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仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第 10地 点 (BK10)の 調査 1.仙 台城跡二の丸北方武家屋敷地区の立地 と歴史1.仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区の立地 と歴史

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報24 (ページ 31-41)

東北大学の川内地区は、沢 とその脇 を東西 に走る道路 によって、川内南地区 と北地区に分かれている。川内南 地区は仙台城二の丸が置かれた場所であ り、北地区は家 臣の屋敷が存在 した区域 に相当する。

仙台城 は、仙台藩初代藩主の伊達政宗 によって、慶長5年 (1600年)12月24日の縄張始めを噴矢 として、本丸 の築造が始め られる。 この段階では、二の丸は造 られてお らず、後に二の丸が造 られる場所 には、政宗の四男で ある伊達宗泰の屋敷があった と伝 え られる。元和6年 (1620年

)に

は、伝伊達宗泰屋敷の北側 に、政宗の長女五 郎八姫の居館である「西屋敷」が造 られる。政宗死去後二代藩主 となった伊達忠宗 によって、寛永15年 (1638年) に二の丸が造 られると、仙台藩の政治・儀式のほ とん どは二の丸へ移 される。二の丸は、元禄年間の改造 によっ て、 もとのi「西屋敷」の敷地 を取 り込んで拡張 され、幕末 まで仙台城の中枢 として機能 してい く。

仙台城下は、仙台城本丸の造営 に伴 って造 られてい く。慶長6年 (1601年

)の

正月11日 に、仙台城の普請始め が行 われ、同 じ日に「御城下地形 ノ絵図 ヲ以テ諸士等 ノ屋敷割仰付 ラル」 との記録が残 されている (『貞 山公治 家記録巻之二十一』)。 この時以降、城下の建設が進め られていった もの と考 えられる。

正保2年 (1645年

)の

『奥州仙台城絵図』 においては、仙台城の周辺には「侍屋敷」が広がっていたことが判 り、おそ らく本丸の造営が開始 された頃か ら、屋敷が造 られていった もの と思 われる。正保絵 図は幕府提 出用の 絵 図のため、細かな屋敷割は記 されず、屋敷 を使 っていた人名 は判 らない。それ以降の藩政用絵図には、屋敷割 が記 され、人名が書 き込 まれた ものが多 くある。川内地区においては、大手門の周囲などに最 も上級の家臣の屋 敷が置かれ、それ以外の区域 に も比較的上級の家 臣の屋敷が多 い。東北大学の川内北地区 も、比較的上級の家 臣 の屋敷が置かれていた。

明治維新 による新政府の成立 と幕藩体制の崩壊 によ り、仙台城 とその周辺 も大 きく変化する。明治2年 (1869 年

)の

版籍奉還 によ り二の丸 には勤政庁が置かれ、明治4年 (1871年

)の

廃藩置県後 は、仙台城が明治政府の管 轄下に移 り、二の丸 には東北鎮台(後に仙台鎮台)が置かれる。本丸の建物 は明治の早い時期 に取 り壊 されるが、

二の丸の建物 は鎮台本営 として引 き続 き利用 された。 しか し明治15年 (1882年

)の

火災で、二の丸建物のほ とん どが焼失 して しまう。そ して明治19年 (1886年)には仙台鎮台か ら陸軍第二師団に改称 され、明治21年 (1888年)

には正式に師団常備軍制度が施行 され、敗戦 まで続 くこととなる。二の丸跡 には、第二師団の司令部が置かれた。

川内地区の仙台城周辺の武家屋敷 も、明治に入 ると取 り壊 され、その多 くは後の第二師団の用地 となってい く。

東北大学川内北地区には第二師団の歩兵隊や軸重隊などが置かれていた。

川内北地区周辺の道路の配置 は、絵図を見 る限 りでは、江戸時代 を通 じて変化が無い。 しか し、明治時代 に、

この区域の道路 は大 きく改変 される。現在の道路配置は、 この時に改変 された ものであ り、江戸時代の道路 とは 大 きく変わっている。明治時代 の地図の検討か らは、明治15年 (1882年

)か

ら明治26年 (1893年

)の

間に、川内 北地区周辺の道路 は、現在見 る形 に変わっていった もの と考 えられる。おそ らく、明治21年 (1888年

)の

陸軍第 二師団の設置に前後 して、この区域の整備が進め られていった もの と考 えられる。

なお、 この地区での武家屋敷の変遷や、明治以降の変化 については、二の丸北方武家屋敷地区第7地点の調査 成果 をとりまとめた、年報19の第1分冊 において詳 しく検討 しているので、そち らも参照 されたい。

