3.史料翻刻
9. 安井亜狂『逆縁』1945 年
表紙に「逆縁」とあり、中表紙には色紙に毛筆で「逆縁」と書かれている。さらに次頁には、活 字体の「英夫追善」、英夫の兵士姿の遺影、英夫の書簡(1944年10月2日付)と続く。その後、一 頁2句ずつ、各地から寄せられた英夫追善句が、36頁まであり、37頁は父亜狂の、38頁は母秀女の 句が掲載され、句は終わっている。さらに、「父の言葉 安井政太」、「母の言葉 安井秀野」が付さ れている。本句集は活字印刷されている。奥付はない。
「父の言葉」によれば、英夫の誕生日に戦死の電報を受け取ったという。「パープルハートとその 覚書は言はばお前の二十五年の生涯のデプロマとなつた」と気丈に記しているが、英夫に送った書 簡や小包が送り返され、戦死の報を受けた衝撃はいまだに消えない。亜狂夫妻の元には各地から弔 句が寄せられてきた。それを小冊子にまとめ、保存することで、英夫の存在を永遠のものにしたかっ たのであろう。
「母の言葉」では、まず英夫の略歴が記される。1919年11月9日、ワシントン州レニア山麓のサ ムナーで生まれた。まもなくオリンピック半島に移り、すぐにシアトルに転居する。その後も転居 は続くが、英夫はワシントン大学に入学、あと一学期で徴兵される。やがてヨーロッパ戦線へ赴き、
イタリアで負傷、3週間後復隊してフランス戦線へ、1944年10月22日戦死。兵士になってからも、
病父を見舞って、ツールレーキ、ミニドカの収容所を訪問した。淡々と略歴を綴ってはいるが、「人
− 110 − − 111 − 目も恥ぢず、おん前に泣き崩れて神よ、いつまでも英夫の上に加護あらせ給へとひたすら英夫の冥
福を祈るのであります」と結んでいる。
潔く消え果てにけり霜の花 藤岡無隠 輝けるおん面ざしや冬の星 藤岡細江 母の手にかへる日もなく秋更くる 原野菊 十字架のみもと安けく菊真白 秦歌女 紅葉焚く煙にむせび老二人 香川青柳 つつ音を冬野に聞いて偲ぶ君 梶田福女 菊散るや幾世に尽きぬ香の誉 近藤梅香 フランスの枯野の血汐苔むすや 小池晩人 木枯や子の訃にこもる畏友のいかに 毛利白龍 霜寒し膝にしみ込む涙かな 左右木韋城 冬灯やただならぬ世のさかさごと 関谷赤江女 軍服のうつし絵悲し菊の壇 臼田葉子 人の子の霊を抱きて山眠る 矢野紫音女 寒燈を点じて老ひの忌籠 安井亜狂 菊の塵掃いて逆縁忌籠 安井秀女
韋城編『慰霊句集』と比較すると、『逆縁』の句の方が個人的な情感がこもっていると思われる。
前者は二世兵士全体に対する慰霊句である。後者は、友人の子息という明確な対象の死を悼む句で あるからであろう。英夫を個人的に知っていた場合もあろうし、息子を失った友人の心境を容易に 察することもできた。そのために、一人の兵士の死を共感をもって詠めたのであろう。
おわりに
本稿は、収容所で発行された俳句集全てを網羅するものではない。資料的には、強制収容所内の 俳句吟社の動向と内容を俯瞰するには限界がある。個人句集は除かれている。また、個々の句集の個々 の作品や作家について詳しく紹介したものでもない。しかし、WRA管轄の収容所の俳句集の発行の 有無の確認、活動記録の追跡、さらに俳人の本名と経歴を特定する作業は今日では極めて困難であり、
その解明を待っている間に、現在個人等に保存されているかもしれない句集が廃棄されることを恐 れ、本稿をまとめた。強制収容所で発行された俳句集、そして短歌集、川柳句集への関心が高まり、
句集が図書館等に寄贈され、保存されることを期待する。
註
1 本稿は、拙稿「アメリカ合衆国敵性外国人抑留所内の短詩型文学覚書」、白百合女子大学 言語・
文学研究センター『言語・文学研究論集』11号、2011年3月、55-69頁を補完する。本稿の資料 閲覧に関しては、2010年度〜2012年度日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)22510276「南 北アメリカ移民地短詩型文学の発掘保存と社会史的活用に関する基礎研究」、 2010年度〜2012年
度JICA横浜海外移住資料館学術研究費「海外移住資料館所蔵文献資料の拡充と学術的活用の探究」、
2013年度〜2014年度白百合女子大学学内研究奨励費「アメリカ合衆国強制収容所における日本語 文学作品の発掘・保存・分析」の助成を受けた。
2 公的にはrelocation centerと呼ばれた。転住所とも訳される。その訳の方が強制収容所よりも適訳
