同上
同 同 同同上
目次︑同上巻末︑十月日同上
同 同
上
弘安元年︵九︶月
紀年欠
上 上 上 上
|鶴診晒雑鐸欠同
目次︑弘安元年九月廿日巻末︑弘安元年九月日
1 |
口 口
1
1
縮冊︾一同
同
同上
同
同 同 同 同
同上
1 1
口
上 上 上 上 上 上
同大 同 同
本
上 上
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|
同上
11
LJ巻末︑建治
三年
同上
同 大本二 同上 同上 同上 同
上
〆
口
同 同
上 上
I
口
111
llIlI同上
五五 同 全集本一一 紀年欠 巻末同上
同上
同 縮冊二同上 同上
同
上
口
五○五一十
五八三﹂九六五
I
口
I
一︑四五一
一︑五一一
一︑七九四 一︑六五九 一︑三七○一︑七二四
七○一 六九七
前記によって︑巻首叉は巻末に御執筆の年次のあるものは︑當世念佛者無間地獄事︑題目抄︑義淨房書︑報恩抄︑華果 成就書︑及び善無畏抄の六書である︒その中善無畏抄には︑﹁月日﹂はないが年號だけはあるから︑大禮御執筆の頃 が推せられる︒その他の御書は︑年號の記載はなく︑軍に月日だけのものもある︒叉本尊問答抄は︑縮柵では巻末に 紀年を欠くが︑其目次には紀年を記してるのである︒こ奴は全集本によれば︑源師本には紀年もないが︑補本として
對照した朝師本に﹁弘安元年九月日﹂とあるから加へたといふ︒それで問答抄の著作年次は明になるが︑他の本に
﹁九月二十日﹂とするは︑何によったか︒類纂は大略大本遺文に依る様であるから︑結極大本遺文が何によって﹁二十
日﹂としたかである︒こふして來ると︑佐渡御勘氣抄︑清澄寺大衆書︑報恩抄逢狄︑聖密房書の四書だけが︑他に依 って御執筆年次を定めなければならない︒報恩抄送状が︑報恩抄との關係上︑建治二年の作で︑同書末の七月二十六 日の記によって︑之を建治二年七月二十六日とするに異存はないと恩ふ︒次に佐渡御勘氣抄は其の首めに﹁九月十二 日に御勘氣を蒙て︑今年十月十日佐渡の國へまかり候也﹂の記によって︑文永八年とするに差支はない︒次に清澄寺 大衆中書であるが︑古人︵癖︶には佐渡からの書とした人もあるが︑文中に﹁如是眞言師蜂起之故申之﹂といひ︑﹁今 年は殊に佛法の邪正たださるべき年欺﹂︵↑﹄︶とあるは︑報恩抄逢壯の﹁内糞人の申候しは︑宗論やあらずんと申せ しゆへに﹂と同一事であらふ︒果して然りとすれば︑大衆中書は︑矢張建治二年正月十一日の害となすべきである︒
経りに聖密房書であるが︑縮冊︑全集︑普及の三本共に︑其害末に年紀がないのに︑大本及類纂本だけに建治三年と ある︒是は古の本にそふしたものがあったので︑大本はそれを依用したのであらう︒然して他の書が︑其目次に︑建 治三年とするは大本に從ひ︑十二月とするも︑或は大本により︑或は他に見る所あって削除したのであらう︒而して 此の譜に就ては︑その所記の内容から年次を思考すべきものを發見せぬ︒
優陀那趣師の淨顯義淨評に就て
五六
一
以上一往御眞蹟の有無︑並に御執筆年次を楡したのだが︑御執筆年次は︑前記の各本皆同一てあって︑其間著しき 相異を發見せぬ︒然しそれは此等の諸御書の所示の教義︑其他に關する内容的検討を加へてのものではなく︑唯一往 諸先輩の編年示を槻たまでのものである︒
