64 5 廉潔性原則
一 国家による罠の手続法的効果に関する判例の動向
イギリスにおける国家による罠(罠捜査)に関する判例の動向は、三期に分けることがで きる。第一期(1980年~1984年)は、この問題に関するリーディングケースである
1980
年のサン・ケース貴族院判決における実質的な抗弁の否定から始まる。第二期(1985年~イギリスにおける手続の打切り論について、次の二つのカテゴリーに当てはまれば、裁判所は手続の打 切り権限を行使することができるとされる。第一に、被告人に対する公正な裁判を実施することが不可能 になった場合である。第二に、廉潔性を保つことができなくなった場合である。第二のカテゴリーでは、
主に次の五つの点を比較考量し、廉潔性が維持されているかの判断がなされている。①被告人・第三者に 対する権利侵害の重大性があるか、②警察官は、不誠実・悪意・不適切な動機によって行動したか、③違 法行為は、緊急性もしくは必要性がある状況で行われたか、④違法行為の責任を個人に対する直接の制裁 を加えることができるか、⑤起訴されている犯罪の重大性。
67
1995
年)では、1984
年警察・刑事証拠法制定以降、同法にもとづいて証拠排除の可能性を 認める判例群が登場する。第三期(1996年~)では、1996年のベネット・ケース貴族院判 決および2001
年のルースリー・ケース貴族院判決により、手続の打切りが導かれることが 確立されていく。1 第一期‐実体的抗弁否定の時代
罠の捜査に関するリーディングケースであるサン・ケース貴族院判決の事実概要は、以下 の通りである302。偽造紙幣の売人として知られていた
X
は、刑務所からの出所前に、他の 受刑者(Xは、彼が警察の指示した情報提供者であると主張した)から、「外部に偽造紙幣 の売人Y
を知っており、YとX
と引き合わせたい」と持ちかけられた。Xは、出所後に、売人を装ったおとり捜査官
Y
と会い、偽造紙幣の提供を約束した。そして、後日、X はY
に偽造紙幣を受け渡したところ、通貨偽造および同行使の共謀罪で、逮捕・起訴された。本 件で、Xは情報提供者に犯罪を唆され、それがなければ犯罪を行わなかったのであるから、裁量により当該証拠を排除すべきであると主張した。第一審および控訴院では、証拠排除裁 量権の行使は認められなかったため、被告人は上訴した。
これに対し貴族院は、イギリス法において、罠にかかった被告人は非難に値し、罠の抗弁 を認めることができないという従来の判断を踏襲した303。そして、その根拠として、スカー マン卿は、「犯罪が、おとり捜査官と評価できる者による活動から生じた場合、それは量刑 上は重要な問題かもしれないが、有罪・無罪の判断には影響を及ぼさない。……たとえ、唆 した者が罪を犯し、より有責であったとしても、教唆(incitement)されたことというのは、
罪を犯した者にとって、法律上の抗弁にはなりえない。もし、警察官や公的機関の職員によ る教唆が、彼らによって犯罪を実行させられた者を無罪とし、その他の者による(より重大 な影響を与えるかもしれない)教唆が、彼らによって犯罪を実行させられた者を無罪としな いのであれば、法は混乱し不公正な差が生じる304」と述べた。
しかし、こうした貴族院の判示に対しては、厳しい批判が寄せられた305。すなわち、①刑 の減軽では、犯罪を実行するように唆された者にとって、十分な予防・保護手段とはならず、
②捜査機関は犯罪を創造するべきではないにもかかわらず創造した場合に、刑の減軽およ び証拠排除では不十分であり、手続の打切りを認めるべきというのである。このような学説 からの批判を受けるなか、1984年には警察・刑事証拠法が制定されたこともあり、罠捜査 に対する判例の展開が注目されるようになる。
2 第二期‐証拠排除の時代
1984
年警察・刑事証拠法の78
条1
項の施行は、裁判所に対して、裁判官の裁量による302 R. v. Sang [1980] AC 402.