である。relocateとは再配置する、引越するなどの意味を持つからである。しかし、実際は、立ち
退き収容はアメリカ軍による強制執行であり、収容所は鉄条網に囲まれ、銃剣をもった兵士が監 視塔から見張る施設だった。
3 個人句集に関しては稿を改めたい。
4 ツールレーキ収容所が隔離収容所とされた。対象は、日本への「帰国」を申請した者、「忠誠登録」
と呼ばれる質問用紙の質問27、28にイエスと答えなかった者、アメリカ政府が日本に忠誠だと判 断した者だと言われる。
5 鶴嶺湖とも標記される。
6 本稿では、句集に記載されている表記を用いた。過半は雅号である。
7 第一次日米戦時交換船で日本へ帰ったのであろう。日米戦時交換船については粂井輝子・村川庸 子『日米戦時交換船・戦後送還船「帰国」者に関する基礎的研究』(トヨタ財団助成研究報告書 1992年)参照。
8 二世は、日本語学校(放課後、あるいは土曜日の補習学校)で日本語を学ぶ場合もあったが、日 本語能力は低かった。
9 「追はれ行く」という言葉から、強制立ち退きであろうか。
10 収容所地帯はかつては海底で、貝殻まじりの土壌で、日系人は貝殻を拾い、洗って、造花やブロー チなどさまざまな工芸品を作った。
11 鮑山とも呼ばれる。ツールレーキ収容所を特徴づける低い岡である。
12 教師役は年若い二世であろう。一世の日本式英語が笑われるのであった。
13 収容した日系人を、労働力不足を補うために、低廉な季節労働者として所外で働かせた。
14 この写真は、現在、 Gila River Relocation Center literary club で検索し、
http://jpg1.lapl.org/pics09/00004273.jpgで閲覧できる。2014年7月15日アクセス。ヒラリバー収 容所は、比良収容所とも記される。
15「編集後記」
16「跋」鉄の木とは iron woodで、非常に堅い。この木を加工するのがブームとなった。収容所内の 工芸品については、Delphine Hirasuna, Art of Gaman: Arts and Crafts from the Japanese American Internment Camps, 1942-1946, Ten Speed Press, 2005参照のこと。
17 被収容者の大半はロサンゼルス出身、それにフレズノ、サンタバーバラなどから立ち退いた日系 人が収容された。最大13,348人を数えた。ロサンゼルスから立ち退いた日系人は、まずサンタア ニタ競馬場を転用した仮収容所に収容され、後にヒラリバー収容所に移された。
18 ヒラリバー収容所の植生はメスキート(mesquite)、メキシコハマジシ(creosote bush)、サボテ ンなど砂漠地帯特有の風景を見せていた。この砂漠を日系人は灌漑し、農業地へと土壌改良し、ビー ツ、にんじん、セロリ、大根などの野菜や綿花やアマを生産した。収穫期には1000名の労働者を 雇い、他の収容所にも出荷したという。養豚、養鶏、牧畜も行った。
19 室内では暑すぎるので、外にベットを出して寝た。
20 ヒラリバー収容所はアリゾナ州フェニックス市の東南、夏には平均気温40度以上になる。砂漠の ヒラリバー・インディアン居留地にあった。
21 ヒラリバー収容所の建物は、壁面は白い板で、屋根は赤い石綿板で覆われた。砂漠の熱射対策だ
と言うが、遠目には見栄えがしたという。さらに、近接するポストン収容所と同様、「クーラー」
の設備があった。ポストン収容所のクーラーの説明をきくと、「ポストンでは、コロンビア川から 水をひき、収容所の各棟に水槽をつくり、収容所の周りには溝が掘られて、その溝に夜、水槽か らの水を流して土を湿らせ、建物のまわりに花や木を植えたそうです。又、窓に枠を作り、外側 には針金より太く、薄いメタルで網を作り、その枠の中には枯れ草を詰めて、水槽からの水を浸 み込ませ、屋内ではシアーズのカタログから買った扇風機を回すと、部屋に涼しく、湿り気のあ る空気が入ってきて気持ちよかったそうです」とのことである。Toshiko Mccallum氏からのメー ル回答。2012年10月5日。ロサンゼルスの全米日系博物館ボランティアのベーブ・カラサワ氏か らの聞き取り。
