第4章 「大仙台」構想の展開と仙台市営電気事業
第1節 「大仙台」構想の展開過程
1.都市計画法・市街地建築物法の成立と「大仙台」構想
周知のように、第一次世界大戦時の好景気(いわゆる大戦景気)の進展を背景に、六大都 市を中心に種々の社会問題・都市問題が激化した。その解決手段の一つとして、1919(大正 8)年、都市計画法が制定されることになった。
同法では、第1条で「都市計画ト称スルハ交通、衛生、保安、経済等ニ関シ永久ニ公共ノ 安寧ヲ維持シ又ハ福利ヲ増進スル為ノ重要施設ノ計画ニシテ市ノ区域内ニ於テ又ハ其ノ区 域外ニ亘リ執行スヘキモノ」と規定された。このような基本方針に基づき、第6条と第8条 で財源についての規定が設けられた。すなわち第 6 条では「都市計画事業ノ施行ニ要スル 費用ハ、……主務大臣必要ト認ムルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ都市計画事業ニ依リ著シ ク利益ノ限度ニ於テ前項ノ費用ノ全部又ハ一部ヲ負担セシムルコトヲ得」として、受益者負 担の原則が明記された。また、第8条では「公共団体ハ……目的税ヲ賦課スルコトヲ得」と 規定され、地租税・国税営業税割、営業税雑種税または家屋税、その他勅令を以て定めるも の、という4種類の「特別税」が設けられることが明記された340。
また、この都市計画法と同時に市街地建築物法が制定された。同法では「主務大臣ハ本法 ヲ適用スル区域内ニ住居地域、商業地域又ハ工業地域ヲ指定スルコトヲ得」341(第1条)が
340 以上、「都市計画法」、『公文類聚 第四十三編 大正八年 巻二』(国立公文書館デジタルアーカイブ 資料)。
341 「市街地建築物法」、同上。
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明記された。つまり、市街地のゾーニング(地域の用途別利用の設定)を行うことが規定さ れたのである。
この上記の 2 つの法律に基づいて都市計画区域が設定され、都市計画事業が展開するこ ととなるが、これらの法律は当初から六大都市にのみ適用されることになった。そのため、
これらの法律の適用を受けるべく、仙台市でも対応策を講じることとなる。
そのような動きの中で、正確にいえばこれらの法律の成立前夜において登場してきたの が「大仙台」構想であった342。1918(大正7)年11月26日の『河北新報』によれば、仙台 市民の間に、同市に隣接している名取郡長町、宮城郡原町を仙台市に合併し、「大仙台」を 実現させるべきであるという意見があることが報じられた343。特に長町については、「近来、
各種工場の設立その他によりて、頗る発展を来し」ていることから、「先づ長町を市に編入」
することが目指された。すでに、長町には旭紡織株式会社などの近代工業が立地していたこ ともあって、住宅の集積・交通機関の整備などが顕著であり、将来の開発可能性が見込まれ ていた。
2.仙台市都市計画区域の策定から第一次合併・第二次合併まで
その後、仙台市は、1921(大正10)年頃、市会議員から構成される仙台都市計画臨時調 査委員会を設置し、都市計画法に基づくかたちでの仙台市の都市計画事業についてさまざ まな調査を行ったほか、翌年4月には、仙台市役所内に都市計画準備調査部を設置し、本格 的に都市計画法の適用に向けての準備を行っていった。そして1923(大正12)年5月、仙 台市は全国28都市とともに都市計画法の適用都市に指定された。これを受けて、仙台市は 都市計画区域の設定に向けて動き始めた。
都市計画区域とその中の各地域の役割(ゾーニング=地域の用途別利用の設定)について は、都市計画法の適用を受けた都市の議会で審議したうえで、その都市を管轄する県に設置 された「地方委員会」で立案・決定され、それを中央委員会に提出し、最終的には内務省の 認可を受けるというしくみとなっていた。都市計画法の適用を受けた仙台市においては、仙 台市会で議論されたのち、都市計画宮城地方委員会344(以下、宮城地方委員会とする)で審
