• 検索結果がありません。

円 ︒

ドキュメント内 重 藤 威 夫 (ページ 37-40)

すぎぬものであったのに反して︑新たに鷲らされたものは人間生活の全面を支配するものであり︑家庭生活と公

的生活との金控にわたって︑飽くまで巌粛且つ員塾な規律を要求するものに他ならなかった︒﹂

かくて︑カトリック信仰では︑人ア伊}紳の義即ち聖書の員理より遠ざけ︑一紳の愛への直接的なる接近を妨けた︒

人々はカトリック教舎の楼威を通じてのみ一岬の義に奥り得るのであって︑そこからカトリック数舎が世俗生活に

カトリック信仰に基く世俗生活の軽視と厳重なる借俗生活の差別観とが生じた︒優越する根採が生れ︑

ルクーはか﹄るカトリック的な考へ方は何等聖書に根抜なき訣れる信仰であり︑神への冒震であるとして排斥

した︒人が一仰の前に義とされその恩寵に奥り得るのは︑法王の構成によるにあらムダサクラメントによるにあら歩︑

信仰のみによるとなした︒ルク1の観賠に立てば﹁カトリックの祭司は︑化賠(︑

H4 55 5E 自己 主

oロ

)

もの﹄主となれo﹄又︑法王及び祭司職と平信徒との関係に就いては︑

ルクーは次の如く述ぺてゐる︒﹁然らば︑基加問

督教に於て祭司と平信徒との問には︑彼等が凡て祭司である以上二時如何なる区別があるかと諸君は問はれるかけ批

も知れないo聖書は皐者達また聖職者遣を

E E E ‑

‑ 5 i L R O B E

印ち他の人々にキリストと信仰と及び基督向日

教的自由とを説くことを任務とするところの﹁役者L︑﹁従僕﹂︑﹁執事﹂と呼んでゐる冗けで︑それ以外に何の直別炉問

をもつけてゐない︒何故なら︑我々は成程凡て同じゃうに祭司ではあるが︑しかし我々凡てが奉仕し事務に携はh

川 知

2 4 ' り

J武智することは出来ない︒きれば聖パウロはコリント前書第四章に﹁我等は人々どりキリストの役者また幅一音問

1MM

E.

の執事以外の何者とも思はれんことぞ欲せホJ

と一

言っ

てゐ

o然るに今やその執事職から此世的な︑外的な︑輝・協同日判例h

主自

mかしい威厳に充てる主樫及び樫勢が生じ︑正賞な此世の力さへ如何なる道にでも之と匹敵することが出来て平川JUV

間語梓

n )

信徒

の如

︑き

は殆

E基叔同信徒とは別なものででもあるかのやうである︒それが震に基督教の亭θ︑自由︑信仰及びパ閉山品川

我々がキリストから受ける凡てのものの全き理解が失はれ︑キリスト自身さへも奪ひ会られて︑その代りとしてし市刊一同七

7げ ム2

b.

h1

我々の得たのは移しい人間的な律法と行ひとであり︑我々は地上に於て最も無償値な人々の奴隷となり絡ったの

u y

d

であ勺﹂サクラメント主(ものは︑キリストによって罪在放し給へる紳の愛の記銃である︒この信仰さへあれば儀 .e

mluh

VK

M;

4o

式は慶しでも差支ないのである︒人を紳の前に義とするのは洗躍ではなく︑信仰である︒洗躍はその信仰に封し(川山川町

h

a

h k h

て奥へるれるのであるoこの意味に於て︑員に聖書にかなったサクラメントは洗鵡(斗ロえると聖餐式

( K 5 0 E 5 5 M

岱 い 誌

のみであ勾oルターにあっては︑ザクラメントぱ紳に救はれた身分の認識根撲であって︑カトリックに於ける如め

5)  6) 

'.

く救はれるための保件根擦ではなかった︒徹底的なる儀式の軽視︑信仰の寧重である︒

人は信仰のみによって紳に義とされるとなじ︑教舎の擢威の根源たるサクラメントを軽践することによって借

俗の差別を撤底した︒之が宗教改革の根本精神であり︑爾来プロテスタント信仰にとって︑数合同内の生活と等し

く世俗生活も信仰上無限なる債値を認めらるLに至った︒従来︑信仰生活は数舎内にのみ濁占されてゐたのを︑

.炭く解放して世俗生活にまで撲大した︒そこから職業労働に濁して︑中世のカトリック的な軽践とは逆に︑

一 神 聖

なる

意義

を認

め︑

日常の職業的活動の中にあって︑且つそれを通じて信仰生活の完成に努めた︒﹁労働は析なり!一

(Hh

O B

ο2

伸︒同日乙である︒基督者は借俗の別なく︑すぺて一仰によってその職業に召し出されてゐる︒職業と

は一

抑に

よる

召命

(ロ

25

pg口一口問)に他ならぬ︒それ故︑各人が興へられた夫々の職業にいそしむことは印ち神に

封する義務の履行に他なら事︑各人の信仰生活中ぜ完くし︑信仰を竪くする所以である︒かくて現世的職業附労働を

人生に於ける神聖なる倫理的義務と見た︒

ーは︑未だ完全に中世思想を脆却し得中︑ 職業川労働に封して中世的な観念︑研二愛することによって近代資本主義への道を切り拓き︑進歩的であったルク

商業及び実他の問題に関しては倖統的なカトリックの観念に止ってゐ

た︒彼は中世から近世初頭へかけての代表的な商業資本家

y r o σ

間 口 問

m R

におして︑次の如き非難の

m Aを向けて

ゐるが︑その文中に商業の債値ぞ農業以下に見る思想をあらはしてゐる︒﹁こ﹄で︑我々は︑銀行やこれと同様な

回胞を閉川釦しなければならない︒王者にも相応すべきかやうな大財産が︑一人の人間の生涯のうちに蓄積され︑

近代資本主義の倫理と京亜経済

一 一

一一

しかも寓事一押の意思に適合し合法的に魚されることは果して可能なことであらうか︒私は教関申者ではないが︑

年に百グルデンを以って二千グルデンの金を儲けることがどうしてできるかσ私は理解することが出来ない︒か

やうな金は農耕や牧畜とは臭った方法に於いて生手るのである︒:::私は次のことをよく知ってゐる︒印も︑農

部一加を増し商業を減らす方が︑透かに多く神の御旨に︑遁ふといふことである︒聖書に従って︑

ら食物を求める方が透かに普いのである︒﹂

土地

を耕

し︑

土地

カト

リッ

ク数

舎に

於て

は︑

伎は徴利に関しては︑依然として之を罪悪視する思想から脱却し得なかった︒

ーレンスの

k r E S Z

公ω

∞ ︒ ー ー

ドキュメント内 重 藤 威 夫 (ページ 37-40)

関連したドキュメント