FAX 03‑3222‑0016
④ 内 陸
明治
3 1
年頃の豊橋病院見取り図病院経営の基礎を築いたといわれる彼には次の ような逸話がある。すなわち,豊橋病院に設かれ た
2
台の電話番号がそれぞれ4 2
番.2 1 9
番であっ たが,これはシニニイクパンと読まれたので,周 囲は大いに騒ぎ立て,電話番号の交換をに迫った が,院長はまったく無頓着で意に介さなかったと ころ, 日が経つに連れてかえって称賛の声が沸き 上がったという。明治
3 1
年頃白豊橋病院主関1 3 0 ( 3 0 )
日本病院会雑誌 1996年1月第
6
代本間正純のあと,第7
代院長とL
て京大 助教授森田公平を迎えた。彼は診療には優秀な看 護婦が絶対に必要であるという強い信念から,看 護婦学校の設立につくした。昭和の初期に 医療を民衆の手に"という運動 が全国にお草済として起こり,名古屋や大阪を始め として公立病院が続々と設立されたが,昭和
7
年 第B
代院長福谷温の時,愛知県で最初の私立病院 として発足したわが社団法人豊橋病院も4 0
年の 歴史に終止符を打ち,市営に移管された。市立病院への移管
社団法人豊橋病院が市に移管され市立豊橋病院 として発足したのは昭和
7
年日月l
日であった。ことがここまで運ぶには一部の市民や,患者減少 を危慎する 部開業医の強い反対等があり,釘余 曲折,なかなか困難な問題であったが,時の市長 丸茂藤平の将来を予測しての英断により実施され た。時あたかも昭和初期の大恐慌の時代であり,
市立病院の開院を何より喜んだのは日々生活に追 われている恵まれない人たちであった。
病気になっても医者はおろか売薬すら容易に求 められない人たちにとって,軽費的で必要なら救 護法が適用される市立の病院はまさに地獄に仏の 思いであったであろう。ともかく市立豊橋病院 は,東大から第
9
代院長として上杉直吉を新院長 に迎えて発足した。今日からみれば,極めて小規模のものであった が,当時としては東三河随ーの総合的病院で,当 初その診療科目は内科,外科,小児科,耳鼻科で あった。丸茂市長が掲げた市立病院創設の目的 は,済民,防貧で社会福祉的色彩の強いもので あったが,市の負担はできるだけ省主,健全な自 主的経営を望んでいた。
軽費診療に重点、をおく総合的な病院の出現は,
一般市民にとってはこの上ない喜びであったが,
患者減少を危慎して開設を反対した医師会員に とっても,案に相違して患者の減少はみられな かった。これは高い医療費を恐れて,開業医を訪 れなかった潜在的な患者があったことを物語って いるわけで,市立病院の存在価値を示したもので あるといえる。
その後も軽費診療券や無料診療券を発行して済
民的役割を果たしながらも,病院は確実に発展し ている。
昭和
1 6
年の記録では,内科,外科,産婦人科,耳鼻咽喉科に加えて新しく眼科,皮膚泌尿器科を 加 え , 年 間 入 院 患 者 延 べ
1 6
,3 8 2
人 , 外 来 患 者7 0
,7 3 2
人を記録している。戦時下の市立豊橋病院
昭和
1 2
年日中戦争に突入し,世情は日を追っ て深刻化していったが,病院は順調に発展して いった。この間,無料患者を 医療費納付ノ資力 乏シト認メラレタノレ者"の他に出征兵士の家族に まで枠を拡げた。昭和1 3
年には軍医として応召 Lた雇rJ院長渡会陸二が戦病死している。昭和
2 0
年6
月1 9
日の大空襲で,豊橋市は周辺 の農村部を残しで都心部は見る影もない焼け野原 と化した。しかし病院ではさきに決めていた非常 内規に従い,職員がそれぞれの部署で決死的に活 躍し落とされた焼夷弾を次々と消し止め建物を守 り抜いた。また入院患者をはじめ病院関係者から は1
人の死傷者もでなかったが,防空当番に当 たっていて病院で奮闘していた内科医長が,自宅 にいた妻子を防空濠のなかで焼死させるという痛 ましい事故があった。戦後の市立豊橋病院
昭和
2 0
年8
月1 5
日,敗戦裏に戦争は終わった のであるが,ことごとく烏有に帰L
た都心部の焼 け野原のなかに,職員たちの必死の働きで助かっ たわが市立豊橋病院の建物はいささかも損せられ ることなく毅然として残っていて,市民に安心リ惑しaう け つ
を与えた。そ
L
てこの当時狸獄した赤痢禍でも その予防撲滅に大いに活躍したことが記録されて いる。また栄養なとの問題もからんで乳児の死亡率が 極めて高かったので,妊娠を守り生まれた子供の 健全発育を図るために,昭和
2 1
年にはやくも産 院を開設している。しかしながら,戦後の病院経営はあまり振るわ なかった。これは焼き払われた都心部に,まだ疎 開先から帰って住む人口が少なかったせいもある が,昭和
2 0
年1 2
月に設備の整った豊橋衛成病院 が豊橋国立病院として一般に開放されたのが大きく影響していたと考えられる。なお, この時期に 市立豊橋病院は国立豊橋病院と呼称が粉らわしく 間違えられることがよくあったので,市立豊橋市 民病院と改めたが,これはのちに森院長の時代 に,
r
市立jを取り除いて豊橋市民病院と呼ぶこと に決定している。いずれにしろ,この時期の市立豊橋病院は衰退 の一路をたどっていた模様で,昭和
