デに従って概観して
きた。
彼は
市民共同 体と市参
事会
との関係、
これら市民
屈と、
都市
君主ない
しその
役人、
あるい
は
これに類する封建支
配者
肪と
の関係に視点
を据え、
市民自治 の発展図式を
かなり明快に我々に示
してくれたように
思われる。
とこ
ろで、
ここ
でのエンデの主た
る課題は、前述の図式を全面的に
展開する
ことではなく、第一に、
市民
自治の担
い手たる市民共同体の成立と、
そ
こから分離自立してい
った 市参事
会の前者に対する支配の基礎
の確立過程
が、基本
的には、いわば「自然成長的」なものであっ
たこ
と、第二に、
その過程は、
市内における権力
関係の みなら
ず対外
的
この二点が、
な権力関係
の変遥
との、総体的な
述関
の中で進行
した こと、
以上の二点を
実証する
こと
にあ
った。
リ ュ ーベ
ックの
成立
事梢についてこれまで通説と考えられてきたレーリヒの建設
企業者
団説に
対して、基本的な点で、批 判を投げかける
こと
にな
った。
以下において両説を
検討する
が、
特に重要な
問題に限定する。
第 一に、
市民共
同体の成立に関してである。
レー
リヒは、ハインリッヒ獅子公
の要品に応じて
リューベック市場建
設を担っ
た、
宮裕な
辿隔地荊人
から威る建設企業者団が市
参事会の母胎になった
と考え、
市民共
同体そのものに
つい
第3 1巻第1 • 2 · 3号 て言及
しなかった。さら
にハ
インリッヒ獅子公以前のホルシュタ
イン伯支配
のリ
ュー ベ
ック
と、
建設企業者団によって建設された
リュ
ー ベック
との
関連性を彼は否定した。
従っ
て、
彼は市民共同体
の市 民自
治における
重要
性について
否定
的な立場にある。これに対してエンデは、
ホ
ルシ
ュタイ
ン伯支配期11
シャ
ウエンプルク期に既に市民共同体は成立していた
ので
あ
り、
ハイ ンリ ッヒ
獅子公
への
都市君主
の交
代とそれに伴
う特 許状の
付与は、
この
市民共同体
の自
治の
展開
にとっ て一 近大法学
属好都合な前提となったと考え、
( 1 )
しめたと主張する。従っ
て、
既存の
市民共同体が
「断
絶するこ
となく」
「連続
的に」存続し、
市民自治を発展せ ハイ
ンリ
ッヒ
獅子公の下
でも 市民自治の担い手はまさしく市民共同体であったということである。彼はレー リヒ の主張
する建設企業者団
の存
在に疑問を呈する
ので
ある。
-
142-早計な結論は慎まなければならないが、建設企業者団に関する直接的な史料が残存していないこ
と、
リュ
ーベッ
クにおける遠隔地商業の発展はハインリッヒ獅子公
の支 配期
以降であること
を考慮
すれば‘五八ー五九年
の建
設期における
「富裕な」
遠隔
地商人の稜極的な活動
には疑問の
余地があり、エンデが説明するごとく、既存の市民共同体がハ
イン
リッヒ獅子公から特
権を付
与され
て市を再
建したと考える方
がより妥当性を
持つように思われる。
第二に
、市参事会
の成
立とそ
の権力の確
立過程についてである。
まず市参事会の成立であるが、レーリヒは建設企業者団に由来する、生活必需品取引の
規制を担当した
「市民官
庁」
が、
フリ
ード
リッヒ一世
の特
許状の
付与によっ
て次
第に権限
を拡大
させていき、ハイ
ンリ ッヒ 獅子公
の特許状、
十二
世紀末までには市参事会と直接関連する官庁となったと考え
る。
端的に言えば、富裕な遠隔地商人等が、
(
2
)
その
「支
配の
正当
性」を、特許状によっ
て保
証されることによっ
て、
彼らから成る市参事会が十二 エンデ
の言葉 によれば、
世紀末には成立し、それが史料
上で
は
―二
O一年に
登場
することになったの