戦後 は、川内地区一帯が米軍の駐留地 となる。昭和32年 (1957年

)に

米軍か ら返還 された後、川内北地区には 東北大学教養部が、川内南地区には文系4学部や図書館 などが置かれ、現在 に至 っている。

2.調 査経緯

(1)2005年度 までの調査

東北大学川内北地区は、仙台城二の九に隣接す る武家屋敷が存在 した場所で、仙台城 と密接 に関連する区域の ため、周知の遺跡である仙台城跡 に含 まれている。当調査室では、二の九北方武家屋敷地区 と呼称 している。

二の丸北方武家屋敷地区では、2005年度 までに第1から第9地点 までの調査 を実施 して きた (図3)。 第1地 点は試掘調査のみであったが、一部重 なる区域で第7地点の調査 を実施 している (年19)。 第2地点 と第3地 点は、立会調査で終了 したため欠番 としている。 したがって、実質的には、第4地点か ら第9地点 までの6地点 を調査 していることとなる。 この内、第5地点 (年7)、 第6地点 (年14)、 第8地点 (年報20)は、小規模 な調査であった。第9地点 (年報21)も、調査面積 はさほ ど大 きくない。面積の大 きな調査 は、第4地点 (年報 13)と7地点 (年報19)の 2ケ所で、多数の遺構 と膨大な数の遺物が出土 している。検出遺構の中には江戸時 代初頭 に遡 るものが確認 され、仙台城築城 と同時に武家屋敷 として整備 されたことが判明 している。 また明治時 代 にな り屋敷が取 り払われた後、陸軍が使 うまでの間、畑 として利用 された時期があることが判っている。

(2)調査地点の位置

川内北地区では教養教育が行われてお り、そのための講義棟が並んでいる。講義棟の西側には、教養教育 に使 用 されている共通実験棟がある。今回の調査は、共通実験棟の改修に伴い、一部で増築が行われる部分の調査で ある。増築は、実験棟の入 り回部分 と、中庭の東 よ りの部分で行われることとなった。入 り口部分を1区、中庭 部分 を2区とした (図10)。 共通実験棟の周囲では、エ レベー ターの設置 に伴 い、入 り回の南側で1989年度に調 査 を実施 した、二の丸北方武家屋敷地区第5地点 (BK5、 年報

7)の

調査区がある。第5地点では、東西方向 に伸 びる溝跡 などが検出 されている。今回の調査の1区が、第5地点調査区 と接す る位置にある。

10 

武家屋敷地区第10地 点調査区の位置

Fig.10 Location of BK10(BK10 1.e.Location 10 of sα ″″residence)

(3)調査の方法 と経過

2006年 度に、共通実験棟の入 り口部分 と中庭部分 に建物 を増築する改修工事が行われることとなったが、第 5 地点の調査結果か ら、予定の工事掘削の深度が遺構面に達することが予想 された。そのため、増築部分 について は、工事 に先立 って記録保存のための発掘調査 を実施することとなった。増築部分以外の各種設備関係や外構 関 係の工事については、第I章で述べたように、立会調査で対処することとした。立会調査部分では、遺構 。遺物 の発見はなかった。

調査 は2006年10月 2日か ら11月 10日 の期 間で実施 した。1区では遺構面直上の盛土 を50〜80cm重機で掘削 し た後、手掘 りで遺構 の精査 を行 った。2区では盛土 を40〜50cm重機で掘削 した ところ、地 山面が露 出 し石垣 が 確認 された。2区では石垣以外 には遺構の検 出はな く、石垣の調査 を手掘 りで行 った。

川内地区では、1991年度 と1992年度の 2ヶ 年 にわたって、測量用の基準点 を設置 し、調査地点 を国土座標上 に 位置づけて記録 して きた。その後、北地区では工事等の際に破損 した り滅失する事例が相次 ぎ、今 回の調査区で も、近 くの基準点が減失 して しまっていた。 また、改修工事 と併行 した調査のため、工事用の仮囲いで さえぎら れ、測量基準点の視準が難 しい状況にあった。そのため

t基

準点の国土座標値 の測量が行 えず、既存実験棟 の位 置 を記録す ることで、地形図上に位置づけることとした。

平面図・断面図は縮尺20分 の1で作成 し、記録写真 は

35mmの

カラー リバーサルとモノクロを使用 した。

3.検

出遺構

(1)1区

の遺構 (図11、 図版1・ 2)

1区では、近代以降の盛土 を除去すると、す ぐに地山面が露出 した。全体 に攪乱が多 く、保存状態 は良 くない。

調査 区西壁側 は、既存実験棟建設の際に掘削 されている。調査区中央 には、排水管 による攪乱が南北方向に伸 び ている。 これを横切 る形で も、配管埋設による攪乱が各所 に認め られた。 また、南北 に並ぶ ように礎石が確認 さ れたが、掘 り方 に煉瓦が含 まれていることか ら、明治以降の第二師団にかかわる礎石 と判断 し、平面図では攪乱 として表現 した。

