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巻 第 六 号

二 ︱ °

︵一

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八 ︶

( 74 )  

︵三

浦雅

士︑

今村

仁司

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わたしは︑本稿において︑ここまで︑

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におけるイーグルトンの議論を紹介・整理し︑彼が批判の

対象としているもの︑反対に批判しつつも彼が可能性を見出しているものを示してきた︒ここで改めて整理すると︑

彼が批判しているのは︑現実を問題にしながら︑その実︑現実から逃避し︑現状維持をもたらしてしまうような思想

傾向であったといえよう︒最終的に︑イーグルトンは︑彼が抑圧的であるとみなしている現実の社会的・政治的な問

題│ー'たとえば男性支配的・家父長支配的社会︑階級支配的社会ーを基礎づけているものを解体するという目的か

( 75 )  

ら︑不在の中心

I I

︵大橋洋一︶としてのフェミニズムとマルクス主義に期待を寄せるに至るのである︒

しかしながら︑イーグルトンの議論には︑多くの人がもどかしさや物足りなさを感じずにはいられないのではなか

ろうか︒イーグルトンの主張の重要な点として︑文学批評やアカデミズムにおける文学制度は︑ものごとの政治的な

( 7 6 )  

ありかたの諸前提を支え︑強化することに奉仕してきたのであり︑したがって文学理論の歴史は︑政治史やイデオロ

( 7 7 )  

ギー史の一部として︑言い換えれば﹁わたしたちの時代を概観できる特定の視座﹂として捉えうるという主張が挙げ

られる︒イーグルトンは︑その根拠を︑ヴィクトリア朝期から第一次世界大戦前後のイギリスにおける文学教育制度

の整備やその後の文学︵批評︶理論の発展︑あるいは現象学をはじめとする文学理論に影響を与えたさまざまな思想

の政治的な側面を明らかにすることによって示そうとしてきた︒しかし︑そのようにして文学理論の政治性を暴露し

た上でどこへ向かうのかという点を︑イーグルトンが明確にしているとはいえないのである︒

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において︑文学理論の境界を拡大して

( 78 )  

その中にすべてを包摂することを提案し︑その足がかりとして修辞学

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を復権させることを提唱してはい

政治

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実際︑イーグルトンは︑

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ろう

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在の文学理論や思想の状況︑

マルクス主義批評家︑あるいはさ

0)

るものの︑彼が達成すべきであると考えている理想については︑ほとんど何も語ってはいないのである︒彼が現

ひいてはそれらを取り巻く社会状況に対して問題意識を抱き︑現状を変革するべく批判

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Theoryにとどまらず︑彼の著作にわずかであれ接しさえすれば︑容易に読

( 79 )  

み取ることができるのであるが⁝⁝

それゆえ︑わたしが本章の冒頭で引用しているような批判がイーグルトンに対して向けられることになるのである︒

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テリー・イーグルトンは︑

ドグマティックでステレオタイプなI I

まざまな理論・思想を整理するにとどまる︑

た彼自身が批判した︑よるとさわるとデイコンストラクションを行なう

I I

ポスト構造主義者と何ら変わるところの

ない人物なのであろうか︒ いうなれば交通巡査

I I

のような存在にすぎないのであろうか︒はたま いずれにせよ︑イーグルトンがクリステヴァに突きつけた︑現状を解体しようとするの

みで︑新たなものを構築しようとはしていない"という趣旨の批判が︑イーグルトンその人にも向けられるものであ ることは確かである︒このような批判や疑問に対して︑イーグルトンはどのような反論や回答を示すつもりなのであ

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理論や方法論から出発するのではなく︑わたしたちが行ないたいことから出発し︑自己の目的を達成するため に最も役立ちそうな方法や理論がどれかを確認する︒自分が用いる戦略を決定することは︑どの方法やどの研究 対象が最も有効であるかということをあらかじめ規定してしまうことにはならないであろう︒研究対象について

続けるかといえば︑それは定かではないのである︒

( 80 )  

いえば︑何を検討するかは︑実際の状況に左右される部分がきわめて大きいのである︒︵傍点部原文イタリック︶

つまり︑イーグルトンは︑少なくとも

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0 においては︑自分が依拠する理論を明確に示す意思をそも

そも持っていないのである︒無論︑彼自身が理論や思想に依拠していないというわけではない︒イーグルトンは︑

﹁いかに不十分で不明確なものであれ︑何らかの文学理論がなければ︑そもそも文学作品なるものが何であるか︑あ

( 81 )  

