(1)三の丸跡の発掘調査 ア 発掘調査の経緯
三の丸跡の発掘調査は、これまでのところ城跡内の施設設備の工事等の現状変更に伴い8回に渡り 実施されている(表 3‑6 参照)。
昭和 61 年(1986)3 月には、町道中央線の拡幅工事のために大手馬出の発掘調査を行った。昭和 62 年(1987)10 月〜11 月には、水洗便所の敷設のため三の丸土塁及び対面所跡、大手門跡、大手門土橋 の調査を行った。また、三の丸内の教育施設からの汚水が篠山城の内堀へ直接流入し、内堀の水質の 悪化がかねてより問題となっていたことを背景に、平成 4 年(1992)7 月〜8 月に篠山中学校及び篠山 給食センターの下水管埋設工事に伴う大手門枡形跡から西内堀西側道路に至る区間の調査を、平成 5 年(1993)6 月〜8 月に篠山小学校の下水管埋設工事に伴う三の丸の土塁跡及び三の丸屋敷跡に相当す る校舎敷地内の調査をそれぞれ行った。また、平成 9 年度には三の丸内堀北側、平成 14 年度には大 手枡形跡周辺の調査を行った。
表 3‑6 三の丸発掘調査の経過 年度 調査内容・面積 昭和 53 年度
(史跡篠山城跡 第 1 次調査)
大手馬出跡地
( 大 手 馬 出 西 側 部 分 2,000 ㎡)
昭和 61 年度 (史跡篠山城跡 第 7 次調査)
大手馬出跡地
(道路拡幅部分 14 ㎡)
昭和 62 年度 (史跡篠山城跡 第 10 次調査)
大手門跡周辺
(三の丸土塁及び対面 所跡、大手門跡、大手門 土橋 202 ㎡)
平成 4 年度 (史跡篠山城跡 第 17 次調査)
三の丸北西側
(大手門枡形跡から西 内堀西側道路に至る区 間 137 ㎡)
平成 5 年度 (史跡篠山城跡 第 18 次調査)
三の丸南東側
(三の丸の土塁跡〜篠 山小学校プール東側の 渡土堤、三の丸屋敷跡に 相 当 す る 校 舎 敷 地 内 1,200 ㎡)
平成 9 年度 (史跡篠山城跡 第 25 次調査)
三の丸西内堀北側
(三の丸区画石垣他等 56 ㎡)
平成 14 年度 (史跡篠山城跡 第 28 次調査)
大手枡形跡周辺
(大手枡形石垣基礎 71
㎡)
平成 17 年度 (史跡篠山城跡 第 33 次調査)
三の丸枡形跡周辺
(三の丸旧路面 60 ㎡)
図 3‑26 三の丸発掘調査箇所位置図
イ 大手馬出跡・大手門跡周辺の発掘調査
昭和 53 年度の調査では、大手馬出西側部分の範 囲確認が行われ、規模と範囲などを確認した。昭和 61 年度の調査では、残存する大手馬出土塁の構造 と大手馬出堀の幅が明らかになった。土塁は大手馬 出東門の東側袖石垣遺構の一部で、復元すると一辺 7.5m程度の方形に石垣が積まれていたと考えられ る。また、土塁の東側はすぐに幅約 15mの堀とな る状況が確認され、遺物は出土しなかった。
昭和 62 年度の調査では、調査の結果、便所建設 予定地についてはかなり削平されており、遺構は確 認できなかった。下水管埋設予定地については、大 手門跡付近から礎石、排水溝、三の丸仕切石垣の痕 跡を確認し、三の丸大手門枡形付近の状況を復元す る基礎資料を得ることができた。大手土橋について は、地山面の検出状況から築城時に削り残したもの であることが判明した。この調査結果をもとに、下 水管埋設工事は当初の計画を変更し、大手門跡の北 側のところから便所への引込管の掘削を行い、工事 を実施した。
ウ 三の丸北西側の発掘調査
