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地先漁場におけるダイビング事業の展開

ドキュメント内 第1章 序論 (ページ 88-105)

     

  ―静岡県伊東市富戸区を事例として― 

   

Ⅰ はじめに 

 

第二次大戦後の高度経済成長期以降、生活水準の向上と余暇時間の増加に伴い、日本の沿 岸域におけるレクリエーション活動が活発化し、マリンレジャーの多様化が進んだ。なかでもスキ ューバダイビングは、1980 年代に入ってから、潜水器材の進歩により安全性・機能性が向上した ことや、ファッション化が進んだことなどにより、若年層を中心に急速に普及していった(日本海 洋レジャー安全・振興協会編著、1997、p.123)。その結果、日本の現在のダイビング人口は約90 万人にまで達し、1)スキューバダイビングは、わが国の主要なマリンレジャーとしての地位を確 立している。 

こうしたダイビング人口の急増に伴い、沿岸域におけるダイビングスポット 2)の開設が進み、

現在では、全国に 178 ヵ所にのぼるダイビングスポットが設置されるに至っている(運輸省海洋・

海事課、1989、p.30)。こうした動向のなかで、漁業を生業の柱としてきた沿岸集落のなかには、

ドラスティックな地域変化を経験するものも出現してきた。例えば、宮内(1998)は、沖縄県座間 味島を対象地域として、スキューバダイビングを軸とした観光産業の発達が、雇用の場の拡大に つながり、島嶼地域としては異例の人口増加をもたらしたことを報告している。これらの研究によ って、近年のスキューバダイビングの地域的展開が、沿岸集落における地域変化の重要な要因 となりつつあることは明らかとなった。しかし、いまだ調査事例が少ないこともあり、その地域社会 の変化の実態が十分に解明されたとは言い難い。 

また、スキューバダイビングの場合には、その利用空間について沿岸漁業との競合が見られ るが、いまだ漁業との間の具体的な調整システムが確立しておらず(山下、1992、p.26)、沿岸集 落の地域社会とダイバーとの軋轢が社会問題化している。3)その一方で、沿岸漁業が衰退傾向 にある今日では、ダイビング事業による収益は、漁協経営の安定化と各組合員の所得水準の向 上の切り札として期待されており(浜本・田中、1997、p.35)、地域活性化の視点からも、ダイバー と地域社会との安定した共存関係の形成が重要な課題となっている。 

そこで本章では、共同漁業権をもつ漁協が積極的にダイビング事業を導入して多額の収益を 得てきただけでなく、漁業者もボートダイビング営業を通じてダイビング事業の恩恵に浴している 伊豆半島東海岸の伊東市富戸地区を研究対象地域として取り上げる(6-1 図)。そして、地先漁 場を利用したダイビング事業の経済的メリットや、ダイビング事業の展開が地域社会に与えた影 響と問題点について、実証的に明らかにすることを目的とする。とくに富戸地区の場合、宿泊施 設の付帯施設としてダイビングサービスが設置され両者が経営面で密接に結びついている沼津 市大瀬崎地区とは異なり、宿泊施設とダイビングサービスの経営がそれぞれ独立している点に

大きな特色が見られる。そこで、前章で取り上げた大瀬崎地区の調査結果と比較検討することに よって、全国のダイビング観光地の類型化を試みるうえでの重要な知見が得られるものと考え る。 

富戸地区には、脇の浜・ヨコバマの2ヵ所のビーチエントリーポイントをもつ「富戸」と、伊豆海 洋公園内からエントリーする「海洋公園」の2つのダイビングスポットが存在し(6-1 図)、主要なも のだけでも合計 17 カ所のダイビングポイントが沿岸に分布している。1964 年、伊豆海洋公園内 に伊豆海洋公園ダイビングセンター(当時の名称は東拓アクアスポーツクラブ)が創設され、海 洋公園は全国的にも早い時期から多くのダイバーを集めていたが、とくに富戸港付近のダイビ ングスポットが開設された 1988 年以降、急速に来訪ダイバー数が増加した。その結果、現在の 富戸地区の年間来訪ダイバー数は、9万3744人(1999年)に達し、富戸・海洋公園は、沼津市の 大瀬崎地区とならび、伊豆半島の中で最も人気の高いダイビングスポットとなっている。 

江戸時代の藩政村としての富戸村は、1889(明治 22)年の町村制施行に伴い、池・八幡野・赤 沢の3村とともに対島村を構成していたが、1955 年の対島村・伊東市の合併により、伊東市の一 地区となった。現在の富戸区は、旧来ひとつの村落社会を形成してきた郷戸町・東町・西町・岡 町・払町の5つの「町内」(6-1 図)に、歴史の新しい周辺の3つの「町内」を加えた8「町内」から構 成されている。元来の5「町内」の現在の世帯数は合計 555 に過ぎないが、1960 年代以降、いわ ゆる「伊豆高原」における大規模な別荘地造成が進められたほか、1980 年代からはペンション等 の宿泊施設の開業が相次いだ結果、流入人口が著しく増加し、2000 年3月 31 日現在の富戸地 区(富戸区に属さない別荘地等を含む)全体の人口は 5621 人、世帯数は 2471 となっている。 

 

Ⅱ 富戸地区における観光地化の進展 

 