るいは文学作品をどう読むべきか理解できないであろう︒﹂と述べて理論の重要性を強調し︑実際︑先に見たように︑

︵文学理論︶に可能性を見出してもいるのである︒しかし︑彼は︑それら

がどのような場面においても信頼するにたる理論であると主張しているわけではない︒彼がマルクス主義やフェミニ

ズムから何かを学び取ろうとしているのは︑彼が現在自分のおかれている状況から判断して︑それらが自己の目的

を達成するために最も役立ちそうな理論であると判断しているからにすぎない︒言い換えると︑状況が変われば︑

イーグルトンは別の理論に基づいて批評活動を行なうかもしれないのである︒

わたしは︑本稿のはじめにでイーグルトンのプロフィールを紹介した際に︑彼の一般的な呼称を︑﹁

マルクスI I

主義︵文芸︶批評家﹂とクォーテーションマークをつけて示した︒この表記に︑わたしは︑ある意味合いを込めた

つもりである︒すなわち︑彼が今後もマルクス主義に依拠し続けるのか否かを明確に示すことはできないという意味

である︒少なくとも︑目下のところ︑イーグルトンがマルクス主義に依拠していることは︑彼のどの著作からも容易

に窺い知ることができる︒しかし︑繰り返しになるが︑将来においても︑彼がマルクス主義を自らの拠りどころとし

政治的自発性の追求 マルクス主義︵文学理論︶やフェミニズム

~

途方にくれるほかはない︒ ひいては

文学として位置づけられている作品など︑I I

ので

ある

い︒状況に応じて理論を選び取るということを主張する以上︑

︵一

八︱

二︶

また︑イーグルトンが

現状1 1

I I

分析を行なわないことについても︑必ずしも否定的に捉えることはできない︒イー

グルトンが一八世紀の文学を批評の対象として取り上げるのは︑それがまさに彼の

行ないたいことI I

I I だからである︒

無論︑イーグルトンは︑何の目的もなく一八世紀の文学を研究対象としているわけではないであろう︒イーグルトン

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0において示したのは︑本稿においても検討したように︑文学制度︑すなわち批評理論や文学教育︑

いわば

文学I I

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の総体が政治性やイデオロギーと不可分であ

り︑批評理論に影響を与えたさまざまな思想にも︑現行の

文学を解体しえない要素を含んでいるものがあるといI I

うことであった︒したがって︑そのような文学制度の一部である一八世紀の文学を研究対象とすることも︑やはり現

状へのアプローチの一環としてみなすことが可能なのであり︑政治的にも意義のあることとして捉えることができる

また︑イーグルトンが自分の理論的・思想的立場からの見解を加えつつも︑

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o 屯において批評理論や

そのもととなった思想を紹介するにとどめ︑

教科書ライターに徹していることも︑決して意味のないことではな1 1

いずれかの理論を絶対的なものとして読み手に示して

しまえば︑その主張に矛盾が生じてしまうからである︒とはいえ︑やはり︑そのようなイーグルトンの姿勢には︑割

り切れないものを感じずにはいられないことも事実である︒読み手としては︑賛同するか批判するかは別としても︑

書き手に自分の立場を明確に主張してもらいたいと考えるからである︒ガイドプックのようにさまざまなものを紹介

されたとしても︑内容が豊富であればあるほど︑読み手は示されたものを前にして︑かえってどうすればよいのか︑

関 法 第 五 二 巻 第 六 号

二︱

二︱ 五

しかし︑そのように読者をある種の混沌の中に投げ出すことこそ︑まさにイーグルトンが意図したことであるとい

うべきであろう︒イーグルトンが

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において指摘したのは︑文学理論の主体性の欠如ーすなわち︑

結果として現状追認に傾くその姿勢ーであった︒そうであるならば︑主体性を確保するための道筋が示されなけれ

ばならない︒その道筋こそ︑

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0 におけるイーグルトンの姿勢それ自体にほかならない︒

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の読み手は︑自分たちが政治やイデオロギーの拘束を受けている可能性を自覚した上

で︑そこで紹介されている理論や思想の中から︑あるいはそこから関心を広げて接することになった理論や思想から︑

自分がコミットしようとする問題に切り込んでいくために最も役立つものを︑まさに

主体的に1 1

1 1 選び取るよう仕向

けられるのである︒イーグルトンがあえて自分の立場を明確にしなかったのは︑読み手の︑ひいてはテリー・イーグ

ルトンその人の主体性を確保するためであると考えることができるのである︒

この問題を考える上で有益な示唆を与えてくれるのが︑藤田省三である︒藤田は︑﹁主体なんていうものはないん

だ︒態度と活動と原則があるだけなんだ︒この問題に対してはこういう原則で︑こういう考え方から︑こういう対応

( 82 )  

をするというのが人間の総体であって︑主体というのはそれの総合体を仮に呼んでいるだけ︒﹂と喝破する︒この藤

田の考えかたは︑状況に応じた理論の選択と適用を主張するイーグルトンとも通じ合うとはいえまいか︒

さらに藤田は︑﹁主体の反対は客体ですよね︒主体というのが確固としたものとしてあって︑客体に働きかける︑

そういう考え方ですね︒﹂という岡本厚の問いかけに対して︑﹁あるのは働きかけだけなんだ︒あるものに対してはあ

る働きかけをし︑他のものに対しては他の働きかけをする︒その働きかけの最初を僕はイニシアチプと呼ぶんです︒﹂

と応じ︑﹁みんながイニシアチプを発揮した瞬間に自由がある︒イニシアチプの自由が自由なんだ︒﹂と主張する︒そ

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