303 R. v. Sang [1980] AC 402.
304 R. v. Sang [1980] AC 402, 451.
305 Andrew L.-T. Choo, Abuse of process and judicial stays of criminal proceedings (1993), ch. 6.
68
証拠排除の権限を付与し、あらゆる事情を総合的に判断し、手続の公正さを基準として、証 拠の許容性を判断できることが明示された306。
第78条〔不公正な証拠の排除〕
1項 いかなる手続においても、裁判所は、訴追側が立証の基礎として申請する証拠につき、その証拠が 獲得された状況を含むすべての事情を考慮して、その証拠を許容することが当該手続の公正さに有害な影 響を及ぼすためこれを許容するべきでないと認めるときは、その証拠を許容することを拒むことができる
307。
1970
年代のイギリスでは、「刑事手続における人権保障」と犯罪の増加に対応するための「警察による犯罪捜査の実効性確保」という相反する要請のバランスを取るために、捜査か ら公判までの刑事手続全体のあり方を見直す気運が高まっていた。これに加え、裁量的な証 拠排除権限の限定的な運用のあり方についても、批判的な指摘がなされていた。それらが一 つの要因となり、同規定が導入されたことによって、前述のサン・ケース貴族院判決では、
量刑段階で刑を減軽するための考慮要素に過ぎなかった罠捜査を、事実審理段階での証拠 排除の考慮要素とすることが可能になったのである。このように
1984
年警察・刑事証拠法 施行以降、罠捜査が行われた場合に、主要な救済策を証拠排除であると示す判例が続けて現 れることとなった。(1) スムースウェイト&ジル・ケース控訴院判決
1994
年のスムースウェイト&ジル・ケース控訴院判決は、X
とY
が、それぞれの配偶者 を殺すために、殺人契約を装ったおとり捜査官に依頼したとして、逮捕・起訴されたという ものである308。被告人は、警察・刑事証拠法78
条にもとづいて、証拠の排除を求めた。これに対して控訴院は、罠により獲得された証拠を排除する裁量権を裁判官は有しない としたサン・ケース貴族院判決を覆すものとして、
1984
年警察・刑事証拠法78
条を位置づ けた309。また、罠のケースでの同法78
条に規定される証拠排除裁量権の行使の際に考慮さ れるべき要素として、以下の6
点を示した310。①警察官はその関与がなければ行なわれな かったであろう犯罪を行うように被告人を誘惑したか。②罠の性質はどのようなものであ ったか。③証拠は完了した犯罪に関するものか。④証拠獲得に際して警察官は主に消極的で あったか、あるいは積極的であったか。⑤行なわれた事柄について信頼できる記録があるか。⑥警察官が規則に従ってなされるべき質問をするという役割を濫用したか。
306 I. H. Dennis, The Law of Evidence (3rd ed., 2007), p.101.
307 法務大臣官房司法法制調査部『イギリス警察・刑事証拠法 イギリス犯罪訴追法』(法務資料第477 号、1988)を参考に訳出した。
308 R. v. Smurthwaite and Gill [1994] 98 Cr. App.R. 437.
309 R. v. Smurthwaite and Gill [1994] 98 Cr. App.R. 437, 440
310 R. v. Smurthwaite and Gill [1994] 98 Cr. App.R. 437, 440.
69
(2) チョークリー&ジェフリーズ・ケース控訴院判決
次に、罠捜査に関する判決ではないが、
1984
年警察・刑事証拠法78
条に関して、上記ス ムースウェイト&ジル・ケース控訴院判決とは異なるアプローチを示したのが、1998年の チョークリー&ジェフリーズ・ケース控訴院判決である311。本件は、住居内に仕掛けられた 盗聴器により録音された証拠の証拠能力が争点とされた事案であったが、控訴院は、同法78
条の定める「証拠が得られた状況」という用語の意味内容について、証拠の獲得手法に対す る「非難の印(as a mark of disapproval)」として、裁判所に証拠排除の権限を与えたので はないと結論づけた312。さらに、オールド判事は、同法78
条がサン・ケース貴族院判決後 のコモンローの立場を維持する規定であるとの理解に立ち313、自白・自認・犯行後に被告人 から得られた証拠は別として、証拠獲得手法が証拠の質に影響を与えた場合でない限り、裁 判所に証拠排除する権限はないとの判決を下した。(3) シャノン・ケース控訴院判決
さらに、シャノン・ケース控訴院判決はメディアによる罠が争点とされた事案であるが、
罠によって獲得された証拠と証拠排除の関係についての一般論を展開しているため、ここ で取り上げる。事案の詳細は、後述の通りであるが、ポッター判事は、証拠を排除するか否 かの判断基準について、当該証拠を許容することで、手続の公正さに悪影響が及ぶかどうか にあると述べ、その具体例として、信用性を疑うに足りる相当な理由があったときを挙げ、
本件では手続の公正さを害していないと判断した314。この判示部分は、前述のチョークリー
&ジェフリーズ・ケース判決と同様に信用性にも着目したアプローチを採用している315。他 方で、ポッター判事はスムースウェイト&ジル・ケース控訴院判決を明示的に引用し、証拠 が獲得された状況を理由として、罠によって獲得された証拠を
78
条に基づいて排除する可 能性は承認できると結論づけた316。(4) テシェラ=デ=カストロ・ケース欧州人権裁判所判決
このように捜査手法に着目して証拠排除を行おうとする判例と証拠の信用性に着目して 証拠排除を行おうとする判例が登場するなかで、欧州人権裁判所において、罠捜査に関する 判決が下された317。1998年のテシェラ=デ=カストロ・ケース判決である318。ポルトガル において、2 名の私服警察官が違法薬物の取引に関与している疑いのある者
A
に、買い付 け人を装って声をかけヘロインの購入を持ちかけた。A はX
であれば、ヘロインを調達す311 R. v. Chalkley and Jeffries [1998] 1 QB 848.
312 R. v. Chalkley and Jeffries [1998] 1 QB 848, 874-875.
313 R. v. Chalkley and Jeffries [1998] 1 QB 848, 874-875.
314 R. v. Shannon [2001] 1 WLR 51, 68.
315 Dyer, op. cit. n.4, p.318.
316 R. v. Shannon [2001] 1 WLR 51, 68.
317 イギリスでは、1998年に人権法が制定されたことによって、欧州人権条約が国内法で適用可能となっ ている。
318 Teixeira de castro v. Portugal [1998] 23 EHRR 101.