第一節 戦国大名としての古田織部
日本の陶芸史に新たな息吹を与え、更に今日までその意匠の作品 が焼き続けられている古田織部正重然とはどのような人物であるの か、まずはここにその出生から死去までの武人としての生面を明ら かにしてみたい。
古田織部正重然の一生は謎に包まれている。その最大の原因は、
慶長二十(1615)年六月十一日、徳川家康の命により切腹、家名断絶 を申し渡され、この世から古田家に関する殆どの資料を抹消させら れてしまったことにある。唯、古田織部正の嫡子以下五男までが全 て織部正と運命を共にした中で、娘センが豊後(九州・大分)に嫁 いでいた関係で、唯一、豊後古田家が血縁として現存する。
その豊後古田家の家譜によると、代々古田家は、美濃に住居し、
織部正の祖父古田総兵衛は初め東美濃の守護大名土岐台岳に仕え、
土岐頼芸が同じ美濃の守護大名、斎藤道三に追われたあとはその斎 藤道三に仕え、のちには織田信長に仕えたとある。
古田総兵衛には三人の息子、可兵衛重安、主膳主重定、与兵衛重 俊があった。織部正はこの三人の中の次男、重定の長男である。
織部正の叔父に当る古田可兵衛重安はその父古田総兵衛より家督 を継ぎ、そしてまた織田信長に仕えた。その後、信長からの命で、
将軍足利義昭の付き人としての任と、山城国西の岡万吉領を与えら れた。その可兵衛重安は豪放な人物であったらしく、その後将軍足 利義昭に直言して、付き人としての位を追われ、一時細川藤孝(幽
斎・細川忠興の父)に身を寄せた。幽斎からはその剛直な性格を愛 され、後には信長の許に戻って大小の合戦に働いた。
次男、即ち織部正の父、重定は、美濃土岐氏の支流桑原氏を継い で桑原姓を名乗ったが、同家に実子桑原次右衛門が生まれたので喜 び古田姓に復帰した。重定は武野紹鴎に茶を学び、その号を勘阿弥 と称し出家したが、天正十三(1587)年豊臣秀吉のすすめで還俗し従 五位下主膳正重定と名乗って三千石を領した。慶長三(1598)年八月 十三日秀吉が死去するとあとを追って十九日殉死した。
織部正は、父重定がまだ桑原家にある頃の天文十三年申(1544)年 に生まれた。名を七二といった。ところが古田家の本家である重安
(織部正の叔父)にもその頃、子がいなかったので、少年景安は重 安の養子として古田本家を継ぐことになり、姓も桑原から古田に戻っ
ていた。
古田織部正重然は多くの名をもっている。重三(「藩翰譜」 「系 図纂要」)、重就(「徳川実紀」)、重照(「武徳安民記」)、重 薫(「古老茶話」)、重幸(「壺中炉談」)などであるが、幼名は 景安、長じては左介を多く用いた。更に岐阜県関市の二二寺過去帳 には、織部重昌と記載されている。又、更に、二二、宗屋と号し、
道号を二二といった。玄庵宗古(「宗友記」)、三友軒(「倣旧記」
)、宗陰(「正保覚書」)などとも名乗ったようであるが、天正十 二(1586)年四十二歳の時、豊臣秀吉より二五二二織部正重然に任ぜ
られてからは、もっぱら織部二二、古織などの名を用いている。
少年時代の織部正は恵まれた境遇に育てられたらしい。織部正の 実父主膳正重定は豊臣秀吉に殉死した人であるが、勘阿弥と号し三
くから千利休らとともに紹鴎の門に茶を学んだくらいであるから、
進歩的な人で、一塊の武辺者ではなかった。また養父(叔父・実父 重定の兄)大膳亮重安は剛直謹厳の人として知られ、将軍足利義昭 の非を、身を以て直言し、却って、i義昭に厭とまれ逐われたほどめ 人物である。景安はこの二人の父に育まれ、さらに、戦国武将中第 一の文人細川幽斎(兵部大輔・藤孝・島影)に薫陶をうけ、歌道は 西三条26)に、連歌は紹巴27)に学んだという。ことに細川幽斎は歌 人としても世に知られ、政治上の才能も豊かであり、また遊泳術の 達人でもあったといわれ、織部正が幽斎からうけた感化は計り知れ ないほど大きなものがあったと考えられる。
永禄四(1561)年、古田織部正は十七歳で織田信長に召しかかえら れ仕える身となった。この時より織部正の一生は、信長によって決 定づけられたといって過言ではない。信長は織部正の当時の呼称で あった古田左回という名前を縮めて右左、古左と呼んで可愛がつた。
