︒
雄長久亦有終尽︒故知是応︒此仏応寿長久無辺非余凡夫二乗能測故日無量︒命限称寿︒
ここでは︑仏の寿命は︑真身であれ︑応身であれ︑﹁有り﹂とするものの︑宣︵身の寿命は﹁無尽﹂に有るとし︑
︵大
正三
七︑
一七
三下
︶
応身の寿命には﹁長短﹂が有るとして︑応身の寿命の有限性を示す︒そして︑この経の仏は﹁無量寿﹂という名で
あっ
ても
︑
それは﹁観音授記経﹄にいうように︑凡夫や二乗には測ることのできない寿命という意味で︑﹁無量寿
仏﹂は応身であるから︑寿命は﹁長久﹂であっても﹁終尽﹂︵分段︶があるという︒
また︑慧遠は
仏具
三身
︒
一者
真身
謂法
与教
︵報
?︶
︒二
者応
身八
相現
成︒
一二
者化
身随
機現
起︒
︵大
正三
七︑
一八
一中
︶
と三身の別を述べる︒この三身を﹁真身﹂と﹁応身﹂に分類すると︑﹁大乗義章﹂によれば真身︵法身︶・応身
となるが︑おそらくここでは︑真身︵法・報︶・応身︵応・化︶とみている︒
︵応
・化
二身
︶
以上が︑慧遠の﹃観経﹄や﹁西方無量寿仏﹂に対する解釈である︒
浄土
につ
いて
は︑
又復魚国通有分段凡夫往生︒妙土唯有変易聖人︒弥陀仏国浄土中島︒
大正
一一
一七
一八 二ド
︶
と述べ︑弥陀の浄土が﹁魚﹂であり︑分段生死の凡夫が往生することが示される︒
さらに︑ここで﹁大乗義章﹄巻一九﹁浄土義﹂を援用すれば︑慧遠は︑仏土には﹁事浄土﹂︵凡夫人所居土︶・
﹁相浄土﹂︵声聞縁覚及諸菩薩所居土︶・﹁真浄土﹂︵初地以上乃至諸仏所在土︶
の三
種あ
り︑
さらに﹁事浄土﹂に
﹁凡夫求有浄業所得之土﹂と﹁凡夫求出善根所得浄土﹂の二種あるとする︒そして後者を釈してこのようにいう︒
是其相似出世果故︒故論宣説︒無量寿因不属三界︒彼無貧欲故非欲界︒以在地故不名色界︒有形色故非無色界︒
大正
四四
︑八
三問
中︶
また︑法・報・応の三土を説明する中の﹁応土﹂の因について︑
一同類因︒還以応行而為応因︒諸仏如来︒得土巳久︒現修諸行︒荘厳国︒如弥陀仏国現修四十八弘誓
願 及 諸 所 行
︒ 荘 厳 西 方 世 界
︒ 如 是 等 也
︒
︵ 大 正 四 四
︑ 八 三 六 中
︶
と述べ︑﹁凡夫求出善根所得﹂の﹁事浄土﹂である﹁無量寿国﹂が三界に属さないことと︑﹁応行﹂をもって﹁応
因﹂とする﹁弥陀仏国﹂は︑その果としての﹁応土﹂であることが述べられる︒
因二
種︒
三︑智顕︵五三八
1
五九
七︶
﹃仏
説観
無量
寿仏
経疏
﹄
この﹃仏説観無量寿仏経疏﹄に関しては︑従来︑後世の偽作説が有力であるが︑その内容を注意深く読めば︑智
顎説として扱って差し支えない要素を抽出することは可能である︒そこでここでは︑﹁維摩経文疏﹄と﹃金光明経
﹃安楽集﹄の三身説に関する一考察
五
﹃安楽集﹄の三身説に関する一考察
五
文句﹄との一致点を確認しながら論を進めたい︒
筆者はすでに智顕と道締の三身の構造の近似︵法身を﹁理﹂︑報身を﹁智﹂︑応︵化︶身を﹁智の用﹂とする点︑
慧遠の法身﹁如来蔵﹂︑吉蔵の法身﹁仏性﹂とする見解とは一線を画する︶について指摘しているが︑この阿弥陀
仏の内容に対する見方は︑智顕独自のものがある︒
智顕﹁疏﹄は﹃観経﹄の﹁宗﹂と﹁体﹂について︑
以下
のよ
うに
述べ
る︒
此経心観為宗︒実相為体︒
︵大
正三
七
一八
六下
また
今此経宗︒以心観浄則仏土浄︒為経宗致︒四種浄土︒謂凡聖同居士︒方便有余土︒実報無障碍土︒常寂光土0 ︑
・:
:安
養清
浄︒
池流
八徳
樹列
七珍
︒次
於泥
一但
皆正
定爽
︒凡
聖同
居上
品浄
土也
︒:
::
方便
有余
者︒
::
:出
三界
外
有浄
土︒
受法
性身
非分
段生
︒:
::
実報
無障
碍者
︒:
::
純菩
薩居
無有
二乗
︒:
::
常寂
光者
︒:
::
諸併
如来
所遊
居
処︒真常究寛極為浄土︒
︵大
正三
七︑
一八
八中
1下
といい︑﹁心観﹂に主体をおき︑﹁心観浄則仏土浄﹂︵﹁維摩経文疏﹄新纂担続一八︑四六九中︶と述べる︒この説は
﹁安楽集﹄第二大門第二﹁破異見邪執﹂の第三﹁破繋心外無法﹂において︑﹁有人一言﹂として破斥の対象となって
い ヲ 匂 ︒
文は続いて四種浄土を述べるが︑この内︑凡聖同居土が阿弥陀仏の浄土︵応土︶であること
︵﹁
維摩
経文
疏﹄
四
六六
上︶
と︑三界の内にあることが︑一二身を述べる以下の記述︵﹁金光明経文句﹂大正三九︑五三中
1
下︶によって知
られ
る︒
法身者︒:::此身非色質亦非心智︒:::此寿非長量︒亦非短量︒無延無促︒:::無寿之寿︒不量之量也︒報身
者︒修行所感︒:::如如智照如如境︒主口提智慧︒:::強名無量為量也︒応身者︒応同万物為身也︒応同連持為