3ー1 「変質」概念をめぐって
「原始芸術」への批判
バタイユが先史時代芸術について述べたのは、『ラスコー』が初めてではない。彼はすでに1930年に『ドキュマン』誌上に「原始
芸術L'art primitif」という論考を掲載している(前節でもとりあげたテクストである)。ラスコー洞窟の「奇蹟的な」発見が1940年なの
で、この論考を執筆する際に、バタイユはラスコー洞窟のことはまだ知らないのだが(彼が参照するのはアルタミラ洞窟や「ヴィー ナス像」である)、この論考での発想は、『ラスコー』にも反響している。とりわけ、ここで提出された「変質 altération」という概念は、
直接的にも間接的にも重要である。
この論考はリュケの『原始芸術』92への批判という体裁をとっている。リュケは、西洋の大人(「文明人」)による芸術の対極として、
現代の子供の芸術と「原始芸術」との共通点を指摘したのだが、バタイユにしてみれば、芸術の幼年期と幼児の芸術を類比するこ とは、「個体発生[ontogenèse]は系統発生[philogenèse]を繰り返すという主張と同じように恣意的である93」。それだけでなくバタイ ユは、子供の絵画が稚拙なことは認めても、芸術が稚拙な表現から徐々に進化し、現在の水準に至ったという考えは認めない。
アルタミラなどの動物像を見るなら、「オーリニャック人は、生誕の段階から文明人の芸術が表している段階へと、ほとんど過渡期 なしに移行したように思える。このように、今日われわれが芸術作品と呼ぶものを作りあげた最初の人々は、原始芸術というものを 知らない94」からである。つまり、現代の高名な画家の作品と先史時代の壁画は同じレベルにあるということ、さらに言うなら、未発 達な段階というのは芸術にはあり得ないということが、『ラスコー』にまで持ち越される彼の基本的発想である。確かに、古典的絵画 の伝統ないし規範に抵触するような芸術的傾向の存在は否定できないのだが95、しかし、そのような非古典的傾向を「原始的」だと 呼ぶべき理由は何もない。むしろバタイユは、このような「低劣な」傾向を最新、最後の傾向であると主張するだろう。そして、芸術 は常に価値創出的であるが、その精髄は誕生以来何も変わっていないとさえ言えるだろう。
リュケ批判に戻ろう(前章と重なる部分もあるが、論の流れもあるので、ご容赦いただきたい)。リュケは、描写原理として、「原始 人」と子供による「知的レアリスム」、大人による「視覚的レアリスム」という、対立する二つのレアリスム概念を提出したのだが、バタ イユは、知的レアリスムによる図像が奇妙な表現となる点に注目しながらも、その不備を次のように指摘する。「リュケ氏がさまざま な描写芸術の分類に用いた知的レアリスム.......
のような範疇は、彫刻には本. 質的に...
適用不可能である96」。前述したように、バタイユは、
さらに根源的で、適用範囲が広く、そして現代芸術を語るうえで必要不可欠な概念を提出しようとしている。ここで、バタイユの批 判は、彫刻というジャンルの軽視に対するものではない。彼は、ある意味で、絵画も含めた芸術一般における触覚的要素97を強調
92 G.-H. Luquet, L'art primitif, G. Doin & Cie, 1930.
93OCI, p.247.
94Ibid., p.251. «Il semble donc que les Aurignaciens aient passé à peu près sans transition de la phase de genèse à celle que représente l'art des peuples civilisés. Ainsi les premiers hommes qui ont fait ce que nous appelons aujourd'hui œuvre d'art, auraient ignoré l'art primitif.»
95そればかりか、こうした傾向、つまり西洋美術史における異質な要素の再発見と再評価の試みは『ドキュマン』誌の 方針そのものである。
96Ibid., p.250. «une catégorie telle que le réalisme intellectuel de M. Luquet peut servir à classer les différentes œuvres de l'art graphique mais qu'elle est essentiellement inapplicable à la sculpture»
97芸術学や美術史において、触覚的要素の重要性を主張したものとしては、J.G.Herder, «Plastik», in Sämtliche Werke, Berlin
1877-1913.[ヘルダー「彫塑」登張正実訳『ヘルダーとゲーテ』世界の名著38、中央公論社、1979年]。また、リーグル
しているのである。先史時代の壁画を一般的な意味における「絵画」として見ることは、そもそも知的怠慢であろう。
バタイユによれば、時代を問わず、あらゆる芸術の生誕は「対象の破壊destruction d'objets」に関わる。インク壺に指を突っ込む ことや、まっさらな紙を落書きで覆い尽くすことが、あらゆる作品の起源とされる。ミメーシスがマチエールを必要とするのではなく、
マチエールがミメーシスを喚起するのであり、まずはマチエールに触れることが第一歩である。彼は、さまざまな落書きの例から、
「重要なのは何よりもまず、手に持っているものを変質させる.....
