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》hv。 とこ ろで 先 に予 告し てお いた よう に、 最後 に、 当時 の十 二座 のメ ンバ ー が誰 々で あ った かを まと めな くて はな らな い。 前稿 では 不十分な

聴取資料 から

、伊藤民部

(現 当主 は晋 )、伊藤吉兵衛、

伊藤斉兵衛

(音士口 )、川端彦 兵衛 (彦 三郎 )、藤野茂衛門、

勝田 善蔵 (善蔵 )、勝見

善助 (武次)

の七

をあ げ、

他 の五 家は 不詳 とし てお いた のだ が、 その 後に 本稿 でこ れま でみ た諸資 料か らす ると

、若 干の 訂正が 必要 であ る。 右の 七家 のう ちで

、伊藤 民部 は古 くか らの 神職家

(民部 は!|j鎌倉

初期 に伊豆伊

東か らこ の地 に移

神社を建立

した

社伝

にあ る

ーーl

初代

の伊

藤民部 守祐治 の直 系を 示す

官座の社会人

類学的調査

E

家号) で、 当時 の家長た

る宮 司は 伊藤友長だ

から

、訂 正し なく てよ い。

藤吉兵衛

は民 部家 の古 い分家 で座 員で あ

った

こと は口 承で は確 実で

、且、 前稿 で示 した 明治十四年

の宮 座記録

(前稿 の写 真A 日参 照) にそ の名 がみ える から 訂正 しな くて よい が、 今 は絶家

。伊藤斉兵衛

(音吉)

も民部 の分 家だ が、 口承 での 確実さ

は、 吉兵衛

より

も少 いの で、 保留 した 方が よか ろ ぅ。

これ よりも、

前掲 の二

「裁決書」

にそ の名 がみ える 伊藤 治 左 衛 門

〔賢治)

は、 座員た るこ とが 疑う余地

がな いか ら、 入れ なく ては なら ぬ。 川端彦兵衛

(彦三 郎) は、 裁判 資料 には 名は 出て いな いが

、 口承 では座員 たる こと が確 実と され てお り、 且、 前述 の前 稿で の明治十四年

の宮座記録 (前稿 の写 真A 日参 照) にそ の名 がみ える から

、訂 正ぜ ずと もよ い。 藤野 茂衛門

は、

座員で

った と いう 口承 があ るが

、す でに 絶家 して いる ので

応、

保留し た方が よか ろう

。こ れよ りも、

藤野松 兵衛と藤野市郎

エ円 (昭 一二) が前 掲の 二審

「裁決書」

にそ の名 がみ える ので

、入 れた 方が よか ろう が、 前者 は今 は絶 家で ある

。勝 田善蔵

(善蔵)

も 口承 では 座員だ

った とい うが

、 一応

、保留 した方が

よか ろう l!な お、 事件当時

は善 蔵 でな く善之 車で あり

、現当主

も善蔵 でな く英成と訂正。

勝見 善助 (武次)

は、 本裁判 の主 役た る勝見八左

ヱ門 の家 (前 稿 の善 助は 誤り で、 八左 ヱ門 と訂正) ある

。そ して 前述 のよ うに (在 3参 照)、こ れと 同 一家系と

見な され る勝 見 八郎右

ヱ門 (正俊) も座 員 に入 れて 然る べきだ ろうが

一応

、保 留し てお こう

。そ うす ると

、前稿 で掲 げた 座員名以外

で本 稿で の裁 判資 料に 出て く るも のと して

、更 に福 島源左

ヱ門 (卯之助)

を加 えな くて はな らな い。 以上 を整 理す ると

、左 の如く であ る (明治 六年 の戸 籍簿 参照 )。

①伊藤

②伊藤

③伊藤④

) 1 1 端

⑤藤野

⑥藤野

⑦勝

⑨伊藤 ⑧福島

⑪勝 ⑩藤野

⑮勝見

(氏

ノ 、

(生業

・家号)

(明治 十五 年の 年齢)

(現当

主)

友長 士日丘(

治左 ヱ門 彦兵

松兵

市郎右衛門 八左 ヱ門 源左 ヱ門 以下 斉兵 は保留

茂 ヱ門 八 善之亙

郎右 ヱ門

神職及 び農

・民

日歳

晋 農漁

・士口兵

60

絶 家 農

39

、正当1 口

・彦 兵 ヱ

41

彦 郎 農

絶 家

?

