入間川
荒川
多摩川
鶴見川
21
18
16
15
14 8 11
12
13
3 4
9
表 1 土師器杯 形状タイプと灯火具(黒色付着物) 点数(上谷遺跡)
第14図 上谷遺跡 1・2・4:剥離された坏 3:剥離の模式図 1
2 4
3 第13図 打ち欠き痕(住吉中学校遺跡)
第3章 灯火具としての土器の再利用
供膳具である坏類に黒色の付着物が伴う再利用の多くの場合は、灯火具が妥当であると 考えている(第2章)。簡単に現在までの灯火具に関する研究史にふれて、発掘された近 世の灯火具や民俗資料、及び文献資料から再利用のモデルを構築し、灯火具としての使用 方法の復元に援用したい。
第1節 灯火具に関する研究史と問題点の整理
灯火具のうち屋内において油を使用した灯火具の研究には、大きく二つの流れがある。
一つは、近代・近世の民具としての灯火具の収集から始まる主に民俗資料によるものであ る。二つめは考古資料からの研究であるが、古代の遺跡出土の資料は少なく
1)
、主に江戸時 代の遺跡から出土した灯火具に関するものである。一般的に古代における仏教伝来や寺院、官衙などとの関係から灯火具が出現し、極めて 限られて使用されたものとされている[深津 1983]。古代の灯火具に関する研究は進展し ていない状況である。全体の傾向としては、9世紀以降から油を使った灯火具の出土数が 増加し、中世では土師器系土器の「かわらけ」が灯火具として利用され、近世になると灯 火用の受け付皿、ヒョウソクなど専用器がつくられるという、灯火具の変遷が認められる。
蝋燭は上層階級に使用されることが多くなる一方、江戸時代には庶民まで安い油である魚 油などを使った灯火具が、日常的に普及するようになる[国立歴史民俗博物館 1989、江戸 東京博物館 1995、(財)日本のあかり博物館 1997]。
第1項 灯火具の変遷 1 古代の灯火具
民俗資料や古代の絵画資料から復元される灯火具は、平安時代の『年中行事絵巻』など において饗饌の場で描かれたように、浅い皿形の容器を二枚重ねた「灯盞」と呼ばれるも のである。3本束ねた棒を三脚状にした(結灯台)上に灯盞をのせて使用したと考えられ ている(第1図1)[国立歴史民俗博物館 1989、江戸東京博物館 1995、(財)日本のあか り博物館 1997]。
考古資料から古代の灯火具に関する先駆的な論考の一つとしては、津野仁氏が栃木県内 の8世紀前半から9世紀代の須恵器、土師器坏類について、油煙の付着状態をタイプ分類 し、集成したものがある[津野 1991]。基本的に灯火具は「転用」であること、また、使 われ方は灯火実験から、上皿・下皿の二枚式と一枚式の二種類を推定し、古代の灯火具に ついて具体的に言及している。一方、灯火具の大半は一枚式で使われたこと、灯火用の油 は値段が高い胡麻油のため、灯火具は主に官衙や寺院及び富豪層の仏教関係施設での使用 を考えている点は、従来の学説の通りである。
灯火具専用器については、巽淳一郎氏が報告している[巽 2004]。専用器の文献資料で
1)埼玉県内の灯火具に関しての特別展「あかり」[笹森ほか 1986]では、8世紀前葉の灯火具とし
て、煤が付着した土師器、須恵器の坏を紹介している。は、8世紀前葉の長屋王家木簡記載「油坏」と、『正倉院文書』「造仏所作物帳」(8世紀 後半頃)の三彩の「瓷油坏」を指摘している。さらに興福寺旧境内などから出土した小型の 口径 11.5
cm
、器高 2.5cm
の二彩、三彩小皿が文献資料と同様の寸法(法量)であること、また、同等かそれ以下の法量の須恵器、土師器に灯芯痕が観察できる専用器としている。
埼玉県坂戸市所在の若葉台遺跡では、Ⅴ区2号住出土の8世紀前葉の口径約 10