調査箇所は大手門枡形跡から西内堀西側道路に 至る区間で、現況は町道としてアスファルト舗装が なされており、古絵図によると江戸時代も城内の道 路敷となっていたと考えられる。平成 4 年度の調査 では、トレンチ10のほぼ全域で道路敷の遺構が検出 されたほか、大手枡形の石垣跡、大手枡形南側の武 者溜りの空間に敷設された道路敷の路肩の石積が 発見され、また南側では三の丸家老屋敷の排水に伴 う石組みの溝などの遺構が検出された。路面は厚さ 5cm ほどの細石を含んだ土を平らに叩き締めたも ので、路面上の堆積土がほとんど認められなかった ことから、江戸時代を通じて路面の清掃等がよく行 われていたことが推定される。
エ 三の丸南東側の発掘調査
平成 5 年度の調査の結果、東外堀と南外堀との間 の渡土堤の区間は、堀を埋めた盛土層が検出され、
10 細長い発掘溝のこと。考古学調査において、その部分の発掘から遺跡全体の状況を探る。
写真 3‑32 平成 4 年度調査 路肩石積(武者溜り付近)
写真 3‑31 昭和 62 年度調査 大手土橋トレンチ全景
写真 3‑33 平成 5 年度調査 渡土堤土層断面 写真 3‑30 昭和 61 年度調査 大手馬出土塁土層断面
廃城後に造られたものであることが改めて確認さ れた。また当初は堤幅2〜3mだった堤が昭和中頃 に6mに拡幅されたことが確認された。
プール南側通路部分は、廃城後に埋め立てられた ことが確認され、三の丸南法面はプールと南側通路 の間の斜面がもとの形に近い状況で残っていると 考えられるようになった。小学校グラウンド東側の 三の丸土塁跡の調査では、築城による三の丸造成時 の盛土整地層が確認され、建物跡等の遺構は認めら れなかった。
校舎第5館北側に沿った中庭の部分では、三の丸
土塁の裾部分が検出され、土塁幅が約 13mであることが明らかとなった。江戸時代後期に屋敷が所在 した遺構面は廃城後全面的に削平を受けていたが、現地表面より約1mの深さのところで三の丸造成 時の整地地盤が検出され、この地盤の上で江戸時代前期の遺構面が一部残っていることが確認された。
またこの付近より、江戸前期のカマド跡遺構の一部と江戸前期の陶磁器片や銅製品、貝殻、骨などが 多数発見された。
校舎西側廊下部分は、三の丸屋敷と西内堀との間に設けられた城内の通路の跡に相当している。調 査の結果、江戸時代の路面が全域で検出され、その範囲が現状の小学校西側通路の範囲とほぼ一致し ていることも明らかになった。
三の丸跡は、西側が篠山中学校、東側が小学校、南側と北側はグラウンド及び広場として利用され ていたことから、三の丸土塁の大半が削平されるなど、かつての城内の施設はほとんど残っていない。
しかし地下遺構としては、土塁や通路などの区画跡がよく残されていることが明らかになったと言え る。
(2)二の丸御殿跡の発掘調査 ア 発掘調査の経緯
昭和 56 年(1981)、篠山城整備のさらなる展開を目指し、二の丸の建築遺構を検出して篠山城の面 的な整備利用計画を立案する基礎資料を得るため、大書院跡の発掘調査を行った。
この過程で、改めて二の丸全体の発掘調査を実施 することとし、昭和 57 年(1982)から昭和 59 年 (1984)までの間に、青山神社社務所敷地を除く主要 部分の発掘調査を順次実施した。調査地については いずれも真砂土で埋め戻し遺構の保存を図った。そ の後二の丸はしばらく更地のままとなったが、昭和 63 年(1988)の「北摂丹波の祭典」の折に大書院跡 の平面表示を行った。
平成 6 年度には、大書院を復元するための基礎調査として、柱間の寸法及び礎石の状況や位置、抜 き取り跡を再確認することと、大書院の建築年代を検討することを主な目標として再発掘調査を実施 した。
表 3‑7 二の丸御殿跡発掘調査の経過
年度 調査内容・面積
昭和 56 年度 大書院跡(1,625 ㎡)
昭和 57 年度 小書院跡、台所跡など(1,200 ㎡)
