内モンゴルは、今は中華人民共和国の一部であり、過去の戦争や出来事に関するその言 説や表象は、中国共産党の文化的ヘゲモニーによって校閲され操作されている243。「ガーダ ー・メイレン蜂起」に関する言説や、いわゆる「公式的記憶」も中国の政治的正統性を弁 証する役割を与えられ、社会主義リアリズムの理想のもとで人為的に構築されている。例 えば、中華人民共和国建国の一年後、つまり 1950 年に、陳清漳(Chen Qingzhang)らは共 産党機関誌『人民文学』(1950 年第 1 巻第 3 期)にウリゲルト・ドー『ガーダー・メイレ ン』を初めて漢語で発表した。「また 1952 年『東蒙民歌選』に収録された民歌『ガーダー・
メイレン』はこのテキストの初めと終わりの二段ずつを抜き出して中国語訳したもので、
現在もっとも広く知られている歌詞の原型となっている」244。その後、「ガーダー・メイレ ン蜂起」を主題としたウリゲルト・ドーの採録が進むとともに、同一の主題を用いた宣伝 活動、歌劇、映画脚本、交響詩、長編小説、映像作品、漫画・連環画などが制作されてい る。ここで注目したいのは、これらのウリゲルト・ドーやさまざまな芸術作品が作られた 背景とガーダー・メイレンの集合的記憶との関わりである。つまり、内モンゴルにおける ガーダー・メイレン記憶の形成と受容において、これらのウリゲルト・ドーや芸術作品が どのような役割を果したのかということである。
本章では、記憶論の方法を用いて、社会的表象という観点から内モンゴルにおける「ガ ーダー・メイレンの記憶」の形成と受容の過程を論じてみたい。取り上げるのは中国共産 党が 1940 年代から実施した「文芸政策」と、1958 年の「大躍進運動」に伴って展開され た「民謡運動」である。まず、ウリゲルト・ドー『ガーダー・メイレン』の採録の経緯と、
その他の文芸が創られる過程を整理してみる。また、それらが内モンゴル東部地域だけに 共有されていたガーダー・メイレンの記憶を、いかにして全国的な記憶へと昇華し、普遍 化したのかについても吟味する。加えて、現代内モンゴルにおいて、映画などの視覚イメ ージや文芸作品をも分析し、ガーダー・メイレンの「公式的記憶」とその変容を考察した い。
243 拙稿「集合的記憶としての「ノモンハン事件」/「ハルハ河戦争」」、334 頁。
244 石原邦子「内モンゴル民歌「ガダ・メーリン」に関する一考察―モンゴルの英雄はなぜ中国で歌われ たか」、25 頁。
82 第1節 ガーダー・メイレン記憶の形成と受容
1. 中国共産党の文芸政策とガーダー・メイレンの記憶の根源
前述したように、中国の公的歴史叙述の中では、ガーダー・メイレンは、「封建的蒙古 王公」と「反動的軍閥」に対抗した「モンゴル民族の英雄」として位置づけられている。
そしてその叙述は、中国の共産主義的歴史哲学の強い影響を受けたものであると考えられ ている245。蔡偉傑によれば、ガーダー・メイレンの物語の採録には、当時の中国共産党に よる文芸政策が深く関わっていた。
1920 年以来、中国の左翼知識人たちは現実主義プロレタリア文学を提唱し、これらの 作品の主題には社会批判と政治的風刺が含まれていた。こうした傾向は中国共産党の 文芸政策にも影響を与えた。1942 年、毛沢東が中国共産党の文芸政策の方向性を定め、
あらゆる文学は階級的背景を持ち、文芸の創作者はプロレタリア階級及び共産革命を 支持すべきであると主張した。ここでいうプロレタリア階級とは、主として労働者、
農民、軍人のことを指す。このような思潮の下で、音楽家や文学者の多くが農村へと 向かい、民謡や民間説話を収集する作業に従事した。なぜなら、このような作品こそ 真のプロレタリア創作だと考えられたからである。ガーダー・メイレンの物語の収集 はこのような風潮の産物であった246。
蔡が述べるように、1950 年代から内モンゴルにおいてガーダー・メイレンに関する作品 が多数作られたのは、「中国共産党の文芸制作と関わっており」、この時代に作られたウリ ゲルト・ドーや文芸におけるガーダー・メイレンの表象が、後の時代の記憶の原型となっ ている。ところが、ここで指摘すべきことは、内モンゴルにおけるガーダー・メイレンの 記憶の再構築がこの時代から始まったとはいえ、それはガーダー・メイレンの記憶の根源 であるとはいえないという点である。なぜなら、ガーダー・メイレンはモンゴル人の故郷 を守るために戦ったローカルな英雄なのであり、彼を民族の英雄として讃える民謡はすで に 1930 年代には作られていたからである。当初は口承伝承であり、内モンゴル東部地域だ けで歌われていたが、「1948 年に初めて活字化され、その後内モンゴル全地域に広まるこ
245 蔡偉傑「從蒙匪、英雄到環保先鋒:嘎達梅林在現代中國的表述與政治」、73 頁。
246 同上、74 頁。
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とになった」247。のちに漢語で訳されたウリゲルト・ドーの歌詞は、元のモンゴル語の歌 詞と異なっている点もある。これについて後の節で詳しく論じることにしたい。
2. 記憶の共有化と一般化248―ウリゲルト・ドーを手がかりとして