であ
る。これに対してエンデは、建設企業者団
ではなく
、市民共同体がハインリッヒ獅子公から特許状を
付与され、
その結
果市場
裁判を行う機関として
「市民委
員会」
が市民共同体内に
設置され
、これが後に市参事会に転化したと考える。従って、最初から特権的市
民が市
民委員会
を構
成した
訳で
はな
い。
この市民委員会が市参事会となったのは、
十二 世紀末ではなく
、―二0一年のこと
であ
る。これは市民共同体と都市君主との対抗関係にお
いて把 握され
るべきである。即ち、都市君主とその役人たる
フォー
クトの支配に対す
る市民 十二、 三世紀の リ ュー ベッ ク 市 に お け る市民自 治の展開
共同体の自
主・
自立
への要求
が、―二
O一
年都市君主的勢力がデンマーク王の南下とともに市から
追放され
ると
いう
政治的事件を契機に、前述の市民委員会の名称を「市参事
会」に変更
せしめたのである。その背景には、それま
での
都市君主の頻繁な交代によって市民が市政に関する
様々
な権限を蓄積さ
せてきたと
いう 市民
の自治意識があった
であ
ろう。
って、従
―二0一年は既に成立していた市参事会が史料上に初めて現われた年
ではなく
、市参事会が
制度
的に成立した年であった。
レー
リヒが市参事会を特権的市
民か
ら成る建設企業者団に由来し、十二世紀末に成立したもの
と説
明するのに対して、エンデは市参事会が、市民共同体の一代表機関として―二0一年に都市君主との対抗関係
にお
いて成立した
ので
あり、その成立の担
い手
は「
市民」
であ
ったと強調するの
であ
る。
次に市参事会が市内
で権力
を確立
させて
いく
過程
につ
いて であ
るが、まずレ
ーリ
ヒの説明は、
残念
ながら、
我々
に必ずしも
明瞭な印象
を与えてくれな
い。
即ち、彼によれば市参事会が
オープ
リッ
ヒカ
イトとして活動する市政
体制が
事実上成立
するのは
―ニ
ニ五
、六年の頃である。市参事会は十
三世
紀中に、
国王の フォ
ークトを排除し全ての裁判権
第31巻第1 • 2 · 3号 を収 める こと に成功し、
市民共同
体と の関 係に おい ても市参事
会は 上位を占め
た。
市参 事会が都 市法制定
の決 定的な ファ クタ ーと なり
、市民 共同体は
一般的な同
意が 認められた
にすぎ なか った
。し かし十三世
紀中は、
両者
の制 度上の 対立はなく
、十三 世紀末以降市参事会員と市民
との
制度
的区別
が登 場す るが、
市参事会が市民共
同体 の
「特 別の 機関
(3)
へと
発展 する ことは控えられた。
(be sonder
e O rgane)」
以上の 如く、
レー リヒ の所 説は、
―つ は、
必ずし も具体的
では ない
、国王
のフ ォー クト とい う抽象化さ
れた 都市君 近大法学主とそ
の役 人に対する
市民自治
の確 立と
、もう
―つ は、 市参事
会の 市民共同
体に 対す る優 位が認められる
もの の、基
本的
には
両者の
協調関
係に よる市民自
治の 展開 とい う二 点か ら成り立
って いる
。彼 の所 説の 難解さ
は、
彼が、
この よ うな市参事
会を中心す
る市民自治
は制 度的 には
―ニ ニ五
、六年頃確立
した と考 える ため に、
その 後市参事
会が獲得し
144 -た市政上の
様々 の権 限が 市政構
造の 展開 にと
って
いか なる 意味 をも った のか を彼が画
定し てい なか った こと にある。
これ に対し
て、
エン デは 市参事会
の権 力確立過
程を、
市参事会と市
民共 同体と都
市君主との
政治的 力関係 の変 動に 関連 せさ つつ 説明する。
即ち
、
―ニ ニ五
