への展開を語ることになるのである︒
﹃浄
土論
﹄の
真実
智慧
無為
法身
を釈
して
︑ 真実智慧トイフハ実相ノ智慧也︒実相ハ無相ノ故−一真智ハ元知也︒元為法身トイフハ法性身也︒法性寂滅ナルガ 故に法身ハ元相也︒元相ノ故ニ能グ相ナラザルコト元シ︒是ノ故ニ相好荘厳即法身也︒元知ノ故一一能ク知ラザル
コト元シ︒是ノ故−二切種智即真実ノ智慧也︒
︵真
宗聖
教全
書I
の三
三七
頁︶
と説くが︑ここにみられるのは︑無知なる真実智慧から一切種智への展開︑無相なる無為法身から相好荘厳への展開︑
要するに第一義諦から世俗諦への展開である︒換言すれば般若から方便への展開だと言ってもよい︒
宗祖
の二
諦観
が︑
ひとえに﹃論註﹄のこの面を継承したものであることは︑
先の
﹃一
念多
念文
意﹄
や﹃
唯信
紗文
意﹄の引文を読めば直ちに理解できることである︒
﹃論
註﹄
では
二諦の相即を強調し︑先の真実智慧無為法身の釈
でも︑無相から相への展開︑無知から知への展開を説きながらも︑
﹁是ノ故ニ相好荘厳即法身也﹂著とか﹁是ノ故
一切
種智
即真
実ノ
智慧
也﹂
というふうに再び無相無知のレベルに引き戻している︒
しか
し︑
宗祖の著作においては
﹃教行信証﹄におけるこの﹃論註﹄の引文以外に︑右の内容をあらわす文は他にみられない︒要するに︑宗祖におい ては︑二諦相即というよりは︑第一義諦から世俗諦への展開のみが︑すなわち法性法身から方便法身への展開のみが︑
﹃論註﹄から継承されたと言ってよいのである︒
宗祖
の二
諦観
にお
いて
︑
いまひとつ特徴的なことは﹃論註﹄の二諦が原理的に中観思想に基いたかなりの幅のあ
る内
容を
有す
るの
に対
して
︑
ひとえに阿弥陀仏に限ってこれを適用していることである︒﹃論註﹄の二種法身説にお
げる諸仏菩薩を︑法蔵菩薩と解釈した上で先の﹃一念多念文意﹂および﹃唯信紗文意﹄の説を展開させていることが︑
その証明となることはいうまでもないであろう︒
阿弥陀仏の本願とその成就の象徴である名号は︑超因果の無為法身が因果界に顕現したものである︒法性法身︵第 一義諦︶が方便法身︵世俗諦︶の形態をとるとき︑すでに一切の因果的存在はこの世俗諦に包摂されている筈である︒
何故
なら
︑
﹃論註﹄における二諦はその本来的な約教の二諦︵世俗諦言説つまり教説は衆生をして第一義諦真如に導 くための誘引方便であるとする二諦説︶の意義を放棄して︑般若空︵第一義諦︶を体とする用としての世俗諦を説く ために依用されたものだからである︒すると︑これは実在を二分するものでなく︑実在の二重構造或いは実在の二面 性を表現するものであるから︑
一切の存在において︑これから除外されるものはひとつとしてない筈である︒とすれ ば衆生はすでに真如の一面である世俗諦中にあり︑それ故に第一義諦真如と即一であると言えはしまいか︒
しかし︑宗祖においてはそうではない︒衆生が第一義諦真如と即一である︑或いは直ちに真如を証するという立場 をとらないのである︒第一義諦真如である法性法身が︑因果界に方便法身として顕現し︑その上になお因果に即した 動きをあらわさなければならない︒従果向因︵真如より因果界に来生した如来として︶の方便法身が︑なおその上に 法蔵菩薩←その願行と成就←阿弥陀仏︵名号︶という因果に即した動きを示して︑
はじめて因果界にある衆生に接す
ることができるのである︒本願とその成就は︑それ故に︑従果向因した方便法身の︑衆生に対する更なるはたらきか けである︒因果界に或いは時間の世界に顕現している方便法身としての法性法身の︑衆生への絶えざる一体化の動き である︒宗祖においては︑如来とは因果の世界に在る身としての自己につねにはたらきかける阿弥陀仏以外にはなか
った
と言
えよ
う︒
四
︑ 以 上 を 背 景 と し て の 当 初 の 文 の 意 味
こういう宗祖の阿弥陀仏観を背景として考える場合︑当初の問題である
﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナ
親驚
二の
諦思
想に
つい
て
一
O五親驚の二諦思想について
一 O
六リ﹂の意味が︑先に挙げたような︑弥陀は第一義諦真如を衆生に示すための手段方便である︑という解釈とは全く趣
きを異にすることは言うまでもないであろう︒かと言って︑宗祖が弥陀や浄土を素朴に実在視して︑そこからすべて
が始まるとしているのでもないことは︑例えば﹃教行信一証L
真仏
土巻
に︑
仏は則チ是レ不可思議光如来ナリ︑土ハ亦是レ無量光明土也︒
︵十
具宗
聖教
全室
田
HH
の 一 一 一
O頁 ︶