永禄四年というのは丁度、織田信長が美濃を攻略した頃である。
左介が織田信長に旗本使番として仕えるようになってから七年後、
即ち永禄十一(1568)年、信長は摂津平定の戦に出陣した。この時二 十五歳の八介は依然、旗本使番として、舌長出陣に従って初陣した。
永禄元年、晶晶より一足先に信長に仕えていた木下藤吉郎は、台 風で倒壊した清洲城の城郭修理や伊勢派兵の際の塁砦作事、或いは 美濃攻めに際しての墨俣築塁などで、異能を発揮し、めざましい出 世をとげ、摂津出陣の折には数こそ謹かながら兵を預かる織田軍部 将の一人となっていた。
姓を松平から徳川と改めた徳川家康からの援軍と織田信長自身の
軍とを合わせ六万の大軍団を編成したこの左回初陣の摂津退治は、
三二三二を落としたのを始めとして摂津池田城、高槻、茨木の二三 を陥落し、わずか一か月で完了した。そして翌年の永禄十二(1569)
年、信長は中国攻征の政略上から摂津・三河・和泉三国の諸家と縁 組みするよう幕下の者たちに推めた。二二は信長の肝入りで摂津国 茨木の城主中川瀬兵衛清秀の妹仙子と結婚した。三二二十六歳のこ
とである。 (「:豊後岡三中川家譜」)
ここに古田・中川両家は堅く縁結びが調い、・後に左回が不運の最 後をとげ家名断絶となった後も、豊後古田家として、後世に残るき ずなとなったのである。 (左介の娘センは、中川方の養女になって
いる。)
左記が結婚した翌年、元亀元(1570)年には、浅井長政と六角二三 との協力を得た朝倉三景の越前軍と信長軍との間に姉川の合戦があ り、そのあと、阿波から攻めてきた三好三人衆(三好長逸・政康・
岩成友通)の掃討作戦が摂津を中心に展開された。次の年、元亀二
{1571)年、信長は三好三人衆及び浅井長政と共同戦線を張った石山 本願寺門徒の討伐や、やはり浅井・朝倉と結びついた叡山(延暦寺)
の焼き討ちを行なった。元亀三(1572)年も浅井・朝倉連合軍との戦 闘は続き、一方では西進してきた甲斐武田軍の防戦にも追われてい
た。
更に、天正元(1575)年、かねてから確執のあった将軍足利義昭が 信長討伐の態度を明かにしたことで、京都、近畿を舞台に戦闘が繰
り広げられた。七月には決着をつけ、降伏した足利義昭を洛外に追 放、室町幕府の幕引きを行なった。このあと、八月には、膠着状態
の続いてきた浅井・朝倉連合軍との戦闘に決着をつけるために近江
攻めが行なわれ、朝倉義景を山田荘賢松寺に追い詰め自匁させ、小 谷城に籠もった浅井長政を攻め落とした。
反織田勢力は諸国にまだ残ってはいるが、天正元年の春には、信 長の中央制覇を大きく脅かす存在となっていた甲斐の武田信玄が没 したこともあって、京都、近畿を完全に支配下に治めた信長の勢力 基盤はほぼゆらぎないものとなった。
この頃、左記は難しい折衡役の旗本使番として忙しい毎日であっ たが、例の木下藤吉郎は浅井・朝倉連合軍討伐で最も戦乱があった として浅井旧領の一部十八万石と小谷城を与えられ、名前も羽柴筑 前守秀吉と改め、越前を睨む最前線の軍団の指揮者となっていた。
元亀元(1570)年四月二日より千利休は織田信長の茶頭として仕え た。利休はまだこの頃秀吉を筑州、筑州と呼び捨てにしており、一 方秀吉は利休を宗易公と呼んでいた。この関係は信長が京都・本能 寺で明智光秀によって滅ぼされる天正十(1582)年六月二日まで続く。
左介は利休が信長の茶頭を勤めていた天正九年前後にその門下に入・
り、熱心な稽古振りで利休から可愛がられた。 (「富田文書」八月 二十七日付妙喜庵宛利休自筆書状、織部正自筆「利休会記」)
そして、その頃、左介は信長から摂津国東倉垣内西山郷に三千石 の領地を与えられた。 (「東寺百合文書」 「山城国上久世庄御年貢 米御算用状」)更に天正元年、左証三十歳の時、山城国乱の岡城主 で養父である古田重安の所領(西の岡万吉領)を継承した。
茨木洞々主中川清秀は古田島介の妻の兄、即ち義兄であったが、
天正六(1538)年十一月、摂津の伊丹城聖主荒木村重が信長に叛旗を ひるがえした時、荒木方に味方しようとした。その時左介は信長の 命により義兄中川清秀を説得し、成功した。信長は大変喜び「摂津