、六年頃
の時 期は、
フリ ード リッ
ヒ一
世の 特許状 の改 ざん とフ リー ドリ ッヒ 二世 の特 許状の
授与 によ って市参事
会が都市君主権を
制限し、
他方市
民共 同体か
ら都
市法制定権を猥
得し た段 階に す ぎな かっ たの であ る。
―二
四0年代
に至
って
初め て、
すべ ての 裁判権を
掌中に
し都 市君 主を 無力化さ 市参事 会は、
せ、 市内 で最 高の 権力 機関となり
、さ らには
他の 市民か ら自らを社
会的 に区分し
ようと
試み るに 至っ た。 しか しこ
の
時期の市
参事 会の 権力は 対外的 に脆弱 であり
、
いわ ば権力の
真空 地帯に
外部
の封 建勢力
が侵 入す るこ とを阻止す
べ
v、
周辺 の領邦君
主と 保設盟約を
結ん だの であ る。 十三世 紀末 に至り
、市参事会は、
その 構成員を 商人に限
定す るこ とに よっ て、 大商人
によ る市 内で の支 配の 法的韮礎を
つくりあげた
ので ある
。他方保必
フォ ーク トも この時 期に 名目
的なもの にすぎなくなり
、対外的
にも 市参事
会は その 存在を主張
しうる
に至
った
ので ある。
以上
、市参事
会の市 政に おけ る支配の
基礎の 確立は、
エン デに よれば‘
とり わけ都市君主権
の無 力化 と表哀
一体を なし て進行
して いっ たの で 第三 ある。
に、市を 取巻く都市君主な
いし これ に類する近隣
諸侯 につ いて である。
この 点の 解明 こそ エン デが最
も力 点を 置くと
ころ であ
り、他方
レー リヒ 説に おい て最 も欠け
てい た点 でも ある。
エン デに よれ ば、
リュ ーベ ック 建設以来十二
、三
世紀に至
るま での市民自
治の 展開にお
いて
、市民
の最 も重大な関 十二、 三世紀のリ ューベック市における市民自治の展開
心事の
―つ は、
ある いは
「潜在 的な」
都市
君主と して のホ ルシ ュタ イン 伯家 から の離 脱で あっ 都市君
主と して の、 レー リヒ は市民自治
の端 初を ハイ ンリ ッヒ獅 子公 の建 設に おき、
それ以
前の ルホ シュ タイ ン伯 の支 た。
前述 の如
く、
エン デは 市民自治
の端 初がむし
ろホ ルシ ュタ イン 伯の 建設 にある
こと
、
配期の市 民自治の 存在を否
定し たが
、
その 後 の市 民自 治の 展開 にお いても
ホル シュ タイ ン伯 家と の関 係こ そ重 要で ある と主張する
。十二 世紀中、
ハイ ンリ ッヒ獅 子公の 支配期を除い
て都市 君主的支
配を及 ぽし、
市の 皇帝直轄都市
への
昇格後も市
に実効的
支配を及
ぽし たの はまさ にホ ルシ ュタ イン 伯家 であ った
。さ らに十三世
紀に入
って
、市参事 会が成立
した こと
、フ リー ドリ ッヒ 一世の 特許状 の改 ざん フ、 リー ドリ ッヒ ニ世 の特 許状の
付与 のい づれ の行 動の 背景 にも、
主に この 都市君
主、
ある いは そう でな く とも常に近隣
に位置し、
北ド イツ で強大
な軍
事
・政治力を誇
るホ ルシ ュタ イン 伯家 の支配を免れ
よう とする
市民 ない し市参事
会の 意図が強く
働い てい たの であ る。
一時期市と
ホル シュ タイ ン伯 は
―二 四0年代 に友好関係
を結
ぶが
、両
―二
六0年代、
さら に十 四世紀 にも、
しばしば悪
化した のである。
ホル シュ タイ ン伯 は、
いわ ばリ ュー 者の 関係は、
ベッ
ク史を歴
史的 に縦 に貫く、
市の 競争相 手とし
て存 続し たの であ
り、
市な いし市参事
会の 様々 な政治的 行動も伯家