前記十一邇の書︑今日猶御眞蹟の一部なりとも存する︑法華題目抄︑報恩抄の二抄は︑何等疑問を挿むべきものが ないと思ふ︒本尊問答抄は御眞筆を止めぬとはいへ︑前記の事から見て︑叉疑ふ餘地のないものと恩ふ︒報恩抄逢欣 は
︑ 報 恩 抄 に 示 し 給 ふ
︵ 年 確
︶ 様 に
︑ 聖 租 自 ら 道 善 房 の 死 去 を 弔 給 ふ ぺ く 出 發 し 給 は ぬ と す れ ば
︑ 當 然 使 者 を 遜 し 給 ふぺく︑其使者に托し給ふべき文書が有るべき事でもあるから︑彼の逢炊は︑そのものとして見ても當然の文書であ り︑叉彼の書中別に疑を入る鴬餘地のないものと思ふ︒而も報恩抄の意とよく合するものでもある︒であるから︑私 は彼の逢状は︑或は文字に少しの増減は︵罐鐸饒塞謝審靹︶あるかも計り難く︐文字の読み方に相異等はあらうが︵釧
雛辮恥唾や媚職緑訓燕甑些錘蕊り︑︶矢張御眞筆と思ふのである︒次に當世露佛者無間地獄事も御眞筆と恩ふ︒︵獅畔網
︑鍛華︾蝶︶更に善無量一藏抄であるが︑本響と類似の名溌を有する﹁善雌蔓抄﹂︵鋒鋸郷痙細錘辨極岼め癖碓麺峰認地飢
噸 職 ぁ
︶ と は 別 で あ る
︒ 本 抄 は 御 眞 蹟 を 博 へ い が
︑ 私 は 内 容 等 か ら
︑ 別 に 疑 を 懐 き 得 ぬ か ら
︐ 矢 張 御 眞 筆 と 恩 ふ
︒ さ れば︑當世念佛者無間地獄事︑法華題目抄︑善無長三蔵抄︑報恩抄︑同送状︑本尊問答抄の六書に就ては聖姐の御眞 蹟なりと信ずるのである︒然し他の五書には幾分の老ふくきものがある︒
第 一 佐 渡 御 勘 氣 抄
︵ 麹 珪 餉 一 一
︶ で あ る
︒ 本 抄 の 初 め に
﹁ 九 月 士 百 に 御 勘 氣 を 蒙 て
︑ 今 年 十 月 十 日 佐 渡 國 へ ま か り
優陀那輝師の淨顯義淨評に就て五七
四︑前記御書に對する私見
候也﹂とあるが︑此は佐渡着ではなく︲佐渡への出發でなければならぬ︒といふのは︑寺泊御害︵礒九︶には﹁今月
︵十月也︶十日起二相州愛京郡依智郷一﹂とある︒これによ虹ば御勘氣抄の文は︑五人士籠御書の﹁今月七日さどの國へ
まかるなり﹂とある如く︑﹁今年十月十日佐渡國へ行く﹂の意でなければならぬ︒從って本書は︑佐後のものではな く︑御出發當時のものでなければならぬ︒次に本書中に﹁日蓮は日本國東夷東條安房國海逢の栴陀雑が子也﹂とある︒
聖祗が故郷房州方面へ賜った御文書には︑よく︑この様な文字が記されてる︒例せば善無畏三藏抄には﹁日蓮は安房
國東條郷清澄山の住人也一︵酷四︶とか︑﹁日蓮は安房國東條片海の石中の賎民が子也﹂︵酷四︶とある如く︑叉新尼
御前御返事に﹁日蓮は一閻浮提の内日本國安房國東條郷に始て此正法を弘通し始たり﹂︵歩釦︶とある︒其所で善無
畏抄及新尼抄共にいかにも自然の書き方であるが︑御勘氣抄の文はそれに比して少しく奇に渉る様である︒然し だからといって此れが後人の筆だと速断は出來ないoI其所で私は本書は寺泊御書の前に移すべきでないかと思ふの と︑故郷の記述が叔他の抄にあるのに比して︑少しく奇異の感じがする︑といふだけを述べるのである︒だが︑此れ
を以て億作よばはりをす愚ものではない︒