ことである98」という発想を導き出す。対象の変質(破壊)は、芸術の起 源に関する、その生誕過程[genèse]と天賦の才[génie]に関する、彼の論考の出発点に位置づけられる。
造形に関する第一の衝動として措定された「変質」の例として、バタイユはまず自らの想い出、「最もたちの悪い..
至福99」を述べる。
「私は授業中ずっと、インクのついたペンで、前席の生徒の制服を汚していた100」。バタイユ少年はさらに、ただ近くにあるものを汚 すだけでなく、滑稽なイラストを描くようになるのだが、それは何時でも、どんな支持体でも構わないということではない。教師の指 示に反して落書きをすることがバタイユ少年には重要だったのである。教科書に載っている歴史上の偉人、音楽室の偉大な作曲 家たちの肖像、ドメスティックな偉人の胸像などは、変質の格好の餌食であろう。「変質」の根拠は、誰にでも思い当たるような、非 常に子供じみた快楽と諧謔と反抗心に過ぎないだろう。しかしそれは、芸術創造の過程における「侵犯」の契機であり、既存の世 界への異議申し立てである(子供たちなりの、労働の世界.....
への挑戦である)。こうした「変質ー侵犯」の別の例として挙げられている のは、マルセル・グリオールが調査した、アビシニアの子供たちの「落書きgraffiti」である(図17)。「濫書症にとりつかれたアビシニ アの子供たちは、教会の柱と扉にだけ落書きをした。その件でつかまるたびに彼らは叩かれたのだが、教会の低層部は彼らの奇 妙な労作で覆われてゆくのである101」。お祈りの時間に、手の届く範囲が次々と新たな図像で埋められてゆく過程は、まさしく先史 時代の線刻画の錯綜表現に対応している。「変質」という発想の射程の広さが、徐々に見えてきたのではないだろうか。
『ラスコー』にも引き継がれる重要な視点だが、バタイユは先史時代芸術において、動物と人間の表象に差異があることを最も重 視している。つまり、動物は写実的に描かれ、人間は単純化ないし歪曲化されて描かれているという事実である。視覚的レアリスム と知的レアリスムという概念を提出するリュケの図式は、対象が造形にもたらすこうした差異、「描写表現の起源における、明白で、
衝撃的でさえある二元論102」を捨象してしまっている。そこで(同時代の芸術的動向に応えて)、バタイユは「学問的に練り上げら れた概念」に「ずっと粗野な視点103」を対置させ、「原始芸術」ではなく「変質による芸術」という区分を提案するのである。結局のと ころ、変質の作用による破壊の徹底具合が、対象(動物と人間)によって異なるということである。
[…]濫用によってのみ原始的...
と呼ばれている芸術は、単純に、呈示された形態の変質..
として特徴づけられるだろう。そのよう
は芸術が触覚的様から視覚的様式へと進展すると考え、その背後に集合的な芸術意志[Kunstwollen]の存在を想定して いる(cf. Alois Riegl, Spätromische Kunstindustrie, Wien, 1927)。
98OCI, p.252. «Il s'agit tout d'abord d'altérer ce que l'on a sous la main.» バタイユは「野生の思考」を知らないだろうが、レ ヴィ=ストロースが述べる「ブリコラージュ」は、ここでの発想に近い。レヴィ=ストロースによれば、bricolerという 動詞は「偶然の運動」を本来意味し、bricoleurは偶然集められた「持ち合わせのもの」の範囲内で創作する者である。
彼の利用できる材料は、「以前に構築したり破壊したものの残り」である。レヴィ=ストロースはこうした創作態度を、
アール・ブリュットやシュルレアリスムの「客観的偶然」にも見出し、さらには「神話的思考」の構造にも適用してい る。文化的な古層を掘り起こし、忘れられた諸作品の残滓を偶然であるかのように寄せ集め、形象化することは、バタ イユが先史時代芸術に見出した原理とそれほど遠くない。cf. Claude Levi-Strauss, La pensée sauvage, Plon, 1962, pp.30-36.