cm
、器 高 2.5~2.7 ㎝の小型で完形品の土師器坏2点には、灯火具由来の黒色付着物が観察できる が、その後、灯火用の専用器種として、こうした小型の土師器は、若葉台遺跡周辺では継 続して認められない。他の遺跡では、土師器の小型坏に油煙や煤が多量に付着し、一定期 間使用されたことが推定できるものも何例か認められる2)
。しかし、各々の遺跡で単発的で あり、今までのところ、継続して生産されている例を知らない。また、南比企窯の8世紀 前葉の須恵器坏は、口径 14 ㎝以上と法量が大きいものが多いため、須恵器で灯火具専用器 が作られた可能性は低いと考えている。また、平城京では二彩、三彩の坏が灯火具として生産、使用されていたことは事実であ ろう。しかし、地方の主要な遺跡での二彩、三彩の出土は極めて稀であり、現在、千葉県 井戸向遺跡[千葉県文化財センター1994]において、一部を打ち欠いた托を灯火具として 再利用されている例が認められる程度である。したがって重要なことは、どのような用途 として、消費地で使用されていたのかである。生産段階で灯火具専用器とされていたか否 かとは別の問題点といえる。灯火具専用器の問題は、平城京などの都城での様相と地方の 様相や階層の違いによることも考えられ、今後の課題と考えている。現在のところ、都城 における灯火具の使用状況について、具体的に考古資料から判明している点は次に述べる 通りである。
平城京では左京域の長屋王邸、藤原麻呂に比定されている区域である左京三条二坊一・
二・八坪内、及び周辺から多くの灯火具として使用された坏埦類が出土している[奈良国 立文化財研究所 1995]。特に溝
SD
5100 からは、土師器 657 点、須恵器 323 点、総数 980 点という多数の灯火具が出土している。また、多数の木簡が出土し判読された結果、左京 三条二坊が天平十二年(729 年)の長屋王の変3)
までは、左大臣長屋王と妻吉備内親王の居 宅であったことが判明している。その後は分割され、光明皇后の皇后宮や太政官厨として 使用されている。二条二坊は従三位兵部卿である藤原4兄弟の藤原麻呂の居宅が構えられ、南門が面する 二条大路に掘られた溝
SD
5100、溝SD
5300 から出土する多数の土師器坏A
・B
・C(
第2図 1・3・4)
、 坏B
蓋(
第2図2)
、埦C(
第2図7)
、皿A
1(第2図5)、高坏(第2図 12)、壺A
、壺A
蓋(第2図 11)、把手付双孔蓋(
13)
及び甕X(
第2図 14)
の破片、及び須
2)飯能市張摩久保遺跡 30 次4号住居跡などからは、油煙、煤の付着した口径9㎝の 8
世紀前葉から中葉とみられる、てづくね風小型土師器坏1点が出土している[飯能市教育委員会 2009]。こ の他に、埼玉県ふじみ野市神明後遺跡第 28 地点
H2号住居跡からは、9世紀前半のタール状の煤
が明瞭に付着した口径 9~10cm の土師器坏8
点が、逆位の重なった状態で出土している。8点の作 りは類似し、灯火具として使用されている[ふじみ野市教育委員会 2008]。3)長屋王は父に高市皇子、母に持統・元明天皇の姉妹にあたる皇女をもち、妻は草壁皇子と元明
天皇の間の吉備内親王という、極めて皇位に近い位置にあった。神亀六年(729 年)に謀反の誣告 により、長屋王、吉備内親王と子供たちが自尽した事件が長屋王の変である。藤原氏の光明皇后立 后にあたっての陰謀による事件とするのが通説である。恵器坏
A
・B
・C(
第2図 15・17・18)
、坏B
蓋(第2図 16)、小型の坏E(
第2図 23)
、皿A
・B(
第2図 20・21)
、埦A(
第2図 19)