342 都市計画法制定の動きについては、すでに1918(大正7)年11月の『河北新報』でも確認できる
(たとえば「都市計画要綱」、『河北新報』1918年11月10日など)。
343 「大仙台実現せん」、『河北新報』1918年11月26日。ちなみに、この当時、都市名に「大」をつけて 市勢振興をめざそうとする動きが全国の諸都市などでみられた。これについては梅田定宏「多摩の『都 市化』の一側面―『総合的都市』建設を夢見た時代―」(松尾正人編『近代日本の形成と地域社会―多 摩の政治と文化―』岩田書院、2006年、373~401ページ)、伊藤之雄『「大京都」の誕生』にも言及が あるため、そちらを参照されたい。
344 都市計画宮城地方委員会の主な構成員は、行政担当者からは県知事1名、県会議員3名、市会議員6 名、市長、吏員2名であった。委員長は県知事が担当し、委員長はこの他に関連する官庁・機関(大 学、県庁、逓信局、鉄道局など)から高等官10名、学識経験者10名を選任することができた。さらに 内務大臣は技師・技手などを任命・配置することができた。委員の多くは県知事による推薦によって選
91 議されることとなっていた。
その原案は、都市計画法の適用を受けた直後の1923年6月頃に完成した。当時の『河北 新報』では、次のように報じられている。
商業地 ほぼ電車(市電のこと…引用者)第一期線(周回線の内部)、すなわち
南町通以北、元柳町以東、北四番丁以南、停車場前通以北の圏内(勿論 出入あり)
工業地 鉄砲町北裏小田原付近より長町一帯
住宅地 広瀬川両沿岸
公園 東公園、西公園、青葉神社境内、薬師堂付近、向山一帯、大崎八幡神社
境内付近の七ヶ所345
これをみるように、このときすでに長町・原町は仙台都市計画区域に含まれ、その中の「工 業地」、すなわち仙台圏における重点的工業推進地域として位置づけられていることがわか る。しかし、同年9月に発生した関東大震災の影響もあり、区域決定は行われなかった。
1924(大正13)年11月には、内務省より仙台市都市計画区域原案が提示された。このと きの区域は、仙台市および同市の南方・東方にあたるとされた名取郡長町、宮城郡原町・七 郷村大字南小泉・蒲町であった。また、12 月下旬になると内務省から宮城地方委員会に対 して都市計画区域に関する諮問が行われた。
これを受けて、翌1925(大正14)年1月8日の仙台市会で議論が交わされた。内務省か らの原案には賛同する者も多かったが、ある市会議員からは「西方ト北方トハ現在ノ市ノ行 政区画ヲ以テ限ラレ、山地丘陵ニシテ将来発展ノ見込ミナシト書イテアルモ、西方及北方ノ 一部ハ大仙台ヲ建設スルニ拡張シ置クノ必要」があるという意見が出された。また、別の市 会議員からも、七北田村の台ノ原地区などは「大仙台トナル時ハ将来住宅区域ト発展スル地」
であるため「荒巻ノ一部及台ノ原ヲ入ルルヲ至当ト思フ」と意見も提示された。さらに、他 の市会議員からもこれらの意見に賛成する声が高まった結果、諮問に対する仙台市会の答 申として、上記の区域に加えて宮城郡七北田村荒巻字三居沢、文殊堂、山屋敷、貝ヶ森、台 ノ原など 8 地域を組み入れることが決議された346。これが仙台市の原案として宮城地方委 員会に提出され、同委員会でも仙台市の都市計画区域として同地域を「宮城郡七北田村荒巻」
として区域編入することが決定されたのである(同年2月23 日)。つまりここでは、仙台
出され、内務大臣が任命するというかたちをとっていた。