現代の内モンゴル社会において、ウリゲルト・ドー『ガーダー・メイレン』は極めて広 範囲に知られ歌われている。それは、ガーダー・メイレンという英雄の過去の事績を想起 させる機能的な記憶装置あるいは、媒体とも言うべき役割を果たしている。ガーダー・メ イレンの記憶はそもそも、ウリゲルト・ドーに由来し、形成され、構築されたものである。
前述したように、1930 年代においては、ガーダー・メイレン蜂起は、国の政策に反抗した
「蒙匪の略奪行為」として弾圧され、民国当局による公的な言説において強く批判されて いた。しかし、そのなかでも、ガーダー・メイレンは、1930 年代の内モンゴル東部地域の モンゴル人たちに尊敬され、記憶されてきた。この間、モンゴル人たちは、ウリゲルト・
ドーを通じて、モンゴル人の故郷を守るために戦った彼の英雄的な戦いを讃えたのである。
ウリゲルト・ドー『ガーダー・メイレン』について、その著者とそれが作られた時期に 関して、先行研究のなかには一致した見解が見あたらないが、前述したヒンガン(2009 年)
によれば、ガーダー・メイレンの歌は、最初に「ガーダー・メイレン蜂起軍」に従ってホ ールチ249として活動していたシブン・セーレン(Sibeng Sereng)によって、1930 年の 7 月 に作られたという250。当初の「ガーダー・メイレンの歌」は、ガーダー・メイレン及び彼 の蜂起を歌い讃えた、短い幾つかの段で構成されたリリカルなものだったが、その後、多 くの民間芸能者の手を経て、今日の完全なプロットを持った悲劇的なウリゲルト・ドーに なったという251。ヒンガンによれば、採録活動は 1940 年代末から始まっており、現在に至 るまでに 20 以上のヴァリエーションがある。それぞれ、細かい歌詞やプロットが若干異な っているが、基本的な内容は共通している。
247 ボルジギン・ブレンサイン『近現代におけるモンゴル人農耕村落社会の形成』、146 頁。
248 この節のタイトルについては、石井弓『記憶としての日中戦争―インタビューによる他者理解の可能 性』、第二章における「四史―記憶の共有化の始まり」という議論から借用した。
249 ホールチとは、「実演、演奏、歌うなどの多様な技能を持っている民間芸能者のこと」を指している。
次の節で詳しく紹介する。
250「ガーダー・メイレンの歌」の作られた年とその著者について、先行研究では異なる形で論じられてい る。まず、歌の作られた年については、それぞれ 1930 年の始めごろ(Qarakü[2005 年])、1931 年(Mang Mören[1990 年])、1932 年(劉忱[2004 年])という 3 つの説があり、歌の作者についても、ホールチの シブン・セーレン(Sibeng Sereng)、民間芸能者のボヤンチョグラ(Buyančuγla)、ダルハン旗のホールチ のサンジェ(Sanǰai)、ハスワチル(Qaswčir)という四つの説がある(Darqud Kingγan, Γada meyiren-ü daγuu-yin sudulul, pp.70-76参照)。
251 同上、p.76.
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これらの採録活動は、1940 年代末期から 60 年代の文化大革命までの時期と、それ以降 から現在にいたるまでの時期とで、2 段階に分けるのが研究史において一般的である(表 1 と表 2 を参照)。
(1)テキスト化の第一段階―1940 年代末期から 60 年代の文化大革命まで
繰り返しになるが、「ガーダー・メイレンの歌」は、ホールチのセーレンによって、1930 年 7 月に作られたとされている。しかし、テキスト化されたのは 1945 年か 1946 年ごろで、
「30 行のヴァリエーション」(Γučin ulaγan mörtü eke/三十行文本)として知られている。
このヴァリエーションには、タイトルと採録者の名前がなく、ただ大きい紙に 30 行の歌詞 が記されているため、オ・ショガラー(Ü.Suγar-a)によってこの名称がつけられた252。そ の一部を具体的に見てみよう。
Arad tümen-ü mini ǰayaγ-a medeg Aru boγda-yin küriyen-dü kürčü üǰey-e As-un küčün mini büridügsen-ü següler Arad-iyan dakin tengkeregülüy-e Qamuγ olan-u mini qobi-ni medeg Qalq-a mongγol-un γaǰar kürcü üǰey-e Qobin-u-mini čidal güicegsen-ü següler Qariǰu ireged olan-iyan tengkeregülüy-e253
人民の運命にまかせよう 北の聖地に行って見よう みずからの力が強くなってから 人民をふたたび救済しよう すべての人民の運命に任せよう ハルハ、モンゴルに行ってみよう みずからに力が備わったなら
252 姜迎春「長編叙事民歌〈嘎達梅林〉文本和歴史記憶研究」、59 頁。
253 Darqud Kingγan, Γada meyiren-ü daγuu-yin sudulul, pp.10-11.