、壺A
蓋(
第2図 24)
、高坏などが灯火具として使用 されている。溝SD
5100 からは、天平十二年(740)の紀年木簡や「衛士」に関係する木 簡が出土していることから、三条二坊の施設である皇后宮、及び藤原麻呂の家政機関に関 するものとみられている。これらの溝出土の灯火具は、次の4つの特徴があるとされる。①官衙で使用されていた 小型灯火専用器とみられる土師器、須恵器の皿
C
・E(
第2図8・23)
は、ほとんど認められ ず、一般の大型食器の土師器、須恵器を使用している。器高が高く、灯火具としては不向 きな器種である須恵器埦A
(第2図 15)なども使用している。また、②多様な器種を使用 している。土師器では坏蓋、高坏、盤や甕の破片、把手付双孔大型蓋破片であり、須恵器 では坏蓋、及び壺蓋をはじめ、小型の坏、皿などである。次に③食器だけでなく、奴婢用 あるいは名前が記された個人用の食器を使用していることから、既に使用していたものを 再利用していることがわかる。④完形品が多くを占め、長期間使用とみられるものと、短 期間使用のものが区別されており、後者が圧倒的に多いことが指摘されている。また、『正倉院文書』や木簡などの文献史料から1日当たりの油の消費量を把握し、燃 灯実験との結果を検討すると、天皇の部屋でも常灯の灯火具は2個と推定できるという。
したがって、通常では使用されていない器種の使用と、再利用の土器、さらに短期使用の 痕跡から、これらの多数の灯火具は常灯や宴会用ではなく、緊急、臨時的対応のもの、即 ち文献には認められないが、仏教の行事としての万灯会、燃灯供養に使用した後、廃棄処 分したと記述されている。その燃灯供養の背景として、長屋王の死が光明立后の前提とな っていたことに加え、光明皇后の皇后宮として長屋王邸が使用されていること、相次ぐ藤 原氏四兄弟の死、天然痘流行などの理由を挙げている。
しかし、
SD
5100 の遺物は藤原麻呂邸からの廃棄物、また、木簡資料から衛士関係の廃 棄物であることが認められている。このため、藤原麻呂邸の使用人により日常的に使用さ れた灯火具、及び衛士による警備のための灯火具として使用されたものなどが含まれてい ると推定できる。平城京関連の報告書で、このほかに灯火具についてまとめているものは、『平城京発掘 調査報告書Ⅶ』[奈良国立文化財研究所 1976]に記載されている灯火具一覧表
(
表1)
であ る。この調査報告書は、内裏北外郭地域の発掘調査結果であり、土壙SK
820 は兵衛関係の 木簡と贄の荷札木簡が 46 点出土することから、左兵衛の詰所、宮内省内膳司の存在が近隣 に推定されている。灯火具として使用された土師器、須恵器の法量を加えた表1をみると、前述した油坏の口径
11
.5cm、器高 2.5cm に該当するものは少数であることがわかる。表1に示す通り、灯火具の個体数でみると、土器編年で平城Ⅲ(750 年頃
)
の土壙SK
820 では、須恵器坏A
Ⅲ(第2図15
、口径 14.1~15.8cm)11 点、次に土師器坏C
Ⅰ(
2図4、口径 17.8cm
)
8点である。一方、口径が 11cm
代の小型のものでは、土師器皿C(
第2図8)
が1点、須恵器坏A
Ⅳ(
第2図 15)
4点、坏B
Ⅳ1点(
第2図 18)
である。平城Ⅴ(
780 年頃)
に比定されるSK
2113 では、土師器埦A
Ⅰ(
第2図6)
が 27 点、同皿A
Ⅱ(
第2図5)
の 10 点 が灯火具として使用されている。その法量は、図面が掲載されているわずか4~5点の平 均であるが、土師器埦A
Ⅰ(第2図6、口径 13.1cm、器高 4.2cm
)、同皿A
Ⅱ(第2図5
、口径