とあるように︑弥陀身土を光明でとらえていることなどにうかがえるのである︒
とも
あれ
︑
﹁弥陀仏ハ自然ノヤウヲシラセンレウナリ﹂の一文だけをとり出して︑弥陀が無相の無上浬繋を指示す
るための方便手段であると解釈するには︑その背景となる宗祖の二諦観が︑﹂の解釈とは余りにも方向を具にするも
のであることは︑前節において既にみたとうりである︒
たとえクレウψに﹁方便﹂の意味を認めるにしても︑その方便は般若を体とする用としての方便であるべきで︑行
者が第一義諦真如に近づくための方便であるとは受け取り難い︒つまり︑弥陀のはたらきとしての方便であって︑方
便の教説という意味に理解すべきではない︑
とい
うこ
とで
ある
︒
﹂こで注目すべきことは﹁自然法爾﹂の法語は︑顕智上人真筆本および文明版﹃正像未和讃﹄本によると︑もと
もとは﹁獲得名号﹂を解説するものであったと推測されることである︒
獲字ハ因位ノトキウルヲ獲トイフ
得字ハ果位ノトキニイタリテウルヲ得ト云也
名字ハ因位ノ時ノナヲ名トイフ
号字ハ果位ノ時ノナヲ号トイフ
自然トイフハ自ハオノツカラトイフ行者ノ
ハカライニアラスシカラシムトイフ
コト
ハ也
@
然ト
イフ
ハシ
カラ
シム
・:
これは顕智上人真筆本であり︑文明版﹃正像末和讃﹄本とは︑文字使い以外に殆んど異同はないが︑自然の説明の二
行自から行の頭を下げてあるというところが異っている︒これは何を意味するのであろうか︒自然の釈が︑獲得名号
の付加的なものであったことを示すのではないだろうか︒尤も︑自然の釈の途中﹁弥陀仏ノ御チカヒノモトヨリ行者
ノハカラヒニアラスシテ﹂から︑再び行の頭が上って︑獲得名号の釈と同列になっているから︑決定的な理由とはな
し難いが︑自然の釈が獲得名号の釈に関連してなされたものであることは︑顕智上人間書の体裁からみて︑疑いを容
⑦
れぬ
とこ
ろで
ある
︒
自然の釈は︑本願成就の名号を説明するために為されたものであった︒しかも︑獲得名号をそれぞれ因果で釈し︑
名号が因果界に即してはたらく法身であることが述べられている︒宗祖における自然とは︑まさにこのはたらき︑す
なわち法性法身が法蔵|弥陀として因果界にはたらいているそのことを示すものであったに違いない︒自然は︑
した
がって︑名号の立場から解説されているのであって︑その逆ではない︒ここで阿部正雄氏の︑
親驚の場合︑空・一如は本願の側に立っていわれているのであって︑空・一如の側に立って本願がいわれている
のではありません︒それは︑親驚においては︑業があくまで罪業として問題とされたということと不可分にむす
⑥ びついているからです︒
親驚
の二
諦思
想に
つい
て
一
O七親驚
の二
諦思
想に
つい
て
一
O八という一文が︑大きな示唆を与えてくれる︒これは︑本願︵この場合︑弥陀仏・浄土等の有相の方便法身を代表する 語と解して差し支えない︶と空・一如︵この場合︑自然・無上仏・無上浬般市等の無相の法性法身︶との関係を述べた ものであるが︑これによれば︑本願すなわち方便法身から空・一如すなわち法性法身が導き出される︑換言すれば方 便法身が表で︑法性法身は裏ということであろう︒すると︑阿弥陀仏が法性真如への階程的方便であるという解釈と
は方向を逆にするものであると言わなければならない︒
さら
に︑
﹂れ
が宗
祖に
おい
ては
︑
﹁業があくまで罪業として問題とされたということと不可分にむすびついてい
る﹂と言われているが︑それは人間の現存在の底に法性真如という究極的真実を直ちに認める立場に︑宗祖が立って いなかったということである︒凡夫としての立場にしか立たなかった宗祖においては︑法性真如はあくまでも自己の 外にあるものでなければならなかったことは︑二種深信における機の深信をもち出すまでもなく明らかなことであろ ぅ︒人間の業が罪業にしかならないという自覚は︑本願という照射を得てはじめて成立することであり︑自己の底に
究極的真実を認める立場において言えることではない︒
﹁浬蝶をば滅度といふ︑元為といふ︑安楽といふ︑常楽といふ︑実相といふ︑法身といふ︑真如といふ︑
一如
と いふ︑仏性といふ︑仏性すなはち如来なり︒この如来微塵世界にみちノ\てまします︑すなはち一切群生海の心
にみ
ちた
まへ
るな
り︒
﹂
︵真
宗聖
教全
書E
の六
三O
頁 ︶
とある﹃唯信紗文意﹄の文は︑一見衆生の底に究極的真実を認めるもののごとくに読めるが︑決してそう読んではな
らぬであろう︒究極的真実又は如来の方からの衆生へのはたらきの方向を示すものと見なければならない︒
このように考えるとき︑最初に引いた﹃日本国語大辞典﹄のクレウタの意味のうちで︑﹁ある物事の根拠になるも