99Ibid., p.252. «une béatitude du plus mauvais aloi»
100 Ibid., p.252. «je passai toute une classe à badigeonner d'encre avec mon porte-plume le costume de mon voisin de devant»
101 Ibid., p.252. «Les enfants abyssins atteints de graphomanie ne charbonnent que sur les colonnes ou sur les portes des églises.
Chaque fois qu'ils sont pris sur fait ils sont battus, mais les parties basses des églises sont couvertes de leurs bizarres élucubrations».
102 Ibid., p.251. «une dualité si évidente et même si choquante à l'origine de la représentation figurée»
103 Ibid., p.251. «ces conceptions savemment élaborées» «un point de vue beaucoup plus grossier»
な芸術は起源から際立った特徴をもって存在していたのだが、何かを変形させるこの粗野な芸術は人間の形態の表象に割..........................
り当てられていたようである.............
。
[…] l'art qui n'est appelé primitif que par abus serait simplement caractérisé par l'altération des formes présentées, un tel art a existé avec des caractères très accusés dès l'origine, mais cet art grossier et déformant aurait été réservé à la représentation de la forme humaine. 104
なぜ人間の形象だけが殊更に変質を施されるのか、という疑問への回答は、『ラスコー』を待たなければならない。むしろ、ここで のバタイユの意図は、歪曲された人間の形象を呈示することにある。「初めから、いつでも、人間の形象は歪曲されることになって いる」とでも言うかのように(『ドキュマン』ならではの論調と言えよう)。歪曲が動かざる事実だとしても、それは如何にして為される のだろうか。彼の論は、何故変質するのかという、変質の理由ではなく、変質の過程そのものの詳細な検討に移る。(芸術の起源 における)造形や描写の第一歩が、「対象の破壊」であり、マチエールの変質と見なされていることは、先ほど確認したが、その次 にはデッサンそのものの変質が生じるとされる。支持体の破壊、マチエールの変質(第一の変質)の後、
偶然によって、いくつかの奇妙な線から、反復によって定着しうる視覚的類似が引き出される。この段階は、言うなれば変質 の第二段階であり、つまり破壊された対象(紙ないし壁)は、馬、頭、人といった新しい対象へと変形されるまで変質するので ある。
Le hasard dégage de quelques lignes bizarres une ressemblance visuelle qui peut être fixée par la répétition. Cette étape représente en quelque sorte le second degré de l'altération, c'est-à-dire que l'objet détruit (le papier ou le mur) est altéré à tel point qu'il est transformé en un nouvel objet, un cheval, une tête, un homme. 105
第一の変質によってマチエールが破壊され、第二の変質は何かに類似した「新たな対象」として見なされる。問題はその「新たな 対象」の処理である。ここで形象化、変形の過程は二つに分岐する。この過程如何によって、形象の結果に差異が生じるとバタイ ユは考えている。簡単に言うなら、完成された類似に向かうのか、なおも止め処ない変質を続けるのか、そのどちらかである。
まず類似へと向かう方向だが、この場合、マチエールの変化はモデルとの対照によって統御され、「反復の最中に、新たな対象 を、表象されたオリジナルに対する適合へと徐々に従わせる106」ことになる。つまり、オリジナルを想像しながら、馬なら馬のイメー ジになるべく近づくかたちで変形を繰り返すのである。先史時代芸術における動物の写実的な表象は、このように為されたとバタ イユは考えている(ここで同時に、なぜ人間の形象は類似へと向かわないのかと疑問を言い換えてもいいだろう)。
人間の変質
一方、人間の表象に用いられる手法は以下の通りである。
104 Ibid., p.251.
105 Ibid., p.253.
106 Ibid., p.253. «[il est possible], au cours de la répétition, de le [=nouvel objet] soumettre à une appropriation progressive par rapport à l'original représenté.»