2 2
年に取り 行われた1 5
鹿年記念式典での報告では, 昭和2 1
年度の患者数と比較するならば,その患者数は入 院患者,外来患者ともに激減しているのである。その後上杉院長が退き,第
1 0
代院長として梅 林鐙三が就任したが,低落傾向は改まらず,経営 的にも昭和2 3
年には1 5 4
万4
千余円の赤字をだ している。終戦を契機に世相は一変し医療界も驚 異的に躍進したのに,戦災を免れた本院は皮肉に も古い施設をそのまま使用していたため進歩に取 り残された結果なのではなL、かと推察される。森院長時代の豊橋市民病院
昭和
2 3
年,時の市長大竹藤知は市立病院立て 直しのため三顧の例を尽くして名古屋大学助教授 森泰樹を第1 1
代院長として迎えた。この当時の 病院の規模は内科,外科,小児科,耳鼻科,皮膚 泌尿器および歯科の8
科があったが,終戦の頃を 墳に極度に衰退して患者は激減し,赤字経営の苦墳にあった。当時の病院は一病棟,二病棟,三病 棟ともに荒廃し切っていた。森院長の後日の話に よれば,病棟の廊下の床は腐って穴があいてお り,病室は破れ畳みに裸電灯がぶら下がっている 状態で,緊急の病人かよほど事情のある人でない
と入院しなかったという。
昭和
2 3
年4
月1
日現在の入院患者は1 6
人,外 来患者は1 6 0
人という具合で,病院が汚いので患 者が来ない, したがって収入も挙がらないという 悪循環に陥っていた。森院長は着任に当たって,第
1
に優秀な医師を 招聴すること,また彼らが喜んできてくれるよう な施設をもつこと,第2
に従業員が安心して仕事 に励むことができるような生活の安定を与えるこ と,第3
に進歩的な設備を積極的に取り入れるこ とを方針として挙げた。また経営上は赤字解消,自主経営の氏意を固く して臨み,そのためには少数精鋭主義で人件費の 膨張を抑え,人件費は支出経費の
30%
以内とい う鉄則を堅持し,同時に諸経費も極力抑えた。こ の占企針のもとにまず優秀な医師を招き,同時に非 常な苦労と努力ののち資金を調達l"昭和2 4
年8
月に本館および玄関の補修改修工事を行った。以来病院には拡張建設の鎚音が絶え間なく響き続 けることになる。
経営の方も森院長着任後
5
年目にして初めて黒昭和
2 3
年森院長就任時の市立豊橋市民病院の院内1 3 2 ( 1 3 2 )
日本病院会雑誌 199t年1月昭和
2 3
年市立豊橋市民病院外来 字に転換し,以後年々黒字経営が続けられるようになった。昭和
3 1
年には現在なお使用している 地上4
階地下l
階の第一西病棟,昭和3 4
年には 地上2
階地下1
階の本館診療棟,昭和3 6
年3
月 には,地上5
階地下1
階の第三東病棟が完成し,病床数も結核病棟を合わせると昭和
2 5
年の3 0 1
床から一躍
6 8 3
床に増床された。森院長は最新の医療設備を積極的に導入すると いう方針を掲げ,昭和
3 8
年7
月に癌治療のため わが国で最初にベータートロンを導入した。この 設備はシーメンス社製で当時の価格は5
千3
百2 2
万5
千円という高額機器であり,当時の放射線 科部長はその取り扱いの研修のためにドイツに留 学している。さらに昭和
4 5
年1
月には地上5
階地下1
階の 第二西病棟が,ついで昭和5 2
年3
月には第二東 病棟が完成し,病院はおおむね現在の形となり,病床数も
8 0 2
床となった。この聞にも昭和4 0
年 にはウイノレス検査室を新設.4 6
年3
月には人工腎 臓センター開設.5 0
年4
月には脳神経外科を新設と矢継ぎ早に病院を拡張充実した。
森院長は昭和
5 0
年に,名誉院長に退いたが,そ の在任中は上にその一部を述べたように病院は拡 張と発展の連続であり,昭和2 3
年院長就任以来,その才腕を余すところなく振るい,就任当持崩壊 寸前にあった市立豊橋病院を全国有数の公立総合
病院に育てあげたのであり,市民の多くが彼をわ が病院創始者として誤認しているのも無理からぬ ところである。
近年の豊橋市民病院
森院長の後を受けて昭和
5 0
年4
月に緒方正吾 が第1 2
代院長に就任した。この間,昭和5 2
年に は他に先駆けて頭部コンビューター断層装置を導 入し,昭和5 7
年3
月には地上5
階地下1
階の救 命救急センターが完成し.3
次救急施設に指定さ れた。同年地上3
階地下1
階のリハビリテーショ ンセンターが完成L .
平成4
年にリハビリテー ション総合施設に指定された。昭和
5 8
年に福田元恭が第1 3
代院長に就任し た。昭和6 3
年には未熟児センターが承認され,東 三河一円の未熟児を一子に引き受けることになっ た。この間,全身用コンビューター断層装置2
台, 連続血管撮影装置2
台,ライナック照射装置,体 外衝撃波結石破枠装置,コバルト6 0
体腔内治療 装置.1 . 5 T
核磁気共鳴断層撮影装置等の高額医 療機器が他に先駆けて次々と導入されている。また, この時期に現在の病院が手狭になったた め,新病院の建設の構想が打ち出され,平成
2
年4
月には病院建設推進室が設けられ,新病院建設 への具体的な作業が開始された。平成