1区で検 出された遺構 は、溝2条、井戸1基、 ビッ ト1基である。武家屋敷地区第5地点

(BK5)の

調査 で 検出 された1号溝が、今回の調査 区に伸 びて くるもの と考えられるが、検出で きていない。後述の ように、一部 が井戸の脇 に残 されていた可能性 もあるが、調査時点では確認で きていない。

【1号溝】

調査区の北 よ りの部分で検出 した。調査 区にほぼ直行 し東西方向に延びる溝であると判断 される。検 出 した部 分で長 さ190cmで、若千湾曲するが、溝の方向はN‑68° E程度である。上幅210cm、 深 さ80cmで ある。断面 は

V字

状 を呈す るが、底面付近 は、幅30〜70cm程度が一段深 くなっている。一段深 くなっている部分 は、流水の 影響 で形成 された可能性 も考 え られるが、埋土 にはラミナ状の堆積 は見 られなかった。

陶磁器が出土 しているが、 ご くわずかである。磁器の仏飯器 を除 くと、いずれ も細片のため、詳 しいことは判 らない。ある程度特徴が判明す るものは、磁器の仏飯器 だけである (図14‑CJ l)。 これ も文様部分がほ とん ど 失われてお り、詳細 な時期 を検討することは難 しいが、釉薬 にややむ らがある様子 などか ら、おおむね18世紀頃 の もの と思われる。 これまでの調査では、断面形状が

V字

状 を呈する溝 は、武家屋敷地区第4地点の調査 の際に、

江戸時代初頭の時期 に確認 されているだけであった (年13)。 この磁器の年代観が、溝の時期 を示す とす るな らば、

V字

状の断面形状の溝 は、18世紀頃 まで存在 したこととなる。

2号

溝】

調査 区南東隅で検出 した。検 出 した部分での溝の向 きは北西 ―南東方向であるが、一部の検 出であ り、全体の 形状 はよ くわか らない。検 出 した部分で長 さ160cm、 上幅110cm、 下幅70〜80cm、 深 さ20cmである。断面は逆台形

孤 珈

10m 0

L

J A

1号

3 4 5 6

1号井戸

75YR4/1 褐灰色 砂質 シル ト 粘性弱 しまり弱 21h大の礫 を含む

10YR4/2 灰黄褐色 粘土質 シル ト 粘性 中 しまり中を主体 とし、層下部に10YR6/6明 黄褐色 粘土 粘性強 しま り中のプロックを含む 中央に1∝口大の礫 を含 む

10YR3/2 黒褐色 シル ト 粘性中 しま り中 2〜3cmの小礫 と鉄分をわずかに含む 25Y4/4 オ リープ褐色  粘性弱 しまり弱 2〜3cmの小礫 をわずかに含む 25Y3/5 暗オリープ褐色 粘土質 シル ト 粘性 中 しま り中 径5cm程 の小礫 をわずかに含む 10YR4/6 褐色 粘土質 シル ト 粘性中 しまり中 2〜3cmの小礫 をわずかに含む

B

B' トーー61.4m

――∞.Om

0      2m

5YR2/1 黒褐色 砂質シル ト 粘性弱 しまり中 径1〜2cmの小礫 を多 く含む 鉄分の沈着が著 しい

10YR4/6 褐色  粘性弱 しまり弱 5cmほどの環 を多 く含む

75YR4/3 褐色  粘性弱 しまり弱 5〜15cmの礫 を多量 に含む 鉄分沈着 10YR5/2 灰黄褐色 粘土質 シル ト 粘性弱 しまり中 2〜21■mの 礫 を多量に含む 10YR6/8 明黄褐色 粘土質 シル ト 粘性 中 しまり中を主体 とし、10YR3/2 黒褐色 粘土質 シル ト 粘性中 しまり中を斑状 に含む 径5cm大 の礫 を含む

6 7

25Y4/2 暗 灰 黄 色 粘 土 質 シ ル ト 粘 性 弱 10YR5/1 褐 灰 色 粘 土 質 シ ル ト 粘性 中

 鉄 分沈 着

10YR3/3 暗 掲 色  粘 性 弱 し ま り弱

75YR5/2 灰 褐 色  粘 性 弱 しま り弱

しま り中 2〜5mの礫 を多 く含む しまり中 3〜mmの礫 を多量に含 2〜Юmの礫 を多 く含む 5c田大の礫 を多 く含む 鉄分沈着 2

3 4 5

11 

武家屋敷地 区第 10地 点1区検 出遺構平面 図・断面図 Fig.1l  Plans and cross sections of features at location l of BK10

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報24 (ページ 31-41)

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