1) 観光地化以前の生業形態   

1. 半農半漁の村 

静岡県漁業組合取締所(1894、p.46)によれば、明治中期の富戸区は、総戸数 152 戸のうち漁 戸が 150 戸を占める「農業五分漁業五分」の半農半漁の村であった。僅かな湾入を利用した小 規模な漁港しか持たない富戸では、漁業の生産力は相対的に低く、しかも漁獲が不安定であっ たため、農業への依存度も高くならざるを得なかった。 

生業の柱の一つである漁業経営の内容は、冬季のイカ釣漁業を主体とし、それに 30 余戸に よる共同経営のサンマ網、部落張のボラ網 4)を組み合わせたものだった(静岡県漁業組合取締 所、1894、p.45〜49)。この部落張のボラ網に代表されるように、当時の富戸においては、強固な 村落共同体的な結合が維持されていた。 

一方、漁業と並ぶ生業の柱であった農業経営は、集落近辺の狭小な畑地での自給的な麦 類・サツマイモの栽培を中心とするものであった。富戸地区一帯は、大室山火山群の溶岩流で 覆われており(葉室、1978、p.439)、水田は僅か3ha 程度しか存在しなかった。集落周辺には、

三の原・先原等と呼ばれる溶岩台地が広がっているが、これら比較的広い緩傾斜地は、主に薪 炭材採取地・採草地として利用されていた。これらの山林原野は、1890 年代末以降、静岡県庵 原郡や山梨県などからの入植者らによって、開墾が進められたが(富戸史話編集委員会編、

1969、p.55〜61)、これら開拓地と半農半漁の村としての富戸とは基本的に別個の生活が営まれ てきた。歴史の新しい3町内(三の原・松尾・上野)は、これらの開拓集落を基礎としている。 

 

2. 海図から陸図へ 

 大野(1959、p.217〜222)は、海路を通して東京と商品流通面で直結していた富戸が、1930 年 頃を境に陸路を中心とするローカルな市場との結びつきを強めてゆく過程を、「海図から陸図 へ」という言葉で表現している。そして、地方的な領域での人口・商品の動きの活発化が、「部落 的強制」の存在をゆさぶる条件になったことを指摘している。5) 

こうした過程の中で、上層漁家によるサンマ流刺網の導入が本格化した大正期以降、漁民層 分化が顕著となり、とくに深刻な不漁が続いた 1930〜1937 年には、階層分化の傾向がいっそう 促進された。そして、このような階層分化の進展を背景として、早くも 1925(大正 14)年頃から出 稼者が増加しはじめ、1930 年代には多数の出稼者が京浜地区や満州(当時)に流出した(大野、

1959、p.221)。 

また、養蚕・温州みかん等の商品作物が導入されたのも、この頃であった。とくに、山梨県出 身の入植者が持ち込んだといわれる養蚕は、大正中期には在来の大部分の世帯に普及し、一 時は重要な現金収入源となったが、繭価の低迷等により 1930 年代後半には著しく衰退した。生 産性の低い狭小な耕地での農業は、こうした商品作物の導入などの努力にもかかわらず、漁業 から流出した労働力を吸収するには不十分であり、労働力が出稼等の形で他業種へ移行する 傾向は、その後も続くことになった(大野、1959、p.214)。 

 

3. 第二次大戦後の農・漁業の衰退 

第二次大戦直後には、イカの記録的な豊漁が続き、漁船数も 1945〜49 年の5年間に 40 隻か ら 91 隻にまで増加した。しかし、1952 年からイカの漁獲量が激減し、また他の主要魚種のサン マ・サバ・アジも不漁が続いたため、1955 年頃には漁船を売却して漁業以外に転職するものが 続出した(大野、1959、p.224)。1958 年に実施された大野盛雄の実態調査によれば、富戸(岡町 を除く)の 252 世帯中、漁船を所有する漁業経営者(21 世帯)と商業経営者を除いた「労働者世 帯」は 171 世帯(約 68%)に達しており、このうち漁業労働者のみの世帯は 26 世帯にすぎない。

こうした数字からも、当時の漁獲量減少に伴う、漁業危機の深刻さがうかがわれよう。 

一方、漁業収入が激減した 1950 年代後半には、農業に活路を見い出すべく、養蚕の衰退に 伴って 1935 年頃から植栽が本格化した温州みかんの栽培が拡大していった。その結果、1960 年までにみかん園(成木のみ)は約 50ha にまで拡大し、1960 年度の生産額は 5200 万円に達し た(富戸史話編集委員会編、1969、p.52)。さらに 1970 年には、全耕地(70.8ha)の約 94%を樹園 地(大部分がみかん園)が占めるにいたり、温州みかん栽培が農業の中心的な地位を占めるよう になった。しかし、1972 年の温州みかんの全国的な価格暴落とその後の価格低迷のなかで、

1980 年代には温州みかん栽培は著しく衰退し、樹園地面積は 1980 年には 49.1ha、95 年には 19.1ha にまで減少した。 

1960 年代には、イルカの大漁をはじめとする好漁が続き、1950 年代に危機に陥っていた漁業 経営は、一時的に回復した。ところが、その後の富戸漁協(現伊東市漁協富戸支所)の水揚量

(受託販売量)は再び減少に転じ、漁業は現在に至るまで低迷を続けている(6-1 表)。たしかに 漁協の自営事業は、定置網経営による収益や 1967 年に開始されたイセエビ・サザエ等の畜養

ドキュメント内 第1章 序論 (ページ 88-105)

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