22 夫、田名大正は、開戦後、司法省管轄の抑留所に収監された。田名大正著、田名ともゑ編『サン タフェー、ローズバーグ抑留所日記』山喜房沸書店、1976年参照。
23 ポピイの会は、『層雲』の記事によれば、1936年7月号に、オークランドの自由律の俳句会として 登場する。
24 開戦直後にFBIに検挙され、ハワイで収監され、本土の司法省管轄の抑留所に収監された。「サン タフェ日本人収容所人名録」(1945年10月1日)によれば、ホノルル市の家具商であった。戦後 布哇タイムズから『配所転々』(1954年)を出版している。その著者略歴によれば、ホノルル日本 人商工会議所会頭など諸団体の役員を務め、指導的立場にあった。開戦直後の12月7日午後4時 に拘引された。
25 サンフランシスコ沖合にあるAngle Islandのこと。移民局が置かれ、移民の入国管理を行っていた。
26 陸軍省の管轄するCamp McCoyに収監された。形の良い石を拾い磨き上げるのである。
27 陸軍省管轄のCamp Forrestに収監された。
28 ポピイの会のメンバーであるが、ヒラリバー収容所に収容されている。
29 第二次日米戦時交換船によって日本から、茶、味噌、医薬品、図書、楽器などの慰問品が届けられ、
戦時収容所や抑留所の「在米同胞」に配付された。「『慰問品うれしく受けて』̶戦時交換船救恤 品からララ物資へつなぐ感謝の連鎖̶」『JICA横浜 海外移住資料館研究紀要』2号(2008年1月)
11-24頁参照。
30 Yoshiko Uchida, Desert Exile, University of Washington, 1982, p.105.
31 ツールレーキ収容所は、日本への帰国希望者らも収容しており、「祖国」に帰還したときに備えて、
若者たちを中心に早朝鍛錬としての体操やランニングが行われていた。「ワッショイ」と掛け声を かけながらランニングをしたので、「ワッショイ組」とも呼ばれた。
32 アメリカに「不忠誠」の隔離収容所として、他の収容所よりも「日本」色が強かった。
33 日本への帰国希望確認、アメリカ市民権放棄の意思確認、騒動の調査など、審問は何度も繰り返 された。
34「即時帰国」や待遇改善を求め、過激な運動を展開したとして、「報国青年団」のリーダーや、市 民権放棄者らが多数逮捕され、司法省管轄の抑留所に移送された。
35 満座那とも標記される。
36 磨き上げ、飾り物にしたてた。
37 1942年12月5日に発生した、「マンザナ暴動」と呼ばれる事件を詠んでいる。
38 Sierra山脈のことである。
39 交換船で運ばれた日本からの赤十字通信であろう。
40 木の根や古株を利用して、さまざまなものが作られた。
41 wienie, weenieなどと書かれる。ソーセージのこと。
42 秋はない。
43 峯(峰)土香とも標記される。
44 ミニドカ収容所はアイダホ州ハントにあり、ミニドカ収容所の別名としても使われた。
45 1943年8月に、本多華芳とともに一周年合同追悼記念句会が設けられている。
46 収容所への移動、忠誠登録によるツールレーキ収容所への移動、出所を促す移動とも考えられる。
47 一時出所であろうが、仮収容所でも一時出所はあった。
48 ヒラリバー収容所の別名。
引用文献リスト 論文
粂井輝子・村川庸子『日米戦時交換船・戦後送還船「帰国」者に関する基礎的研究』(トヨタ財団 助成研究報告書 1992年)。
粂井輝子「『慰問品うれしく受けて』̶戦時交換船救恤品からララ物資へつなぐ感謝の連鎖̶」
『JICA横浜 海外移住資料館研究紀要』2号(2008年1月)11-24頁。
粂井輝子「アメリカ合衆国敵性外国人抑留所内の短詩型文学覚書」、白百合女子大学 言語・文学 研究センター『言語・文学研究論集』11号、2011年3月、55-69頁。
著書
Hirasuna, Delphine, Art of Gaman: Arts and Crafts from the Japanese American Internment Camps, 1942-1946, Ten Speed Press, 2005.
Uchida, Yoshiko, Desert Exile, University of Washington, 1982.
田名大正著、田名ともゑ編『サンタフェー、ローズバーグ抑留所日記』山喜房沸書店、1976年。
古屋翠芳『配所転々』布哇タイムズ社、1964年。
雑誌
層雲社『層雲』