笙一に義淨房書︵率独︵極︶である︑淨顯義淨の二人は︑報恩抄︑︵守垂︶本尊問答抄︵J部︶によるも︑善無長三 蔵抄の宛名からするも︑殆ど異艘同心の如く観られてゐる︒然して︑淨顯房へは単猫に賜った書を博へねが︑義淨の みに本書がある︒是は現存文書を中心とするからで︑不傳書︑紛失害中に︑或は淨頴単猫の賜譜があったかも知れぬ︒
故に義淨軍凋の書だからといって︑此を疑ふことは出來ねが︑一往思考さるべき黙はある︒次に所示の教義であるが︑
彼の書は︑大綴天台大師所弘の法は︑十界互具百界干如一念三千の法で︑それは摩訶止観所明の法である︑といふこ と麓︑日蓮所弘の法は︑講堂品の事の一念三千の三大秘法であるといふにある︒即ち天台所弘の法と︑聖租所弘の法
優陀那輝師の淨顯義淨評に就て
五八
とを要示されたものである︒而も其の三大秘法は壽量品の.心欲見佛不自惜身命﹂の文によるものである︒而して 此文の﹁心﹂とは天台の解騨によれば.月三星心果清淨﹂の義であり︑日蓮に於ては.心欲見佛﹂の五字は︑そ のま蟄﹁妙法蓮華經﹂の五字である︒故に經丈は﹁此五字を弘通せんには不自惜身命﹂たるべしといふのである︒然 して此の五字即ち一心欲見佛とは︑吾等がそのま塗無作三身の佛だといふことである︒此の義を得るは﹁天台傳教に も越へ龍樹迦葉にも勝れ﹂るのであるとある︒本書に於て第一に注意すべきは︐其教義が我が國中古天台の思想を取 入れてることである︒次に︑聖租の弘め給ふ法を示す文中に﹁其故は壽量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事
此経文︵牛細硫埋鍛奔謂惜︶なり可秘堂糞﹂とあるo此所に﹁事の・一念三千の三大秘法﹂といふ語がある︒瓶文中﹁三
大 秘 法
﹂ の 成 語 の あ る は 今 の 文 の 外 に は
︑ 二 天 秘 法 抄
︵ 垂 幻
︶ の 文 中 に 二 ヶ 所 あ る の み の 様 で あ る
︒ 古 來 の 所 説 に よ
れば︑三秘開頴は佐後である︒今御眞蹟所存の御響を拝するに︑本尊と題目とは本韓抄に明し給ふ所であるが︑戒
漣の事は法華取要抄︵畔聿︶にその名を示すも未だ之を説き給ふてはゐない︒現存遼丈中︑本尊と題目とに就ては︑
此を説き給ふ事頗る多いが︑戒壇のことは誠に少い︒本尊抄に戒檀の事なきは明で︐報恩抄にすら其名あって其説が な い
︑
︵ 牙 極
︶ 唯 だ 之 あ る は 二 天 秘 法 抄 の み で あ る
︒ 然 し 彼 の 抄 に は 眞 侭 の 論 あ る 世 人 の よ く 知 る 所 で あ る
︒ こ の 様
に三大秘法は聖瓶の教義の最重要事であって聖姐の御文書にも此を要硯し給あてるのである︒從って古來から彼の
本尊抄逢欣に示し給ふ所の如く︑叉報恩抄逢炊にある如く︑何れも至深の注意を促し給ふたとなす所のものである︒さ て今此の書に﹁三大秘法﹂とあるに就て考へて見やう︒三大秘法といふことは︑聖覗門下の後の者は︑一様にそれは本 尊︑題目︑戒檀の三であることを承知してゐる︒然し御在世の當時の者は明かではない︒聖祗から何らかの方法によ って︑教示を仰がぬば解らぬことである︒然るに今﹁事の一念三千の三大秘法﹂とのみあって︑それがいかなるもの
優陀那輝師の淨瓢義淨搬に就て
五九