• 検索結果がありません。

第3章 三田谷啓が考える障害児教育の在り方

第3節 今後の課題

 まず研究課題としては、今回の研究ではドイツ留学帰国後の翌年にあたる 1915(大正4)年から翠丘尋常小学校設立前後の1938(昭和13)年までを中 心に取上げて、治療教育院設立前の三田谷啓の障害児教育観の形成過程や治療 教育院設立後の取組みについて分析してきた。しかし、翠丘尋常小学校設立以 降の三田谷啓の障害児教育観に基づいた詳細な教育実践の内容検討と戦後の

「精神薄弱児」施設としての教育実践において、どのように彼の教育観が踏襲 されたかについての検討は今後の課題である。

 また、戦前期における他の障害児教育施設(精神薄弱児施設など)における 教育実践や創始者の障害児教育観との比較検討がある。戦前期においては、三

田谷治療教育院の他に異なる障害種の子ども連を受け入れていた施設として、

脇日ヨ長吉の白川学園(1909睨冶42】年創設)や渡辺代吉の富士育児院(1903[明 治36]年創設)が存在する。これらは、共通して20世紀初頭に設けられた施設 である。三田谷が治療教育院を設立する20年位前に施設を創設していたので、

時代背景も若干異なる。そこで、時代背景が若干異なるなかで異なる障害種の 子ども連を受け入れていた他施設との教育実践や創始者の障害児教育観を比較 検討することで、戦前期における三日ヨ谷治療教育院の教育実践や創始者である 三田谷の教育観にどのような独白性があったのかを検討する課題が残されてい

る。

 次に実践課題としては、三田谷の障害児教育観に基づく特別支援教育の展開 とその内省が課題であると考える。創始者である三田谷が意識していた障害児 教育観による治療教育院での実践は時代背景や情勢の異なる特別支援教育のな かで、どう活かされるのか。三田谷の取組みが今日の特別支援教育の現場で活

かされるためにも、教員が戦前期の三田谷の取組みから障害児教育の意義や本 質をとらえて、再確認したうえで日々の実践を行ない、内省していく必要があ

る。

1)三田谷啓「特殊見童の學校村の施設に就きて」,救済研究、第9巻第10號,

 1921年,(『救済研究 第九巻上』,文京出版,所収),pp.35−36.1975年。

2)蒲生俊宏「障害児の施設における教育」,中村満紀男・荒川智編著『障害児  教育の歴史』,明古書店,所収,P.250.2005年。

3)三田谷治療教育院に1938(昭和13)年4月にそれまで児童中心主義教育の  一躍を担っていた芦屋児童の村小学校が移転し、同年10月には校名を私立  翠丘小尋常学校と改称した。翠丘尋常小学校は肢体不自由の子ども、一身体お  よび知能発育の遅滞している子ども、感覚器に障害のある子ども、身体虚弱  等のための特別の対応が必要な子ども、特殊事情のために共同学習が困難な  子どもに対して「特殊教育」を施し、医学と教育の密接な連携のもとに児童  の生活の改善を図ることに努めている学校であった。(駒松仁子『シリ』ズ福  社に生きる 三田谷啓』,大空杜,2001年。)

4)三田谷治療教育院「三田谷治療教育院報告書」,p.2.1935年。

引用・参考文献一覧

(引用文献)

1) 富士川游・呉秀三・三宅銭一『教育病理学』,同文館,1910年,

   (児童問題史研究会『日本児童問題文献選集21』,日本図書セン

  ター,所収),p.242.1984年。

2) 三宅銭一『白痴及低能治見』,吐鳳堂,1914年,(児童問題史研

  究会『日本児童間題文献集33』,日本図書センター,所収),p.41.

関連したドキュメント