昭和 58 年度 玄関棟跡・奥御殿跡(1,800 ㎡)
昭和 59 年度 二の丸南側の塀跡、奥御殿・庭園跡 の一部(1,200 ㎡)
平成 6 年度 大書院跡(再調査)
平成 10 年度 二の丸登口
平成 11 年度 御殿庭園跡(青山神社社務所跡)
写真 3‑34 平成 5 年度調査 出土遺物
イ 御殿跡の発掘調査
昭和 56 年(1981)から実施した二の丸の発掘調査の結果、大書院跡以外の遺構面はかなり削平され ており、礎石等はほとんど残っていなかったが、部分的に塀跡やかまど跡のように現在伝わる間取古 図と一致する遺構も発見され、間取古図の記載を裏付ける結果が得られた。その一方で、間取古図の 記載と一致しない古い時期の遺構も多く確認され、築城後において大書院を除くほとんどの建物が改 築されたのではないかと考えられる所見を得ている。
大書院跡は、全体的に礎石の残り具合が悪かったものの、残存する礎石と検出された礎石の抜き取 り跡が間取古図に見える平面と一致することが確認され、周囲を巡る雨落溝も検出された。大書院南 の御殿跡は、間取古図にみられない江戸時代前期の雨落溝や塀の跡が検出され、築城から近い時期に 立て直されたことが明らかになるなどの成果が得られた。また、台所跡からは、かまど跡やその痕跡 と考えられる焼土が検出され、御殿内で使用された陶磁器類などが多数出土している。文久 2 年(1862)
に新築されたと考えられる御居間跡からは、岩盤を掘り込んだ便所跡も確認されている。これらの調 査からは、大書院が公的な式典等に使用された建物であるのに対し、御殿部分は藩主が日常生活を送 っていたことを裏付ける遺構、遺物が発見される貴重な成果が得られた。
図 3‑27 間取古図と遺構合成図
(出典:「国指定史跡篠山城跡大書院復元工事竣工記念誌 二○世紀から二一世紀へのおくりもの」篠山市)
ウ 二の丸登口の発掘調査
大書院復元建築工事に伴う消防設備の防火水槽埋設、ポ ンプ室の建設、下水管の埋設工事のため、二の丸登口の調 査を平成 10 年(1998)1 月から 2 月にかけて実施した。
その結果、歩道の敷石や鉄門跡の範囲を示す敷石、階段 跡などが発見され、江戸時代の二の丸登口の構造を復元す る資料が得られた。鉄門跡については、門跡は廃城後に約 1.5m埋められていたが、埋土を取り除いたところで、門跡 の敷石と階段跡などの遺構が発見された。これによって、
鉄門は櫓門の形式で、幅約 5m、奥行約 4.5mの広さがあり、
東側の石垣の高さ約 4m、西側の石垣の高さ 4.5mとの間に 造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい厳重 な造りになっていた様子が復元できるようになった。
エ 庭園
二の丸御殿間取図や二の丸庭園絵図等 により、二の丸南東隅に庭園が存在したと 考えられていたため、昭和 59 年度と平成 11 年度に発掘調査を実施した。
その結果、築山の一部と築城時頃の塀跡 が絵図の記載どおりに確認された。さらに 現在残っている埋門跡、本丸登口の位置も 正確に絵図に記載されていることから、築 城時頃の様子を表した信頼性の高い絵図 と考えられるようになった。しかしながら 遺構面の一部は廃藩後に広範囲にわたっ て削平されており、池跡等の痕跡を確認す ることができなかった。
写真 3‑35 二の丸登口 鉄門跡全景
(出典:「史跡篠山城跡 二の丸登り口他発掘 調査概要報告書」篠山町教育委員会)
図 3‑29 二の丸庭園遺構
(出典:「史跡篠山城跡 二の丸庭園跡発掘調査概要報告書」
篠山市教育委員会)
図 3‑28 二の丸庭園絵図写し
(出典:中山正二「篠山城史」)