・市 右衛門

47

昭 漁農

47 農

・源

39

卯之助 jÊt

農 (明治 十 一年 死亡

・座 休? )

三主

士日 漁

56

絶家) 旅龍

・善

41

英 成 農

正 俊 これ らの 他に

、前掲

の前 稿に おけ る明 治十四年

の宮座記

録に その 名が 散

64

る。 また、

座員で

った らし いと の口 承が ある も の と し

て、

左記が

見し

⑬木原

⑪木原

⑮勝

喜 郎 喜平治 崩右 ヱ門

58

浩太郎

性"

Eミ

62

・舟 大工

39

回日

次 かく て、

@ま でを 確認 でき たと して よか ろう が、

⑨JO

まで のう ちで

、 また

⑤ は 若干が 座員だ

った のだ ろう||但

し、

⑤は 戸籍 簿で 確認 できや す、

明治十

一年 死亡 なの で、 座筋 の家 であ った とし ても

、事件当時

は座休と考

えら れ、

この 両者が 座員 であ った確 率は やや 低い

。も っと も十 二座 とは 云 つで も、

必ず しも 十二 名 (十 二戸 )を厳守

した とは 限ら とぬ も思 われ るか ら、

これ らの すべ て、 さら にこ れら 以外 でも

、こ うし た株家 筋 のも ので

(日)

員た るも のが あ った かも しれ ない

。 なお

、こ れら 一五 戸の 生業 は右記 でも 判る よう に、 明治 六年 の戸 籍 によ ると

、殆 んど が農 業で

、神職

(宮司)

たる

①も生業と

して は農

、そ して 漁 業 (紗網)

を兼ね るも のが②と⑦

(⑦ は漁が 主)、

漁専業が

⑩、

舟大 工を 兼ね るの が⑮

、旅龍専業が

⑪と

って いる

。因 にみ 戸数 二O 七の 北小松

生業別 は、 専農

一一

五、

兼農 一O、

専漁 二ニ

、 石工 一五

、 鋳工 一、 舟運 六、 旅龍六、

舟大 工四

、酒 造 一、 木挽

一、

桶商

一、 僧と 教員六、

雑 二八 で ある

。そ して

、上 記の 家に つい て当時 の田 地山 林所有 をひ とわ

たり

調べ

みる と、 少く て田 五J 六反

最高が

二町 七反 (③)

、多い

と ころ で 一町 ーコ 一反と いっ た程 度、

山林 は半 数が 所有 しな いが

一四

1五 町 (②と

⑧)

から 二J 一二町 とい った 具合 であ る|l 戸別 の数 字は 省略。

これ は当時 の北 小松 の経済階層

とし ては

、中 から 上だ が、 まず大 部分が 中層と みて よか ろ ぅ。

北小松自体が

経済的な格差が

少く、

傑出 した 上層 や貧 しい 下層が 殆 ん どな いよ うだ から

、十 二座 の家 々に 経済的 に裏 打ち され た特 権は 別に ない わけ だ。 株座 であ って も、

一般 に、 宮座 の成 立基盤

一つ

はこ うし た経 済的平等 性に ある と考 えら れる のだ が、

十 二座 株々 の特権

(成員 性、

メン バー シッ プ〉 の由 来は

、注 目で も触れ た如く、

専ら 血統 的な 家系 の純 粋さ 誇を る

「家格」

にあ るよ うだ

いず れに し

、ろ それ

は、 この 地 への 移住開発

つな がる もの のよ うで

、前述 した

いわ ゆる 近江源氏

末流 佐々 木 一族 (川

宮座の社会人類学的調査E

端氏) や社 伝に 云う 伊藤氏

(神職家系)

など を中 心と する伝承

に、

ペ〉

根拠 があ ると 考え られ る。 前掲 の天 正五 年 (一 五七 七)