このうち、仙台市会議員については市会内での選挙で選ばれることとなったが、その都市計画委員の 選出をめぐり、議員間の政党・派閥による激しい争いにまで発展した。この経緯については、仁昌寺正 一「地元在住研究者が語る昭和3年仙台市と名取郡長町の合併―80周年の節目に―」(2008年8月、
長町歴史の会での講演)に詳述されているため、そちらを参照されたい。
345 「都市計画と仙台 計画法と将来の濫画」、『河北新報』1923年6月11日。
346 以上、仙台市会『大正十四年 仙台市会会議録』。
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都市計画区域として仙台市、名取郡長町、宮城郡原町・七郷村大字南小泉・蒲町・七北田村 荒巻を含んだものを要望していたのである。
しかし、1925(大正14)年3月6日に内務省より通達された「仙台都市計画区域」では、
その区域を仙台市、名取郡長町、宮城郡原町・七郷村南小泉・蒲町とされていた。宮城郡七 北田村荒巻地域は除外されたのである。つまり、仙台市および宮城地方委員会での原案修正 案は採用されなかったのである。
「仙台都市計画区域決定理由書」によれば、仙台市に対して次のような構想があることが わかる。
……本市(仙台市のこと…引用者)ヲシテ其ノ産業都市タル機能ヲ発揮セシメ、且ツ 東北文化ノ中心地トシテノ使命ヲ全フセシメム為ニハ、現在ノ市域ヲ以テ満足スヘ カラサルハ勿論ニシテ、現今市ノ東部及南部ハ漸次発展ヲナシ、人家連担シ、又長町、
七郷村及原町ニ亘ル一体ノ地ハ鹽釜港ノ完備並宮城電気鉄道(仙台―鹽竈、石巻間)
ノ完成等ト相俟ツテ鹽竈港ト連絡ヲ益々密接ナラシムルコトニ依リ、発展上有利ノ 地位ニ在ルヲ以テ将来工業地域トシテ其開発ニ努ムルノ必要アリ……347
ここには、仙台市が「産業都市タル機能」を発揮するとともに「東北文化ノ中心地」とな るべきであること、そのために現在の市の東部・南部を発展させて「将来工業地域トシテ其 開発ニ努ムルノ必要アリ」ということが明記された348。そのために、都市計画区域内での開
347 「仙台都市計画区域決定理由書」、『公文雑纂 巻二十二 都市計画』(1925年)国立公文書館デジタル アーカイブ資料。
348 こうした考えは、都市計画法の適用都市となった直後の世論にも反映されている。1923(大正12)年 9月の『河北新報』社説では、仙台市の近代都市化に関する根本問題として、以下のように述べられて いる。
仙台市は完全なる消費の都市である。学生と軍人と樹木の都市である。大銀行と大工場と大 会社とを枢軸とし、生産を心臓として回転する商工都市が所謂近代都市の概念だとすれば、仙 台市は近代都市の圏外に立つ特殊なる意味における特別な都市だと言わねばならぬ。事実、仙 台には旧都市の残骸があって、今日の意味における都市の呼吸はないのである。市が過去数年 来、新興都市の間に伍して原形以上に一歩も出るを得なかったのはこれのために他ならぬ。森 の都とは美麗である。けれども、その美は内部に充溢する目まぐるしい活動が造りなす美とは 本質を異にする。都市の実質は活動だ。活動を外にしては今日の都市の意味がなく、従って都 市の創る美はありえない。森の都とは活動が休止した状態を指した言葉、非活動を象徴した言 葉である。仙台市は森の都から活動の都へ、静穏なる消費都市から騒々しい産業都市へと転回 して行かねばならない。これは仙台市にかかる根本問題であり、而して今が実行の緒を切るべ き絶好の機会である。
都市計画法が施行されたことはこの場合、甚だ誂い向きである。………都市をして近代都市
たらしむる努力、都市をして消費都市から生産都市たらしむる努力であって、換言すれば都市 の本質を改造する所に都市計画の目的があるのである。都市計画を施行することになった仙台 市は、遅かれ早かれ計画の究極目的によって改正されなければならないのであるから、……こ