「佐 々木

末流、川

端彦太郎

常信 日誌

」と いう 写本 には

、佐 々木 川端氏血脈

次第と表記

した 一 族家系図が

あり

、そ れに よる と、 遠く寛仁期

(一 O 一七 )に

、五 十九代字 多天 皇 の流 れを くむ 佐 々木成頼が

近江 に居 を定 め、 その 後、

永禄期

(一

五八 )に 川端左近太夫輝

綱 に至っ て始 めて 川端姓を名乗

った とさ れて おり

彦太郎常信

はそ の嫡 男で

、こ の者 が比 良小 松の 地に 愛宕 の屋 形を 勧清 した のが 神社 の起 りだ とさ れて いる

。そ の後、 比叡山延磨寺山門衆と

の角 逐を 経て

、小松十禅師

社と なり

、こ れに 八幡

・白 髭

・多 賀な ど幾 つか の小 未社 を包 括し たも のが

、やが て樹 下神 社に なる わけ だが

、別 の社 伝に 云う とこ ろ の伊 豆伊 東か らの 来住者、

伊藤民部守祐

治 によ る社 の建

(寛喜 二年

一一一一一 O) との ズ レな ど、 両者 の関 係は 全く不 詳で ある

。こ うし た史 的考証 は私 の専 門外 で、 どう 分析 した らよ いか 判ら ぬが

、と もか くも、

これ らの もの が複 合し あ って 神社が でき たと すれ ば、 中世未?近世初期

の北小松村 落の 形成 に、 在郷武士

諸族が 深く かか わ って いる こと だけ は疑 いな いし

宮座 (十 二座

)

の生 成に これ が直 接結び

つい

てい るこ とも 否定 でき まい

。 注(1

) 今回 の調 査は 本年 (一九 七二 )七月 上J中 旬及び 八月 中旬 の二 回実施 した が、 裁判 の実 際知識 に暗 い私 に、 適切 な御助言を明治

大学法学部

の江

守五

夫教 授か ら頂戴 し、深 く感 謝し てい る。 大津地裁民事訟

廷事務室

の大 角正夫 氏、岡 田 守氏、

小森茂男氏、

大阪高裁民事訟廷部

の杉 原圭 三氏 には御 多用 のと ころを親 切に お力添 えい ただ き厚く御礼申上

げた

い。

また 樹下神社

の伊

藤普宮

司に は、 現地 で一方なら

ぬ御 厄介 にな った

。あ

らた めて 感謝する次

第で ある

)(2 裁判書原本

以外 の裁

判記録

の保 存期間

は、

通常 の場 合、

最長で 十五 年だ

ら、

この 事件 の場 合など は、

もち ろん療棄

済で ある

。こ

の事 件当 時は わが 国の

宮座社会人類学的調査直裁判制度が 未発 達で 制度 化も不十

分で あっ たか ら、

現今と は何 かと 相違する点 が多

く、

原本以外

にも何 らか の記 録類 があ るか とも思わ

れたが、

やは りそ うし

たもは特に見

当ら

った。 しか し本文 で検 討る前

記の 書は、い

本に 相当す

、そ

の形式

内容

に窺

われ る如

、現

今と

り異り

、分

析対象

興味深

いも

のを

いる ように 思う。

(3) 明治六年

(一六 七一二 )の 戸籍 によ ると、

勝見八郎

右エ 門 (この 時日 才)と 勝見入左

エ門 (お才

)の

両家 があるが、

前者が 勝見八郎

兵衛

の直系、

後者が

傍系

みら れる

。そ

して

、生業

は前

者が

農、

後者が 紗漁 であ る。十二座

言っ て も、

必ず

しも 十二 戸に 限定し たけ わで はな かろう から

、両家 (本分家)

は同 一座

株の家筋

見なさ れて いた

と思 われ

。る前述

の明 治十 五年

「訴状 受付 録」

の第 二百 五十号

「地券証

取戻」

の被告欄

に、 勝見八郎

右エ 門と いう 記入が ある

八左

エ門

の誤

記と 思わ れる

。こ れか ら ても 両家が 同一座

株の家と、同一視

され てい たの では なか ろう 4)株にも(座 か。 かの

型が

ある よう で、 北小松 の十

二座が

のよ うな

型に入るのか

、と

は、

宮座

にか

w

株座と

Mと

いう

を論

。当

るこ

は、少

とも

株座

なる

私的

団体 では ない

とだ

。そ うで なけ

、当家制

や年

梯日

制な

の公 平

平等

の原

則、確立し得

えな いと 思わ れ から であ る

li

北 小松 の十

二座

にも

これ

らの

制度・

原則 は、

もと

より存

在する。

(前稿参照)

株座 成立 の契機如何

、株座当 初か らそ の本

質に

かな りの 公的基 盤を お てい たで

う、

が私 の見

方で

ある

。私

がか

、宮

座(株座)

の本 質を H対外的

に不

平等日

閉鎖 的だが対

外的 には 平等 日開 放的 であ るM

述べ たの も、 右の 見方 があ るから であ る。 (「宮 座制覚書」、「民族学か

らみ た日

一九七O、

河出書房新社、

所収

、八

O

頁) そし て、

株座

の村 座化 まで 、言うは もなく、

この 対外的 な不 平等 U閉 鎖性 の枠を外

すこ とに よっ て、 公的基

より

一層拡張し徹底

させ た

いう

に理

まい

小松 か。北

にお いて

、十

二座

から 者町 (当

番町

)

制と

う形

での

村座化

が、 右の

脈絡に沿

って の程度、実

現さ れて いる

軍要

な問

で、

再論 する

りで ある

。な お、 この 係争事 件に おい て、 裁判所

宮座 (と

株座

I1i

この 場合 の十 二度

)に

、も

っと 十分な 認識 と理

もっ

ら、

とい うの は、 しろ

求め

無理

うも

う。

も、

本文

に、 被告が

帳箱を

μ

で作

った 私物 であ る

μ

申立 てた こと は、 何と して も

下手

一言

、こ

れで は私に対す

る公を

持出

、容

易に

足元

くわ

てし

から である。

、判

決は その りに なっ たて

けだ。

って

L

ろ被告 は、

自分た

こそ 正当 な宮世 話役 であ る所以 を、

十二座

の公 的性

明し て、 検討すべ

きで かはな

には 思

。(

5

)村上

良氏 によ ると 国家神道

の形成 は四 段に分

れる

。①

形成

期、

明治

(一

八六 八)J 明治 二0 年代初頭

(一

八八

0年代末

)、② 教義的完成期、

帝国 憲法発布

(一 八八 九)!

日露戦争

(一九O 五)

、③制度的完成期、

明治三0

年代 末 (一九00年代後半

)J昭 和初 期 (一九 二一0年代初頭)

、④ ファ シズ ム的 国教

期、

満州事変

(一九 三一) 太平洋J

戦争敗戦

(一九 四五 )。そ して

、こ の係争

件が

あっ

た当 時の

①に つい ては

、次 の如き 特色を指摘し

てい る。 近代天皇

制国 家成 立期 の国家神

道で

、維新当初

の神 道国教化政策

は国 民教化政策

にか わり

明治十年

代に はだ 祭犯と宗

の教 分離 によ って 国家神道

の基本的性格

がさ だま

た。

この 間に

、宮中祭

犯が 確立 し、

伊勢神 宮を木宗

とす る全 神社 の再編成が

。こ

での 国家神 道の 教義は

う大

教と よ 、天皇崇拝と直結 した 神社信仰が

主体 であ ったが、

内容 はな お流 動的 であ った

(村上重良

「国

家神道」、

岩波新書、

一九

七O、

七八 J八O 頁) oな お、 傍点は筆

者。

従っ て、 この 明治中 期に かか る頃 には

、国家神道

の性格、

が一応 きま って、

その 線に 沿っ た国 民教化が

すす められ、

神社政策も具体的

に動

き出し てい る、

とみ てよ い。 この 判決 の主意や判

決理由

(次 に検 討する

「裁判 案」) の中 に、 かか る明治政 府の 政策意 図の 反映を、

多少な りとも見

出せ るの では なか ろう か。

(6) 北小松で

は、

一族

(同 一氏姓)

のこ とを クル ワと 称し、

冠婚葬祭を

はじ め 日常生活で

結の びつ きが つょ いと 一一一口う。

この 点に 関す る立 入っ た調 査が して な いが

、先 にも触 れた よう に、 前述 の湖 東・甲

賀郡

信楽町朝

宮や同じ湖西

の高

島郡

深清水

のよ うに

、一

族を それ

とし て、諸株の

株座

が成立っ

形態 の本

質は、

北小

もさ して

とは

思わ

とす れ十 二座

そう

た意

味で

は、諸株

の代

表的な家

柄の

形成

てい か るだ ら、

それ なり の公的な

性格が ある とい うこ とも言 える わけ であ

7

)大高裁( る。 民事

訟廷

によ

、明

治二

十九年

と四

十二

年に 火災 によ っ庁舎焼 け、

ため に多 くの

裁判書

類が 焼失

。従

訴訟 事件

件簿

焼失 して

った、去干にも

明治 七年 から の判 決原本

保存

ドキュメント内 宮座の社会人類学的調査Ⅲ 利用統計を見る (ページ 36-74)

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